![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/78/12a596b69afb62d026f31dea22621049.jpg)
第16回箕輪城祭り見物、昨年は台風のために中止だったので今年も
心配したが絶好の好天。
駐車場所確保のために早めに現地入りし大会事務局でプログラムを
貰ったらお楽しみの攻防戦が従来の武田V.S長野ではなく「関ケ原の戦い」
に替わっていた。
初めから蛇足気味になるが推量するとこんな理由かと思われるので
戦国好きの爺イの一席。
1561年11月、名君・長野業政が没すると上野は周辺列強の草刈り場。
特に武田の西上州進出に周辺の小領主には武田に服すという選択肢以外に
生き延びる道は無くなっていた。
1566年、武田軍に箕輪城への総攻撃を仕掛られ長野勢は頼みの
謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し城主業盛は自刃して果てた。
この後、箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられるが
1573年武田信玄病没、室町幕府滅亡と時代は慌ただしく進み
1575年の長篠の合戦で勝頼の武田は衰退し1582年、織田・徳川連合軍の
侵攻と身内の相次ぐ離反・裏切りにより天目山の麓で惨殺され
武田氏は滅亡する。すると織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を
拝領し箕輪城を接収した。だが、その僅か三か月後に信長が本能寺の変
で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻し
同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破り
一益は伊勢に向かって遁走。又もや主が変わって北条氏政の弟・氏邦が
箕輪城に入城した。 この氏邦が寄居・鉢形城主であった縁で
箕輪まつりには鉢形城址三鱗隊が参列している。
歴史は更に足早に過ぎ、1590年に秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は
前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、
徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に
与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、
1598年に当時は和田と云われた高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は
廃城となり、直政が箕輪城最後の城主となった。
昨年のNHK大河ドラマの主人公・井伊直虎は直政の養い親なのに絡めて
昨年の祭り(台風で中止)からテーマが長野氏から井伊氏へと変わっている。
従って今年のテーマの関ケ原1600年の時は既に箕輪城は廃城となった後で
直政は高崎城主だったのだが。
さて、定刻に箕郷支所広場に集結した武者行列参加者推定300名超は
各地の甲冑愛好会や合戦に参加する地元の方々など、何時もの常連さん。
出陣式セレモニーの挨拶が終わると出口に移動して和弓礼射や火縄銃礼射を
見守る。
箕輪城まつり出陣式
隊列は途中で観客へのパフォーマンスをしながら県道を避けたコースで進む。
武者行列
箕郷小脇の法輪寺参道を辿り大手門に相当する「虎韜門口」に向かう途中で
子供隊の忍者部隊が「岩石落とし」の行事に参加して黄色い声を張り上げていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/a5/60269d3a0ffdaa22d9a85cb8ba94a748.jpg)
この場所は新しく整備された登山路で郭馬出西虎口門を経て二の丸で旧道と
合わさる。旧道の「虎韜門口」で休憩して隊列を整える。迎えるのは
行列の初めから休みなしで奮闘するお囃子保存会の子供たち。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/f3/1c5e17aefc6be1fc0421e080a0663223.jpg)
前方の丘で待機するのは小板橋さん率いる大砲隊。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/42/1713e029c43ca04ec79ee16adbd68269.jpg)
やがて御嶽教の一団のほら貝が鳴り響くと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/57/5a507c1392b6e841dde28129f1d4b246.jpg)
出発の合図に大砲の轟音。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/98/8b8e1a47b88d89c5aad68cea396e4237.jpg)
例年と違って大多数の隊列は少し戻って新道に入る。新道は幅広で木枠段。
二の丸の入口でもほら貝が吹き鳴らされ隊列を迎える。
メイン会場では武者行列と並行して既にアトラクションが順次進行中で
テント張りの中は観客で満員状態。武者隊が本丸入場を済ませ御前曲輪に
移動するとアトラクションは太鼓・踊りから演武へと移る。
箕輪武士愛好会の「演舞・箕輪武士」、上泉伊勢守顕彰会の「新陰流演武」、
北条鉄砲隊の「火縄銃演武」、源流剣法の「居合い」など。
お昼の休憩時間の後、漸く開会式。今年の主役の井伊直政には富岡高崎市長が
扮していたが鎧兜が重そうな足取り。来賓挨拶では例によって小渕優子氏が
立て板の水の口調で他を圧倒する貫禄。
鎮魂祭はこの箕輪城関連で命を落とした無数の霊を慰めるもの。主導は
箕郷町御嶽教の皆さん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/a8/10eb8c9a893b606d30bb9da84aa06dc5.jpg)
いよいよ、模擬合戦の開始。やたらと張り切っているのは子供武者、遠慮なく
暴れるので相手をする武者も気を使っている。一騎打ちを除いて前後5回も
集団戦が組まれているので日曜日のお父さんたち、大奮闘だ。
関ケ原井伊v s島津
東軍勝利の勝ち鬨で15時一寸過ぎ頃終了。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/0d/406dbbfacb8976977601d2e7ad7c44c7.jpg)
今年もナレーションの名調子で盛り上げた
お馴染みの講談師の神田山緑さんとツーショット。師匠がデカ過ぎ?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/5a/f18e7012951b7e704d8d43b71579a5b4.jpg)
撮影会を終えてから帰路に就くが、郭馬出西虎口門を振り返る。ここは
平成14年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入口(虎口)部分で
井伊氏時代の城門の柱の礎石が8石確認され、各地に現存している
近世初期の城門を参考にすることで、門の建物構造を推定できたとの説明。
平成26年度から伝統的工法で復元を進め、平成28年11月に完成。
この城門は箕輪城跡で発掘調査された7箇所の城門の中では最大規模
(幅5.73m、奥行3.48m)を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つであった
と想定されると云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/6a/df79943d9d908a4063fcea4cadbd9dfa.jpg)
道標に「観音様口」とあったのでそちらから下山するとひっそりと観音堂。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/81/e980167619636795175f9cec004de3ff.jpg)
直ぐに車道に達して駐車場所まで急ぎ足。予想外に多い11000歩の一日だった。
ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
登山・キャンプランキング
蛇足
今日のイベントには馴染みが薄い人物が沢山居たので記録に留めておく。
まず最初は友人の格闘集団・式の須藤さんが演じた長野業実の事。
神田山緑さんのナレーションでは「井伊家家老で長野業政の孫」。
記録では父は上野箕輪城城主長野業正の子の長野業親とされるが
自刃した業盛以外に生き残りの子は居ない。系図には見当たらないし、
業政の子供を信玄が生かしておくはずはないと思うが。推定するに
直系と見做されずに見逃された庶子か養子であろう。
最初は徳川家康の小姓となりその後、
井伊直政の家臣、小田原征伐では井伊勢の先鋒として小田原城内に
突入する功績をあげた。関ヶ原の戦いの功績で2000石、大坂の陣では
奉行として3000石、子孫は彦根藩の第三席の家老(4000石)として続いた。
と云う事で「家老」とはその子孫のことで本人の事ではない?
島津豊久(1570年ー1600年10月)
島津家久の子。関ケ原の戦いで「天運は既に窮まる。戦うというも
負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて
薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」という
(島津の退き口)で殿軍を務めたが、井伊直政勢が迫り、豊久は義弘の
身代わりとなって、大軍の中へ駆け入って討死した。
薩藩旧記雑録には、「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追討を撃退。
島津豊久、大量に出血」という内容が記されている。
長寿院盛淳 (生年不明~1600年)
島津義弘の家老。関ヶ原合戦で討死した豊久に続こうとする
義弘を戒め、自ら義弘を名乗って敵陣へ突撃。部下もそれに続き、
討死するまで中央突破までの時間を稼いだ。義弘は中央突破直前に
小高い場所に陣を張り、それを頼って逃れてきた西軍敗兵三百余も
軍に加えた。最終的に関ヶ原を脱出したのは二百余名であり、
九月二十三日には九州に向けて出航。その数、五十艘余に
及んだという。十月三日には大隅富隈に着岸した。
川上忠元と従卒・柏木源蔵
忠元は関ヶ原合戦中央突破直前に家康本陣に向かい、
西軍に属したのは不本意なことであったとする義弘の言葉を伝えた。
関ヶ原からの退却時、島津軍の殿(しんがり)軍は短筒の射撃で徳川軍を
退けたという。この時、忠元の従卒柏木源蔵は井伊直政を射撃、直政は
この負傷後、一年半後に死去。傷からの破傷風とも云うが破傷風の
発症から死亡は数週間なので推定では傷が癒えないうちに苦労を
重ねたからか? 弾丸の処理が十分でなく鉛毒か?
この銃は川上家の家宝として今も伝えられている。
島津の捨てがまり
本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、
追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が
全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して
時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。
足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、
壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。
退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、
あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を
狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉、
井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が
重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに
成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。
高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な
運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、
家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは義弘を
始めとした80余名であった。
心配したが絶好の好天。
駐車場所確保のために早めに現地入りし大会事務局でプログラムを
貰ったらお楽しみの攻防戦が従来の武田V.S長野ではなく「関ケ原の戦い」
に替わっていた。
初めから蛇足気味になるが推量するとこんな理由かと思われるので
戦国好きの爺イの一席。
1561年11月、名君・長野業政が没すると上野は周辺列強の草刈り場。
特に武田の西上州進出に周辺の小領主には武田に服すという選択肢以外に
生き延びる道は無くなっていた。
1566年、武田軍に箕輪城への総攻撃を仕掛られ長野勢は頼みの
謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し城主業盛は自刃して果てた。
この後、箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられるが
1573年武田信玄病没、室町幕府滅亡と時代は慌ただしく進み
1575年の長篠の合戦で勝頼の武田は衰退し1582年、織田・徳川連合軍の
侵攻と身内の相次ぐ離反・裏切りにより天目山の麓で惨殺され
武田氏は滅亡する。すると織田信長の家臣・滝川一益が上野一国を
拝領し箕輪城を接収した。だが、その僅か三か月後に信長が本能寺の変
で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が上野国に侵攻し
同年6月18日、19日、北条氏が神流川の戦いで一益を破り
一益は伊勢に向かって遁走。又もや主が変わって北条氏政の弟・氏邦が
箕輪城に入城した。 この氏邦が寄居・鉢形城主であった縁で
箕輪まつりには鉢形城址三鱗隊が参列している。
歴史は更に足早に過ぎ、1590年に秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は
前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、
徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に
与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、
1598年に当時は和田と云われた高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は
廃城となり、直政が箕輪城最後の城主となった。
昨年のNHK大河ドラマの主人公・井伊直虎は直政の養い親なのに絡めて
昨年の祭り(台風で中止)からテーマが長野氏から井伊氏へと変わっている。
従って今年のテーマの関ケ原1600年の時は既に箕輪城は廃城となった後で
直政は高崎城主だったのだが。
さて、定刻に箕郷支所広場に集結した武者行列参加者推定300名超は
各地の甲冑愛好会や合戦に参加する地元の方々など、何時もの常連さん。
出陣式セレモニーの挨拶が終わると出口に移動して和弓礼射や火縄銃礼射を
見守る。
箕輪城まつり出陣式
隊列は途中で観客へのパフォーマンスをしながら県道を避けたコースで進む。
武者行列
箕郷小脇の法輪寺参道を辿り大手門に相当する「虎韜門口」に向かう途中で
子供隊の忍者部隊が「岩石落とし」の行事に参加して黄色い声を張り上げていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6f/a5/60269d3a0ffdaa22d9a85cb8ba94a748.jpg)
この場所は新しく整備された登山路で郭馬出西虎口門を経て二の丸で旧道と
合わさる。旧道の「虎韜門口」で休憩して隊列を整える。迎えるのは
行列の初めから休みなしで奮闘するお囃子保存会の子供たち。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/f3/1c5e17aefc6be1fc0421e080a0663223.jpg)
前方の丘で待機するのは小板橋さん率いる大砲隊。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/42/1713e029c43ca04ec79ee16adbd68269.jpg)
やがて御嶽教の一団のほら貝が鳴り響くと
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/57/5a507c1392b6e841dde28129f1d4b246.jpg)
出発の合図に大砲の轟音。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/98/8b8e1a47b88d89c5aad68cea396e4237.jpg)
例年と違って大多数の隊列は少し戻って新道に入る。新道は幅広で木枠段。
二の丸の入口でもほら貝が吹き鳴らされ隊列を迎える。
メイン会場では武者行列と並行して既にアトラクションが順次進行中で
テント張りの中は観客で満員状態。武者隊が本丸入場を済ませ御前曲輪に
移動するとアトラクションは太鼓・踊りから演武へと移る。
箕輪武士愛好会の「演舞・箕輪武士」、上泉伊勢守顕彰会の「新陰流演武」、
北条鉄砲隊の「火縄銃演武」、源流剣法の「居合い」など。
お昼の休憩時間の後、漸く開会式。今年の主役の井伊直政には富岡高崎市長が
扮していたが鎧兜が重そうな足取り。来賓挨拶では例によって小渕優子氏が
立て板の水の口調で他を圧倒する貫禄。
鎮魂祭はこの箕輪城関連で命を落とした無数の霊を慰めるもの。主導は
箕郷町御嶽教の皆さん。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/a8/10eb8c9a893b606d30bb9da84aa06dc5.jpg)
いよいよ、模擬合戦の開始。やたらと張り切っているのは子供武者、遠慮なく
暴れるので相手をする武者も気を使っている。一騎打ちを除いて前後5回も
集団戦が組まれているので日曜日のお父さんたち、大奮闘だ。
関ケ原井伊v s島津
東軍勝利の勝ち鬨で15時一寸過ぎ頃終了。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/0d/406dbbfacb8976977601d2e7ad7c44c7.jpg)
今年もナレーションの名調子で盛り上げた
お馴染みの講談師の神田山緑さんとツーショット。師匠がデカ過ぎ?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/5a/f18e7012951b7e704d8d43b71579a5b4.jpg)
撮影会を終えてから帰路に就くが、郭馬出西虎口門を振り返る。ここは
平成14年度の発掘調査によって、郭馬出西側の出入口(虎口)部分で
井伊氏時代の城門の柱の礎石が8石確認され、各地に現存している
近世初期の城門を参考にすることで、門の建物構造を推定できたとの説明。
平成26年度から伝統的工法で復元を進め、平成28年11月に完成。
この城門は箕輪城跡で発掘調査された7箇所の城門の中では最大規模
(幅5.73m、奥行3.48m)を誇り、箕輪城を象徴する城門の一つであった
と想定されると云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/6a/df79943d9d908a4063fcea4cadbd9dfa.jpg)
道標に「観音様口」とあったのでそちらから下山するとひっそりと観音堂。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/81/e980167619636795175f9cec004de3ff.jpg)
直ぐに車道に達して駐車場所まで急ぎ足。予想外に多い11000歩の一日だった。
ご来訪の序に下のバナーをポチッと。
蛇足
今日のイベントには馴染みが薄い人物が沢山居たので記録に留めておく。
まず最初は友人の格闘集団・式の須藤さんが演じた長野業実の事。
神田山緑さんのナレーションでは「井伊家家老で長野業政の孫」。
記録では父は上野箕輪城城主長野業正の子の長野業親とされるが
自刃した業盛以外に生き残りの子は居ない。系図には見当たらないし、
業政の子供を信玄が生かしておくはずはないと思うが。推定するに
直系と見做されずに見逃された庶子か養子であろう。
最初は徳川家康の小姓となりその後、
井伊直政の家臣、小田原征伐では井伊勢の先鋒として小田原城内に
突入する功績をあげた。関ヶ原の戦いの功績で2000石、大坂の陣では
奉行として3000石、子孫は彦根藩の第三席の家老(4000石)として続いた。
と云う事で「家老」とはその子孫のことで本人の事ではない?
島津豊久(1570年ー1600年10月)
島津家久の子。関ケ原の戦いで「天運は既に窮まる。戦うというも
負けは明らかなり。我もここに戦死しよう。義弘公は兵を率いて
薩摩に帰られよ。国家の存亡は公(義弘)の一身にかかれり」という
(島津の退き口)で殿軍を務めたが、井伊直政勢が迫り、豊久は義弘の
身代わりとなって、大軍の中へ駆け入って討死した。
薩藩旧記雑録には、「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追討を撃退。
島津豊久、大量に出血」という内容が記されている。
長寿院盛淳 (生年不明~1600年)
島津義弘の家老。関ヶ原合戦で討死した豊久に続こうとする
義弘を戒め、自ら義弘を名乗って敵陣へ突撃。部下もそれに続き、
討死するまで中央突破までの時間を稼いだ。義弘は中央突破直前に
小高い場所に陣を張り、それを頼って逃れてきた西軍敗兵三百余も
軍に加えた。最終的に関ヶ原を脱出したのは二百余名であり、
九月二十三日には九州に向けて出航。その数、五十艘余に
及んだという。十月三日には大隅富隈に着岸した。
川上忠元と従卒・柏木源蔵
忠元は関ヶ原合戦中央突破直前に家康本陣に向かい、
西軍に属したのは不本意なことであったとする義弘の言葉を伝えた。
関ヶ原からの退却時、島津軍の殿(しんがり)軍は短筒の射撃で徳川軍を
退けたという。この時、忠元の従卒柏木源蔵は井伊直政を射撃、直政は
この負傷後、一年半後に死去。傷からの破傷風とも云うが破傷風の
発症から死亡は数週間なので推定では傷が癒えないうちに苦労を
重ねたからか? 弾丸の処理が十分でなく鉛毒か?
この銃は川上家の家宝として今も伝えられている。
島津の捨てがまり
本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、
追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が
全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して
時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。
足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、
壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。
退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、
あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を
狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。徳川方の松平忠吉、
井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が
重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに
成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。
高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な
運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、
家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは義弘を
始めとした80余名であった。
ヨボヨボ爺イの身では無理。せめてこんなことで
裏方で応援します。