群馬県内の河川で正式名称として「三途川」と付けられているのは甘楽町だけとの情報を得た。
かつて楚巒山楽会さんから赤城の山中に三途川と称するのが三箇所もあると聞いて訪ねた
ことがあるが、それらは何れも俗称で正式名称ではなかった。
それは次の概念図の三箇所。
吉井の町を南進してR-254から上信電鉄の「上州新屋駅」の広場に駐車。この辺のかっての
地名は新屋村の大字で県道の交差点名に名が残る金井。
線路の北側に見える菅原神社はパスしてR-254方面に僅かに南進すると直ぐに標識に出会う。
一級河川ともなると護岸整備を含めて風情無しだなーーと思いながら。
下流はこんな感じで曲がりながら白倉川に合流して直ぐに鏑川に注ぎ込む筈。
三途川は両岸に道があるが舗装された左岸を川上に歩くと、南進の角に宝勝寺。
ここは帰路にゆっくり寄る事にして先に進むと僅かの距離でR-254とクロス。
県道に掛かる橋が何とも思わせぶりな「三途橋」。
橋を渡って右岸に移ると其の角に指定史蹟になつている「姥子堂」があり解説看板。
説明板からそっくりそのまま。
姥子堂。姥子堂は、いつ建立されたか不明である。寛延3年(1750)の宝勝寺文書に、
境内地東西12間、南北6間半とあり、また、文政3年(1820)の同文書には、
閻魔山西光院本尊大日如来姥子堂ありと記され、宝勝寺の隠居寺になっていた。
この堂には奪衣婆が祭られている。奪衣婆は、俗に「聖塚のばあさん」と
呼ばれている。下の川を三途川といい、死者があの世へ行く際に
必ずこの川を渡るといわれ、その時、この姥は川端にいて死者の衣服を脱がせ、
その重さで罪の軽重を計り、生前に冒した罪を正し、閻魔大王に送る役目をしている。
善人は衣服を取られずに極楽へ案内されるとのことである。
早速、お堂の中を撮影。だが、何時も仲良くしてもらっている奪衣婆さんとは
まるで別人。明るくにこやかで????? 焼失により再建とはいっても此処までとは
思わなかった。ここで三途川命名の訳を納得。
苦笑いしながら更に上流に向かう。
周囲は完全に田園風景で柿もたわわに実り
叢に新旧の双神道祖神がひっそりと。
やがて再び車道とクロスする。橋の名が「大日橋」で角に姥子堂よりやや大きい建屋。
この地点は天引地区との境でこの建屋・大日堂の所は金井ではなくて天引。
右手には新屋小が隣接し其の間に古そうな石の鳥居。
真っ直ぐの奥に小さな石宮、新しい御幣が残っている。
左手に「聖徳太子」と「猿田彦命」の石碑。
掲額もなく何だか分からないのでここで奥の手。
甘楽町文化財担当に電話して文化財調査委員で地元の物知り博士・森平氏を
紹介してもらい携帯で詳細を聞き出す。
それに拠ると、この鳥居と石宮は「天神様」とのこと。但し明治時代に天引地区の
諏訪神社に合祀されたので掲額もなしだが10/15には地元民が例祭を催すとか。
本命の大日堂の右側に「大日如来塔」の石碑。
お堂の前に歌碑が一本、但し此れは秋畑の和歌の同好会が甘楽町の神社などに
立てているもので特に謂れはないそうである。
屋内はこんな感じ。
「北甘楽郡誌」の解説をそのまま載せると
「--小堂内の奥に木彫金色の観音像を安置す。その壇下に扉ありて此れを開けば
巨大なる石仏の大日如来半身を現して存置せらる。--古きものと見え顔面手掌いずれか
見分くべくもあらず。--全身の丈、恐らく八尺以上。背面の年号も見るを得ずーー」
森平氏に拠ると12月の丑の日に一般公開する以外には扉は開けられないと。
但し、石仏を見ても全体にボーとした形にしかみえないそうである。
この先を進んでも後は何も無く信越高速PAの東側を通過して上流に向かうだけなので
往路を引き返して寶勝寺に向かう。
本来の目的はこの寺にあるという吉田玄蕃家の累代の墓や獄死した津田頼母の墓を
探す事だが見るべきものは他にも多いと聞く。
明和事件の小幡藩への関連はかって「小幡雑感」として
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/686ea07093033f0c2e6494bbc9ff62bbに
詳細を記したが玄蕃は結果は無罪とされているがその後に自決したとも行方不明とも
伝えられ本人の墓石は無いく寺の記録に戒名が残っているだけらしい。
この寺は元々は岩平地区の上奥平に在ったのだが奥平氏が小幡に来た時に一緒に移転した
との言い伝えがあり、その後の領主、織田氏も松平氏も祈願所にしていたとの事。
本尊は大日如来。
山門の手前に大きな仁王様の一対があるが、H-17のコンクリート造りなので新しいもの。
山門を潜ると左手に無縁仏の供養塔のようなもの。
その横に定番の六地蔵。
反対側に「中世の石仏」の説明柱と室町時代の二体の石仏。相当古くてやや崩れているが
多分、左が「地蔵菩薩」で右が「薬師如来」?
若しかすると、近くにあるこっちの事かな?
本堂はH-18に改築されたばかりなので新品同様で歴史は感じられない。
吉田家の墓を探しながら塀際からずっと一回り。すると文化財の「文永五年板碑」。
陽の加減で写真にならないが其れでなくても摩滅していて肉眼でも良く分からない。
青色自然石の奥平氏祖先の碑らしいが文永の文字が残っているのでこの期間の建立で
間違い無しとの専門家の鑑定がされており北甘楽郡屈指の古碑とされている。
文永なら1270年代であり執権は北条時宗、元寇が始まった時。
其の左隣に宝篋印塔。応永八年といわれるので1401年で足利義満時代が終わり
義持に替わっている時。関東式と言われるがそれが大きさの事なのか?又は形式の事なのかは
知らないが大方の説明では「鎌倉時代の半ばから基礎の形状の異なる地方差がみられ、
関東式・関西式の二つに分けられる」となっていて何処がどう違うのかは良く分からない。
笠は下に二段ほど、上は四段ぐらいに見えるが四隅が大分欠落している模様。
頂部に相当する相輪は十段位か? 一番上に穴が開いて欠落しているようなので
そこに宝珠の様なものがあったのかも知れない。
側面は四面とも傷んでいて判然としないが何れも月輪内に梵字らしきもの。
基礎にも何か彫られているが全く判別不能、これも多分梵字の類か?
その後、墓地内を探すが玄蕃家のものは見付からず、とうとう住職の手を煩わして
所在を教えてもらった。
それは入り口近くの無縁仏供養塔の西側だった。世間を憚ってか通常見られる
「吉田家累代の墓」の表示はなく四基の石塔が並んでいるだけ。
正面からは刻字はまったく読み取れないので教えてもらわなければ絶対に特定は
出来ないだろう。
その中の一基だけの側面に漸く「吉田00ーー」の文字が見えたので其れを持って目的達成
とした。
上信・新屋駅に戻って一寸菅原神社に行ってみたが特に興味をそそるものは無かった。
村社か或いは道真に絡んだ雷避けか?
以上で甘楽町の史蹟探訪は終わり。体調未だしの状態ではこの程度が限度だが
紅葉本番までには間に合わせよう。
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