クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

行人塚のお勉強 H-18-7-28

2006-07-28 20:22:22 | 伝説・史跡探訪
史跡巡りや伝説の地の探訪をしていると時たま「行人塚」という言葉に
ぶつかる。これも今までの爺イの興味の範疇からは外れているもの。
早速、お勉強が必要。
倉渕の古い記録に村内7箇所にあると聞いてそんなに在るのか?
と再認識。物の本によると「入定塚」とも言われる行人塚とは、高徳の僧
などが生きたまま墓穴に入って往生を遂げた塚の事。「入定」とは座禅を
組み、身心を統一して静慮の境に入る事らしく、元々は禅修業の一つの
方法だったのに何時の間にか出家僧の死を意味するようになり、入定する
「行人」を葬った塚が「行人塚」。倉渕のものは調査時に実際に人骨や
被服の残片が見られたという家型石塔のものや、地元民の間で行人塚と
「言い伝えられている」ものなど色々らしい。
昨日は友人の葬儀で潰れたが巨人の逆転勝に気を良くして今日の雨模様も
気にせず倉渕へ。倉渕文化財マップには一つも載って居ないので探索の
苦労は覚悟の上。

(1)祐全寺行人塚
先ず、手始めに最も代表的な行人塚を尋ねて倉渕・原ノ谷戸にある先日
訪問したばかりの祐全寺へ。
三ノ倉・落合信号から2.1k地点で左折、直ぐに民家の空き地に駐車。
廃寺とは言え、山門脇には地蔵が並び西には多くの石造物。

南を探ると隅の方に夏草に覆われた1㍍以上の大型行人塚を発見。
かって高僧が入定し読経をしながら鈴を鳴らして数十日間生きてから
往生したとのこと。昔の調査で人骨が出たというのは此れである。
江戸時代初期のものらしく四面に経文らしきものが彫られ居る。

この高僧の事は祐全寺の焼失によって資料は無いとのこと。

(2)細入りの行人塚
祐全寺から西進して倉淵郵便局信号を過ぎてセブンイレブン駐車場先の
道を右折。3.1k。
この道は関東ふれあいの道でもあり「響きの森ゴルフ場」への近道。
爺イにとっては「杖の神峠」に行く得意の道である。右折して極く
僅かの左側の崖上に「戸春名神社」、ここに駐車。

神社の下を少し東進して川沿いに田圃の中を進むと、突き当りの山手に
墓地らしき石造物が多数見える。その間を通って少し登ったところに
巨大な行人塚。余りの大きさに思わず背比べ。

寛永16年(1639年)の銘があるから丁度大久保彦左衛門が没
した年。やはり高僧入定の言い伝えがあるそうだ。

(3)川除け行人塚
細入から3キロ西進して小栗上野介の菩提寺の「東善寺」の駐車場へ。
ここから烏川の方へ細道を行くと高台の中間に三体、頂上に三体の石像
がある。頂上の三体のうち、左端のものが行人の姿を刻んだもの、
中央が無縫搭、右端は稲荷の石宮。


言い伝えによるとこの地域の川荒れと飢餓を見かねた行者が人柱となり
河原に石を積んで石室を作って入定し、その後は洪水が無かったとか。
享保二十一年(1736年)の銘。中腹の石像(最初の写真)も
立派だが良く分からない。

(4)宮原の行人塚
川除け行人塚から「川田橋」を渡って宮原地区に入ると直ぐに右側に
赤の大鳥居。

「角落山大天狗郷宮」である。天保5年(1834年)に江戸城ご用材の
刈り出しに当って天狗の災いをのがれる為に角落大権現に祈祷したり
宮原に鳥居を奉納して郷宮を作ったが、その後の腐朽によって再建され
たもの。鳥居を潜って夏草の生い茂る崖を登ると古いが完全な形の
宝筐印搭がある。
地元ではこれも行人塚と呼んでいるが建立の由来は不明とか。


(5)川浦の行人塚(1)
宮原から国道に戻って西進し、権田信号を北軽井沢方面に左折、元の
倉渕農協、現在の倉渕公民館に駐車。3.3k地点。駐車場から東の
田圃を見ると数百㍍のところに墓や石像物が点在している。
その中に草に埋もれた宝筐印搭。

地元では行人塚と称しているが、何時の頃か高貴な武士三人が落ち延びて
きてこの村の世話になった。後日、村が難儀にあったときこの三人が入定
して村を救ったと言う
三人はお互いに見える場所を選んだそうでその一つがここ。

(6) 川浦の行人塚(2)
あと二人の入定場所が、更に1㌔西進した川浦小学校西と西ヶ淵と言い
伝えられているので探すが、どうしても見つからない。この地域の地主
さんを尋ねて聞いてみたがその記憶は無いというので諦めた。

(7)石上の五輪搭
折角なので帰り道にバス停・石上脇に駐車して先ず、「座主の墓」を
探した。この辺に室町初期の榛名神社の座主であつた快尊・忠尊・快承
の墓があると聞いたから。しかし、その地点と思われるところは綺麗に
再開発されて共同墓地の様。

その周りに数多くの石像物が並んでいるが表示も無いのでどれがそうなのか
分からない。いずれ調査。
そこから少し民家の間を山手に行くと、教育委員会の古い表示柱に
「しん寺跡」とあつた。

この辺り一帯は畑であるが古い寺の跡という。榛名神社の古文書には
「当山の挨拶寺」となっているそうである。挨拶寺とは現代で言えば
「応接所」であろうが、座主の住宅かもしれない。この跡地に五輪搭が
あるはずなので探したが見つからない。近所の人に聞いたら地主さんが
山の中に移したと言う。民家の間を山手に入り小さな墓地脇に
目ざすもの発見。


これで倉淵探訪は終わりで、そろそろ梅雨も明けるので山に戻る積り。

ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 諸説紛々長野氏伝承 H-18-7-25 | トップ | 再び仏体山登山道探し H-18-... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伝説・史跡探訪」カテゴリの最新記事