クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

ぶらりと安中を散策 H-19-2-1

2007-02-01 17:09:23 | 伝説・史跡探訪
急に平年並の寒気と木枯らしがやってきて、とても暖冬に馴れ切った
感覚では山行きの気分にはならない。それでも明日以降はもっと酷く
なるという予報なので、ぶらりと安中辺まで伝説・史跡探訪に。
(1) お八重ヶ淵
またまた、しつこくも甘楽・菊女伝説の続き。菊女伝説の伝播として
言い伝えられているとされるのでその確め。18号線で城下信号の先の
「安中文化センター」の駐車場へ。このセンターと南隣の「安中小」の
一帯は「安中城址」そのものである。センター南の縁に沿って東進し
敷地の切れ目から「九十九川」に向かって北に回ると「坂口門跡」の
標柱脇にそれはあつた。側面に微かに「明和・・」とあるので1770年
頃のものか?

「碓氷郡志」によると、ストーリーは全く菊女伝説と同じだが、殿様は
勿論安中城主、食器の中に針が発見され、八重か疑われて蛇や蝦蟇などと
一緒に大甕の中に入れられこの地の淵の底深くに沈められたというもの。
ただし、甘楽と違って殿様や虚言した女達にどんな報いがあったかは
判らないとなっており、女の泣き声や岸辺に立つ幽霊話によって
「お八重ヶ淵」の名が付いたと伝えている。
大体、女性・針・蛇・池の組み合わせモジュールは「古事記・三輪山神話」
が原型というが、此方は三輪山神話などは蛇への尊崇ぐらいにしか
理解していないのでピンと来ない。
直ぐ近くに「お八重橋」というのがあると聞いてさぞかし曰くありげな物の
筈と喜んだが、行って見たら唯の粗末な鉄製の橋。橋というより十八号線
を跨ぐ架線橋でガックリ。

それでも橋名だけは付いているので少しは慰め。

橋上からの妙義の眺めは秀逸、十八号から吹き上げる寒風が少々堪えるが。

(2) 旧碓氷郡役所
お八重ヶ淵から1区画南に行くと安中教会の向かいに「郡役所跡」。

安中市指定重文であるので良く管理されている。説明に拠れば明治十一年
(1878)の「郡区町村編成法」によって70ヶ町村の統括として
旧安中本陣で発足し、十年後に現地に設営、大火による焼失後、1911年
に再建されたものが現存。
(3) 安中城址
少し西に向かうと安中小の正門が右手の小路奥に見える。其の正門前にあるのが
「安中城址」の大きな碑。この近辺全てが城址だが、山城ではないので
文化センター・公民館・体育館・小学校に開発されている。但し、至るところに
古城の旧名称の看板が付けられてはいる。
裏には歴代の城主名がずらりと連署されているが、それを見るだけでこの城の
歴史が良く判る。安中(2)井伊(2)水野(2)堀田、板倉(2)、内藤(3)
板倉(6)()内は代数。

碓氷郡志には1559年安中忠正築城とあるが、これには伏線がある。
1557年に始まった北条氏康と武田信玄による上杉謙信包囲網である。
つまり、武田が西上州を踏み荒し、北条が佐野・足利を切り従え謙信幕下
の太田・長野を屈服させるとると言う盟約。
実は氏康はどうしても、上杉に取られていた松山城(埼玉・吉見)を奪還した
かったのだ。だが、ここは岩槻城主でもあった(この頃は中武蔵と言われた
江戸城に居た)太田資正の支配で上杉憲政の庶子・憲勝が入っていた。
太田資正とは著名な道灌の子孫で三楽斉と称し道灌の養子・資家の孫であるが
直系ではない。太田一族は皆「資」の付く名前なので判別し難い。勿論、信玄は
謙信に雪の三国越えをさせて、兵を疲労困憊させるのと、謙信が人質を
処刑しないのをよい事に、北条が来れば北条に付き、信玄が攻めれば
信玄に服従の擬態、その実、謙信を頼りにするという西上州弱小諸将の日和見
に少々お灸をすえるのが目的。

さて、武田の侵攻に対して長野・小幡・白倉・安中等上州勢は健闘するも敗北、
世に言う「甕尻みかじりの戦」である。しかし、不思議な事に古文書で
其の地点を明示したものが何一つ無いと言う。「甲陽軍鑑」の「三日尻」では
益々判らないし、その他の記録にも「碓氷郡の内」とか「安中の辺」「原市辺」
とか不明瞭。唯一、甘楽の「人見村」を「みかじり」と読む事から「西横野村」
地内「人見ヶ原」ではないかというのが正しいかな?甑尻とする記録もある。
再び、話しを戻すと、この時は幸いにも謙信が信州に出馬したので武田が軍を
引いた。これで安中忠正は危機を感じて昔から「野尻」といわれていたこの地の
秋間七騎の豪族を追い払って築城し「安中」と名付けたという。
1563年、再び武田が猛攻を仕掛ける。忠正は松井田城で、息子の忠成が
安中城で迎え撃つが馬蹄に蹂躙され、忠正は討ち死に、忠成は降伏。
以後、安中勢は武田の先鋒として各戦場で活躍し戦記にも名を残す。
だが、運命の1575年、長篠に従軍した忠成以下の安中兵は第5軍として
馬防柵に突入しニ柵まで突き破ったが猛射を正面から浴びて全身蜂の巣の様に
打ち砕かれて全滅し、故郷には一兵も帰還できなかった。
城の残党も尽く土民となり、ここに安中城は廃城。それから40年後のこと、
1614年、大阪冬の陣の後、井伊直勝が佐和山から転封され再築城したが
規模は小さく陣構え程度、従って今の城址は新旧混在。
その後、掛川に移った井伊の代わりが水野、領地没収の憂目にあって後釜が
堀田正俊、古河転出後は板倉、板倉が陸奥に出ると内藤、その後再び板倉で
維新を迎かえた。これでは、箕輪は長野氏と言うように、誰の城?と
言われても返答できないな。
(4) 奉行役宅と武家長屋
さて、大名小路と洒落た名前の車道を西進すると奉行役宅、市の重文であるが
入場には市民以外は210円也。

更に進むと武家長屋。明治初期の間取り図で平成元年に再現したらしい。
「大名小路ふれあい広場事業」によると書いてある。武家とは言うが
四軒長屋なら下級武士の住まいだろう。

日当りの良い縁側で一休みのパチリ。団体見学者に混じって寒風の中
駐車場に一目散で探訪終了。


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