汽水空間 ~言葉と次元の力学系へ~

身体で体感する言葉の世界をお届けします(*´∀`)♪

エッセイ 生きる意味に疲れたら

2018年11月03日 | 哲学



この世界とは、仮象である。
といえばなんとなくカッコつけた感じもする。

がしかし、生まれた意味とか考えてみても、
結局は答えも出ずな毎日である。

ややもすれば、お父ちゃんとお母ちゃんが
一時的な盛り上がりの末に、勝手に生まれ落とされた
とかいう感じにも思わなくはない。

そう、我々はお父ちゃんとお母ちゃんの
一夜のアバンチュールによって、
作為的にこの世界に引っ張り込まれたのだ。

じつは、そんな生きている状態というのは、
とてつもない無駄の上に成り立っている。

でも他人は、"良く生きよ"とか
"そんなんじゃダメ人間だ"、とか
"理知的に""道義的"やれ、だの
挙句果てには、人生をまるっと否定されたりする。

ああ、生きるのって難しい...
でも、ただ生きるのは本来、食い物と屋根さえあれば
誰でも難なく出来るものだ。

しかし、人間というものは厄介なもので
他所様の視線に敏感に生きる事を
余儀無くされている始末なのである。
特に人は集団で生きるから、とやかく言われるのである。

しかもこの群れには、ナゾの規則があって
ナゾのTPOがあって、さらに困った事に
礼儀を尽くさねばならないというナゾの地獄っぷり。

というのも、これぜーんぶ群れの維持ためのコストである。

このように、人間というのは、
"ただ食う"、"ただ寝る"といった事をする為に
わざわざ"意義"を付け加えようとするのだ。

やれ良い人間、やれ実りのある人生
道義的、律義やら、まったくやれやれである。


しかしなぜなんだろう?
困った人が居れば、
持ってるもので助ければ良いではないか。
持ってなければ、あげれば良いじゃないか。
もし何もなければ、一緒に探せば良いじゃないか。

と、色んな疑問が起こるけど、
人間というのは、いちいちそこにクレジットを結び
相手を縛ろうとするのだ。

そうそう霊長類学では、こんな面白い話がある。
とある群れが安定的に維持可能となる数は150人である。
これ、ダンバー数といって、この数の範囲なら
なんにもクレジットで縛る必要も、
群れ内でも諍いがあまり起こらない理想的な数らしい。

つまり、今の日本は群れの構成としては、
まったくのダメダメなのである。
このように人数が多すぎるから、
ヘンに働く意義を強調するし、
妙に真面目に生きる事を押し付けられるのである。

そうすべては、群れの維持のためである。
人間は、群れの維持のために病んで行くし、
最悪、自殺していく。
いくら命の尊さを説こうが、一向に減らないのは、
そもそも命の"尊さ"というものが、
ダメダメなのである。
そんなアップテンポな
ポジティブさなんて要らないのだ。

勤労の尊さ、聖人君子のような清やかさ、
我慢の精神 etc
のような"尊さ"を面前に、絶望して来たのに、
さらにその予想斜めを行く、"ネオ・尊さ"の概念で
死ぬのを抑え込むのは、もはや本末絶倒なのだ。

人間とは、群れの前に1人の人である。
1人の人の前には、
お父ちゃんとお母ちゃんのアバンチュールがあった。
生きるために必死なのは、また毎日辛いのは、
それは"食うため"、"寝るため"ではない。

それは、多すぎる群れを維持するためである。
だから、みやすけはもっと小さく群れろ、と言う。
どんどん小さくなって、勤労の意義とか、
社交辞令とか、真面目な人生から、
どんどん逃げろ。
そして、小さな仲間で助け合いながら生きろ。
一夜のアバンチュールでできた子供なら、
その子どもが仲間の元へ巣立てるまで、面倒を見ろ。
生きる意味なんか、考えるな。
そんなもん本質的に無いのだから。

生きる意味を考える事、
それこそクレジットで自分を縛る行為だ。
クレジットというムダなもので、
生きる事に臆病になるな。
むしろ、生きること自体、
全部まるっとムダなんだから。
そうだ、こんなムダなんかのために
病む必要なんて、ないのだ。

人間よ、今こそ
胸に秘めたる大志を今すぐに全部棄てよ!
そんな君は今日から自由だ。Fuu〜(^-^)

おわり、、
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エッセイ 人間が関係を持てるのは奇跡

2018年10月20日 | 哲学




最近よく思う
人間が関係を持つのは奇跡なんだと。

無機物から有機物が生まれて、そしてそれは生命となった。
もしこの世のすべてが無機物であったなら
ただ物理が作用するだけの冷たい世界となっていただろう。

しかし、有機物が生命を生み出したとき
この世界は、たんなる物理ではなくなったのだ。

"一寸先は闇"という言葉がある。
しかし、その一寸先はおろか、それより短いスケールでさえも
人にとっては未知なるフィールドなのである。

今見ている世界が本当の世界であるという保証は
残念ながら、どのような最先端の物理学はおろか
何千年と受け継がれてきた哲学においても、
それを確証するものは、無い。

人は、どのようにして
自分の身体以外の存在を知るのだろう?
そして、その確証の無い存在をどのようにして愛するのだろう。

人がもし単なる物ならば、
永劫に続く物理作用の中の
単なる一瞬のハプニングに過ぎなかった。

しかし、人はその単なるハプニングに
運命を強く感じ、深く愛を感じたりできる。

何が、信じる力となるのだろう?
この世界の中で、一番確かなのは
"自分が存在している"という事だけである。
しかし、他人が本当にそこに存在しているかの保証は、無い。

そんな自分以外の確証の無い世界が
ただ茫漠と広がっている。

人がそんな他人を信じる事が出来るのは、奇跡である。
未知なる存在に、強く結び付こうとするのが人間である。
未来永劫の物理から生まれた余剰。
冷たい世界から、温もりが生まれた。

人は人を求める。
自分の身体を包んでくれる、自分以外の確かな存在を。
出逢いとは、"確かな"存在と作用した時に生まれる。
自分以外の存在に確かな温かさを感じると
人と人は共鳴する。

人はその人に確かさを感じると、安心する。
そして、そんな確かな存在を感じている自分も
確かに存在していると安心するのだ。

人は、確かだと信頼できる人を通して
自分も確かに存在していると感じる事ができる。

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エッセイ 豊かな世界へ

2018年10月01日 | 哲学



人は、いだって"生きてる"事を肯定する。
生きてるだけで素晴らしい! なんて事を言う。

でもよくよーく考えてみればね
人なんてものは死んでいる状態の方が
遥かに長いという事に気付かないだろうか?

この宇宙が誕生したのは、130億年前とかなんとか言われてるけど、
この130億年の沈黙を通して、やっとこの世に産声を上げた訳だ。
人は生きてる状態を豊かに語ろうとする。
が、人というのは、この"130億年の死んでいる" 状態だった時の方が
遥かに豊かな時間を過ごしていたのだ。

人は五感を通して、この世の仕組みを知ろうとする。
しかし、森羅万象の世界は、このたった"五感" によって
その総てを知り尽くす事は不可能なのだ。
この森羅万象の世界とは、五感以上の遥かな豊かさによって
絶えず交換と輪廻を繰り返しながら、
人間の知りうる以上の世界を生み出している。

たかが五感でしか計れないものの視点なんてのは
結局は、仮象の世界でしかない。
人はそれ以上の豊かな世界の彩りの中で、"生かされている"
自分の力で積み立てた功績なんてのは、単なる妄想である。
人というのは、五感の中で生きていると思っている内は、
この130億年に渡っての、かつて
"死んでいた" 時代の豊かな世界の彩りを知り得ないだろうから。。

かつて "死んでいた" 時代の方が、
より豊かな世界を感じていただろう。
リアルこそは、この世に生を受ける以前の方が優勢だった。

人は、"生きている" 状態を通して自分を肯定するが、
そのような肯定感は、刹那的なものの見方に過ぎない事に気づかされるだろう。
人は "死んでいた" 時代を通してこそ、自分を肯定できる。
やがて "死んでいる" 状態に還る時に想いを馳せながら、刹那的な時間を生きる。
これを想うと人は、この世でひたむきになれるような気がする。
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合理性と死への快楽のエロティシズム 〜理性に緊縛された肉体は絶えず死を希求する〜

2015年06月11日 | 哲学

人間は他者を求めるとき、そこに自分の身体、精神の総てをその他者のイメージの中に投影しようとする。肉体が他者を求める衝動は、絶えず人間の存在を揺るがす。他者を愛するとは、自己の存在を総て、愛する他者の体内に浸透させようとする企てだ。愛の中に融けて行きたいと欲する人間の実存は、まさにその快楽の最中にこそにあるものだろう。しかし人間の輪郭を描く合理性は、絶えず自我の内部に、自己を呪縛する。それでも絶え間ない欲求の中で、自分が壊れてしまう事を恐れるのは、生命体としての秩序を守護するための装置である。

 

それはある意味での死への恐れである。人間は、実存としてではなく、生命の欲求として死を忌避する。生命が生命として秩序を維持するために、人間は人間であり続けようとする。その中での快楽とは、この合理性の世界に縛られた肉体を、その合理性から解き放とうとする思惑なのだ。それは、合理性によって構築されている森羅万象からの逃避の願望なのだ。人間を組織立てるあらゆる細胞の作用は、森羅万象の理を象る合理性の象徴である。人間の存在とは、そのような合理性の荒縄に緊縛された形で成り立つのだ。

 

ときに緊縛された人間に欲情するのも、そこに合理性に縛られた存在としての自己を、そこに投影するからだ。その緊縛され横たわる人間の姿こそ、森羅万象を象る合理性に同じく縛られた、自己の存在をそこに投影できるのだ。またそれがときに美しく想えるのも、そこに対面した自己が、その対象と同一化する事によって、一時的にその荒縄の緊縛から解かれたと感じるからだ。人間は、愛する対象と対面することで、自己の合理性の緊縛を解くことができるのだ。それは空中に浮遊したとき、重力を感じなくなる作用と同じだ。

 

森羅万象を象る合理性は、人間の肉体を締め付けるこの荒縄こそに、妖艶に象徴されているのだ。また荒縄に縛られた人間の姿は、合理性によって秩序立つ森羅万象もまた象徴しているのだ。よって、合理性を解くためのこの快楽こそ、森羅万象の理の世界から解き放たれた、本来の実存と合一化するための方法なのだ。それは人間を愛すること。またそこに合一を希求することもまた、森羅万象を超越する実存へのアプローチなのだ。そしてこの合理性こそは、生命たる人間を形作る生命体の本質をも意味している。

 

しかしその合理性の瓦解してしまった身体は、理性を見失った狂気の世界に引きずり込まれることになる。しかしこの狂気の世界こそは、生命として生存するためだけの生まれ出た肉体を持つことになった事態の所以である。このような狂気の世界は、秩序ある生命として生存している肉体の構造には、それが組み込まれていないのだ。人が狂気に襲われるのは、そこに秩序立つ肉体があるからだ。人間を象る肉体にとって、快楽に溺れ狂気に呑まれる事は、単なるエラーに過ぎない。

 

しかしとうの狂気の世界こそは、その外縁は、人を魅了する妖艶なる皮膜に覆われている。その皮膜は人間を仕向ける芳醇なる香りを漂わせているのだ。がしかし、大抵の人は、その内部には、決して足を踏み入れようとはしないものである。では、その狂気を忌避するのは、生命としての本能なのだとすれば、この世界の生存する人間の実存は、いかなる方策によって存在し得るのだろう。

 

人間は、快楽を求める所に、本当の意味での実存を求める。この合理性の鎖から解かれた瞬間にこそ、自己は燦然と、その実存が輝き始めるのだ。しかし合理性の破滅こそは、すなわち生命体としての肉体の死を意味している。しかし人間は、絶えずこの死の中で、実存の意義を見出そうとしている。死に本当の解放があるのなら、人間は、その死を欲求する快楽の中にこそ、本当の人間としての実存があるのだ。人間は、死への快楽に肉体の輪郭を融かし、その死に触れる瞬間に、本当の人間としての実存を感じるのだ。しかし人間は、そこに禁止の鍵をかけてしまい、それを禁断としてしまったのだ。人間は更にそこに、抑圧の構造を造り出してしまったのだ。

 

人間が人間を愛するとき、自己を形成するあらゆる細胞組織が震えだす。そして確固たる自己は、このとき愛する人間とのイメージの中で融解してしまう。肉体の輪郭が無くなるほどに燃え上がる愛とは、まさに死に触れる体験である。その死の前触れに、全身の細胞はその脅威に怯え、震えるのだ。人間は燃える愛の中に、絶えず死を希求している。愛に満ちる快楽は、合理性の縛られた存在ではなく、そこにこそ合理性から解き放たれた瞬間の芳醇なる実存の姿があるのだ。

 

人間は、森羅万象の理を形作る合理性からの解放を願っている。不意に沸き上がる人間を愛したいという欲望も、それは合理性の荒縄に緊縛された姿からの解放を願ってのことだ。人間が愛すること、その愛に飢えた姿は、きつく緊縛され身動きの取れない状態に苦痛を感じるからだ。人間は人間として肉体として存在していることに窮屈を感じる瞬間がある。ときに縛られた人間が身悶えする姿に興奮するのも、まさに人間の持つ自虐性に根ざす感情によるものだ。どのような人間もすべからず、人間の苦痛に歪む姿を見るのが快楽になることがある。それは、苦痛に歪む人間を見て嗤うことによって、きつく緊縛され、その苦痛に表情を歪めている自己の姿を嗤っているのだ。

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