汽水空間 ~言葉と次元の力学系へ~

身体で体感する言葉の世界をお届けします(*´∀`)♪

被害と加害について ー修復とアプローチ、そして成仏ー

2022年01月29日 | 哲学

人は誰しも、被害に遭う

そして、それと同じ数だけ、加害にもなる


世の中には、被害と加害を取り持つ

臨床的なアプローチ法があるという

しかし、どのような臨床的なアプローチ法を用いたとしても

被害の方が、割りを食い、結果的に溜飲を下げる側になるのは

必然的であると思う


大切なのは、アプローチでも、修復でもない

たとえば、身体は、傷を負うと、自然に修復する作用を持つが

しかし、完全に元に戻ることは、まれである

だいたいは、ケロイドなどが代表的てあるように

なんならかの痕を残す


これは、被害者の心境に置いても同じで

一度、釘を打ち付けられた木は、2度と元の姿になることはない


被害者の心は、特に

穴の空いたその姿を受け入れるしかない宿命を負わされる

どのような被害も、修復とアプローチで、直ることはない

たとえ、穴の空いた木に、ニスや塗装を施したところで

その形は、修繕されても、元に戻ったことにはならない


アプローチを換えたとして

高級なニスを塗ろうが、さらに2度塗り塗装を施したとしても

表向きの高級感は、増したとしても

それがもとの姿ではない

表向きの見栄えだけが、被害修復の本質でない<


大切なのは

何が、被害にとって修復となるのか、という指針である


そんななかで

加害は、遠距離からの祈りでしか、実質的には対応できない

2度とその穴の空いた木に触れることは許されない

実質的に、加害が被害に対して行えるのは

アプローチではなく、祈る事だけである


直接的な関係は、被害にとって、さらなる苦役である

加害が被害にとっての、最大最善の幸福を祈る

被害は、修復されるのではなく


成仏する


この被害が成仏を向かえるまでの一連の行いのなかで

加害は、被害が無事に成仏を向かえる一連の時間を祈る

一切の接触を絶ち、被害が成仏を向かえるまでの間に

加害は、それまでの苦役を祈ることで背負う


そして、永い月日が経ち

やがて被害が成仏を向かえる頃になり

それを風のうわさで、加害に伝わることが出来たなら

両者の想いは、初めて、お互いの苦役から

解脱することが可能なのだと思う。


被害と加害


そんな決して交わる事も、修復もされ得ない関係のなかで

両者の思いが、その苦しみから成仏する事を願う

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一人の人を救うとは?

2021年03月07日 | 哲学

ねぇ、知ってる?


一人の人を救うこと


それは、無限の未来を救うことと同じだと言うこと


その人の未来はもちろん


その人と出逢うであろう恋人

その子供、そしてその子孫たち


そして、その人と出逢うだろう人たちの未来

あらゆる可能性を、あなたは救うことになるんだ


だから、あなたが一人の人を救うことは

その人が、それから出逢うだろう

あらゆる人たちを救うことと同じなんだよ


だから

もし、あなたが一人の人を救ったのなら

それをぜひ誇って欲しい

胸を張って

勇ましくいて欲しい


そして、その手が

誰かの安心できる居場所になるのなら

あなたには、もう何も怖いものはない


そう、あなたのその手が

無限の未来を救うのだから

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エッセイ "死" を肯定するために生きている

2020年09月06日 | 哲学
前にとある人から、"死んだら後悔するものなのか❓"
と聞かれた事がある
 
うーん🧐🧐
そうだね、たとえ、もし自分が死んでしまったとしても
それでも、かつて歩んで来た道をひたすら自分で肯定してあげる事が大切だなと思うんだよ
 
何故かって❓
せっかく、この世の理からも解放されて
やっと一安心なのに、
生きて来たかつての道のりを否定するのは
なんだかかわいそうだなと思うんだよね
 
ビバ🌟この世からの離脱❣️
人生お疲れさんでした(^人^)
 
死んでる間は、軋轢塗れの人間社会からもサヨナラ〜(o´艸`)
せっかくの解放❣️
喜ばない理由なんて、果たしてあるのかい⁉️
 
と、、さて
そうそう死んだ後の "後悔" にはね
おおよそ、2通りのパターンがあると
みやすけは思ってるのさ
 
一つ目は、"遣り残して来た" という残存感
これはいただけないねぇ(◞‸◟ㆀ)
 
しかし、もう一つあるのは、
大切な人に期待して来たという、その裏側にある切望感
人は、大切な人と出逢うと
あれこれと期待する
こんな事したい、あんな事したい
一緒になって、いろんな事をしたい(´๑•_•๑)
 
特に人は大切な人と出逢うと
そこに無限に可能性を感じるものなのだ✨
 
そしてやがて死別したり、自分の人生が終わった時に
それでも “後悔してしまう" のは、
それだけその人に本気だったという事なんだよ🔥
 
その後悔は、決して弱さではない
あなたの強みなんだよ
 
だから、もし自分が死んだ後に後悔する事があったのなら
それだけ一入だった大切にしたいという気持ちを
せめて自分だけでも肯定してあげなくちゃ(*•̀ᴗ•́*)و ̑̑
 
結局、自分の事を肯定してくれるのは、最終的には、自分なんだな
 
もしあなたがこの世から去る時、
あぁ後悔だ〜⤵︎⤵︎⤵︎と悔やむ前に
その人を大切に大切にして来た、かつての
輝かしい想い出を思う存分に肯定してあげてね٩(ˊᗜˋ*)و
 
人生、お疲れさんでした❗
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詩コラム 人っ子1人救えない世界で

2020年04月05日 | 哲学

人っ子1人救えない世界

 

あなたは、そこで泣いている

誰にやられたの?

誰の言葉、拳でやられたの?

 

しとしとと降る雨は

やがて雨脚強く

霞む世界は、胸の内の孤独を映し出す

 

人っ子1人救えない世界で

 

この世界にはね、人を殺す人の方が圧倒的に多いんだよ

どれだけ聴き心地の良い喧伝文句が流れようとも

結局は、誰も救われてはいない

 

人っ子1人救えない世界で

仮にもし、あなたが1人でも、この世界で救えたのなら

それはとても偉大な事だ、と思わなければならない

 

大きな理想ばかりで、実は1人も救えてはいない

そこに甚大な犠牲を孕んでいても

自分は、"正しい" と開き直る

 

親は小言を投げるだけで、子供の人生から梯子を外す

たとえ、それで行き先を見えなくしたとしても

まるで素知らぬ顔の親を、ごまんと見てきた

 

仲間だけで、わいわいやっていればそれで良い

大きな言葉ばかりで、それ以外の周囲には、何も沁み込まない

 

この世界はね、人を殺す人の方が多いんだよ

人っ子1人救えない人の方が圧倒的にね

 

仮にもし、あなたがこの世界で、1人でも救えたのなら

それは、とても名誉だと思わなければならない

 

ねぇ、聴こえる?

 

あなたは、今そこで泣いている

しとしとと降り頻る雨は、強く胸を打つ

 

"誰にやられたの?"

差し伸べられた手は、あなたを誘う

"人っ子1人救えない世界" に産まれ落ちて

幾万もの命が、ここで死んで行ったように

 

"誰にやられたの?"

そっと見上げたその眼差し

霞む世界、誰も救えない、

雑踏があなたの胸をえぐる

人っ子1人救えない人々に揉まれ

殺されていく

 

差し伸べられた手

渦巻く、波にうねり、凍える

やがて、その瞳が誰かを救えますように

 

そんな世界を祈って

 

 



 

 

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エッセイ 多様さとは?

2018年12月19日 | 哲学


多様であるとは、なんだろう?

それは単に、カラーのバリエーションが、
キャンバスの紙上に増えることを言うのだろうか?

それか、様々な人種が、国境を超えて、
仲良しこよしに、手を繋ぐ理想世界のことを言うのか?

多様さ
それには、いろんな主張がある。
それを踏まえて、、
これからみやすけの考えをちょこっと述べてみる、、

多様、

多様であるとは、実は"余剰"のことを言うのではないか?
みやすけはそう思っている。

それは、
直接的に、その集団には何も貢献しない。
そう、彼らは一見、なんの意味の無いモノ達だ。
つまり、この集団にとっての"無駄"である。

しかし彼らは、一見無意味に見えるが
実は、その集団にとっての"遊び"の部分を担っている。
と言えると思っている。
そう、ここで言う"遊び"とは、

"余裕"

つまり、ある集団が多様であるとは、
その集団の中に、どれだけの余裕があるのか、
また、その余裕が寛容に
受け入れられているのかという事だ、

と思う。。

無意味さ
たとえば、男女の仲を超えて、
男女を問わない性関係が人間の内に成り立っているのも、
それは、人間の営みが、
単に生殖を指すだけのものではなくなった、
という余剰の現れではないか?
そう、この余剰こそ、性関係に多様さを与えた。

多様さ
これらを発生させるものこそ、
無意味なモノ達の出現なのだ。
生物が、理屈を超えた時に発生するモノ、
たとえば、交尾して子供作って、さっさと死んで行く、
という単純な、生物の目的を超えた瞬間に花開くもの。

それは、理由では決して説明できない。
この、理屈を超えた、"理由なき無意味"の発現こそ、
それが生物の"多様さ"なのである。

しかし、その多様さを、今の世界は病理にしてしまう。
"普通"という、目的に適った道理に戻そうとする医療行為で、
せっかくの多様さを無くそうとしている。
多様さとは、生物にとっての余裕の現れであるのに。。

生物を"目的の輪廻"から解放し、
自由闊達な"遊び"のある世界へと手を引くのは、
実は、こうした無意味なモノ達の役割なのである。

つまり、無意味なモノ達にも、
その集団にとっての意味はきっちりとある、
ということだ。

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エッセイ "視線の福祉"

2018年12月09日 | 哲学


障害を持つ人たちは、よく見られる。
特に外見に目立った特徴のある人は、特に。。
子供が障害を持つ人に指差すと、
親はその指を叩いて、見ちゃダメだと言う。

確かに、視線は時として嫌がらせになる。
誰だってまじまじと無意味に見られたくはない。
それは障害を持った人でも同じなはず、、

しかし、なぜ異質な人ほど人は見るのだろう。

それは、人は、異質な人を"見る"のではなくて、
その人を"観ている"のだと、みやすけは感じる。

異質なものを、ただぼうっと傍観しているのではなく、
なにかしらの感情を通して、
自分の内面に投影している。
それが、異質な人を"観る"という行為だ。

ややもすれば、その"観る"は差別にも繋がる。
しかし見方を変えれば、それは"福祉"にも繋がる。
とみやすけは思っている。

人は、異質な人を観る事によって、
ときとして差別をする。
でもその"視線"で異質な人を護ろうともする。
特にお年寄りなどに向ける視線は、
おそらく、これによくあたると思う。。

この時、"差別"と"福祉"は、"視線"を通して邂逅する。

人は差別する為に異質な人を見る。
でも、またこの時、
その異質な人に何か異変があれば、
すぐさま対処する心構えをしているのだ。

流れ行く膨大な景色のなか、
その人が異質で景色から浮いているのは、
それは、いざとなったら"助け"が必要だからだ。
そう、いざとなった時の"助け"が必要な人ほど異質に見える。

つまり、お年寄りがあの風貌なのも、
障害を持った人たちが、どこかしら変な風貌なのも、、
これらは、"視線の福祉"に護られるための戦略なのだ。
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エッセイ 人生の引き際

2018年12月04日 | 哲学


人生、引き際が肝心
だと、最近は思ってる

それは、自分の居たスペースを他人に譲る。ということ。
人は、その居場所の居心地の良さを、一度体感すると、
そこから立退くことが億劫になる。
そこにずっと居座ろうとする。

しかし、なんでもそこには"流れ"というのがあって、
どんな立場も、年数が経てば、自ずと古くなってしまう。
上手くピースがはまらない感覚がしてくる。

そんな自分が必要か必要で無いかの瀬戸際に
"人生、引き際"の岐路がある。

その岐路に立たされた時、そこに意地でもしがみつくのか、
はたまた他人に譲るのかという二択で、その人の度量が試される。
とみやすけは思っている。

たとえばね、
今、いろんな会社で後輩が育たない。

やる気が無い、根性が無い、とか
いろんな難癖をつけて、後輩をいたぶる人が多い。

仕事は見て盗めなど、働く背中を見ろ的な
言い分をする人達も居る。

そんな今、会社で後輩が育たないのは、
先輩達がいつまでも現役気分でいて、
"人生、引き際"の岐路を見失ったからではないか?

"人生、引き際が肝心"

パズルに合わなくなったピース達は、
自ら、無理にそのフレームにねじ込む事によって、
結局、その居場所をダメにしている。

場の"流れ"を大切にしたい。
その想いは、その居場所に対する愛情である。
居場所を失う恐怖こそ、
その居場所にある自分を死守する行為である。
それは居場所を、エゴで縛る行為だ。

"形の合わなくなったピース"

もし、自分がそうなってしまったら
他人にその居場所を譲る。

やがて、何もしなくてもよくなったピース達は、
その居場所にとっての"余暇"になる。

その"余暇"は、溜まれば溜まるほど
その居場所にとっての風になる。
人は"余暇"を求めて、居場所にやってくる。
そういう"余暇"は、あるだけあった方が良いのだ。

余暇とは、経験
余暇とは、積み重ね
余暇とは、そこに"居る"ということ。

"人生、引き際が肝心"であるとは、
そこに"余暇"を作ることなのだ。

この"余暇"があってこそ、
人から求められ続ける居場所になる。

たとえばそう、先輩達がその会社内の"余暇"になる事で、
後輩達が働きやすくなるといったように。。

"余暇"は、居場所の流れになる。
その"流れ"は、きっといろんな人にとっての出逢いにも繋がる。
そう、その"出逢い"のきっかけこそ、
実は"余暇"そのものであるから。

あなたの人生も、
そういう"余暇"に満ち溢れたものになりますように。
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エッセイ "暴力"

2018年12月03日 | 哲学


これからするお話は、たとえばのお話、、である。

読者の中で、暴力の被害を受けた事のある人は居ますか?
たぶん、ほぼみんなが手を挙げると思う。
そしてたぶん、その悔しさ、怒り、悲しみを
語ると、ずっと語りたくなるだろう、と思う。
誰だって被害を受けた事がある。
そう、誰だって被害者だ。

しかし、その逆はどうだろう。。
読者の中で、"暴力を振るった事のある人は居ますか?"
はたして結果は、、
決して想像で決め付けたくはないけど、
おそらく、被害を受けた時よりかも数は減ると思っている。

これも、たとえば、、の話。
ある犯罪者が居た。
彼の名はテッド・バンディ。
いわゆる彼はシリアルキラーだ。
そう殺人鬼だ。
当時、彼はたくさんの人を殺めた。

誰もが認める暴力の加害者、である。
しかし、そんな彼の生育歴を見てみると、、
幼少期、彼はお父さんとお母さんから捨てられた。
そして、おじいちゃんに育てられた。
でも、そのおじいちゃんから
虐待を受けていた、、という。

きっと、このお話を聞いて、、あっと思うだろう。
でも、この手のお話は、
きっと他でも聞いた事のある類いでもあると思う。
そう、この手の"虐待"はありふれている。。

話を戻そう。
読者の中で、被害を受けたと思う人の数と、
暴力を振るった事があると認識している人の数の間には、
おそらくギャップがあると、みやすけは言った。

しかし、この地球上で、人間である限りにおいて、
暴力をまったく振るった事の無い人が居るのだろうか。
誰彼に向ける視線、不意の言動、
そして直接的に相手が嫌な顔をする瞬間、、
これらは、日常でありふれている光景だ。
相手が嫌な顔しない、相手が困惑しない、
そういう不意の瞬間が全く無い関係というのは、
たぶんあり得ないと思っている。
どこかしら、人は人間の関係において、
嫌な感じのする瞬間がある。。

では、どこからが"暴力"になるのだろう。
その境目というか、決定的な定義は無い、
というのがみやすけの感じるところである。。

それは、そのグレーゾーンが限りなく広がっている中で、
いつ誰から、訴えられるのかが明確ではないという事である。

そうつまり、あなたが加害者であるかないかの境界は、
すごくあやふやなものでしかない、、という事である。
被害体験は明確でも、相手に加害を加えてしまったというのは、
すごくあやふやなものでしかない。

だから、当時そんなつもりはなくても、
実は暴力だった事もあり得るという事だ。。

それなら、先程の殺人鬼のである彼のケースではどうか?
そう、自分がそうなるのか、ならないかの境界というのも、
実は、あやふやなものでしかない。

なぜなら、彼の受けた虐待は、今でもありふれているからだ。。
つまり、自分が暴力を加える加害者の立場か、
はたまた被害者の立場になるのか、という境界をも、
実はあやふやなのもでしかない、、

この被害者、加害者、という立場、
そして被害を受ける、加害を加えるという立場をも
実はあやふやなものである、、というのは、
暴力そのものの存在をあやふやにしている。

そして、よーく考えたら、誰にだってある瞬間なのに、
暴力を振るう事に関してのみ、
自分には関係の無い事として思い込んでいるのは、
それこそ、この世から暴力が無くならない一因だと思っている。

誰だって、一歩間違えれば、彼のような殺人鬼になり得るのだ。
なぜなら、彼の受けた暴力は今でもありふれているからだ。
では、そのありふれている暴力とは、なんだろう。。
それは、あなたから振り下ろされたものかも知れない。
なぜなら、その"きっかけ"とは、結局あやふやなものでしかないからだ。

そう、誰にだってあるもの、、それが"暴力"だ。
それが結局、自分には関係の無い事、
とするのが、自分の暴力性への無関心に繋がっている。

さあここまでお話して、もう一度、聞こう、
読者の中で、暴力を振るった事のある人はいますか?
はたして、今度はどれだけの手が挙がるのだろう。。

しかしみやすけは思う、
人間である限り、そう、誰だって加害者である、と。
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エッセイ 人間に期待してしまうあなたへ

2018年11月17日 | 哲学



人間関係やってて、つくづく思うのが、
やっぱり人は自分が一番可愛いのだという事だ。

相手に込めた想いが、こちらに100%の形で返してくれる。みたいな感覚ってやっぱり、どこかしらある。そう、誰だって。

相手を想う気持ち、それはこんだけの事したんだから、
これだけ返してくれて当然。みたいな。
そんな期待値をちまちま計算して、人は人間関係を営んでる。

そんな気がする。

やっぱりね、人間には期待してしまうのです。
そう、それは自分に対するレスポンスを、特に。
でも、人間というのはそんな単純なものではない。

仮にこちらが100篭めたとしても、
その見返りは80だったり、最悪20だったりするし、
本当に悪党だと、-40くらい、
つまり逆にむしり取られたりする。

そんな、1+1=2とならない世界の中で、
人間たちは時たま、ちょろっと漏れてくる利息と、
わずかな利害のやり取りに一喜一憂しているのだ。

でも、世の中にはピュアな人も居たりする。
100以上のものを人に与えようとする人たちの事である。

しかし、人は人間に期待し過ぎである。
むしろしないくらいの距離感が丁度良い。
どうせ人間のやる事だ。
なんでもそう高を括る方が、
この世で人間をしていくうちは比較的に楽になれる。

ような気がする。

例えばある人に怒り狂っているのだとすれば、
それはその人への期待する気持ちの裏返しである。
こうこうすれば、あの人はきっと変わってくれる。
そう思っているのだ。

動いている物体の動きを、バチコーンとぶつけて方向を変える。これが怒りである。
とみやすけは思っている。
そうする事で、あの人が言うこと聞いてくれる。
そうして、こっちの思うように誘導する。

しかしそれは、裏を返せばこれだけの気持ちを込めて、それが必ずこっちに返ってくる、という期待の表れである。

でも、人間なんかに期待をしなくなれば、
ああ、また人間がなんかやってるわ。
と流せるようになる。

しょせん、人間同士の言い合いとは、
結局のところ自己弁護の応酬なのである。
お互いに守りに入って、その権利を主張し合うからこそ、人間はいがみ合うわけである。
とどのつまりは、お前だけ得しやがって、けしからん!
という事を言い合っているのである。

いっそのこと、生きる権利なんか全部丸投げて、
全部まるっと期待なんて捨ててしまえ。

期待値なんか計算したペーパーなんか殴り捨ててさ。
人間なんて所詮そんなもん。
期待するだけムダ、ムダムダ!
という距離感でいられたら、、

だから、みやすけは、人間なんかに期待してない。
恋もセックスも、愛も、求めるだけムダである。
むしろ、請求するだけ、相応の利息を取られる。
なぜなら、相手は人間だからである。
人間とは所詮そんなもんである。
でもお金くれたら、めっちゃ嬉しい。

だから、そんな他人より自分を充分に労わる事が重要。
しかし不思議な事に、自分を大切にする事ができれば、自然と他人に対する接し方が分かってくる。

なぜなら、自分の気持ちイイ事は、
大抵他人にとっても気持ちのイイものだからである。
自分を労わるやり方を学べば、その分、他人にも優しくなれる。

つまりこうだ。
他人への接し方は、自分への接しかたの表れである、と。

だから、他人に期待せず、自分を大切する生き方を、
みやすけは推奨します(^-^)
人間関係で辛いなら、期待なんか捨てな。
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エッセイ この世界に存在している理由

2018年11月03日 | 哲学




最近、生きる事がなんだかうるさい。
生きる事を賞賛するのはまだ良いとしてね。
近年になっていよいよ生きる事が過剰になって来た、と感じる。

生きる事に、そもそも意味なんて無い。
お父ちゃんとお母ちゃんがたまたま出逢い、
たまたま盛りがついて、
そして結果、みやすけがここに居る。

なんて事はない、この世界に居るのは、
そういうたまたまが重なっただけのことである。
そんな世界に一体なんの意味があるのか、、

実は意味もなく、ただ茫漠と広がっている
それが世界である。
そこに様々な意味を付けるのが、人間の大脳である。
大脳によりすっかりと整理整頓された世界を
理性のコンパスと感受性の舵を切って進んで行く。

なぜその先を行くのか?
それはみやすけが存在しているからである。
みやすけがみやすけの存在を知ったとき
ぐーーんとその世界は広がった。

宇宙がビッグバンを起こした。
そして神が光あれと言った。

これらは、みやすけがみやすけを知った瞬間のお話である。

宇宙は、宇宙自らを知った時、ビッグバンを起こした。
神さまがみやすけにみやすけの存在を知らせるために
光をあらんとした。

あらゆる存在は、自分が居る事を知ったがゆえに
存在しているのだ。

存在しているすべてには、意識が流れている。
非生命か生命かの瀬戸際には、
自分が存在している事を、自ずと知っているという領域がある。
この自覚の瞬間に、生命は生まれるのだ。

このような気づきの瞬間を
生きる為の目的で潰してはならない。
生きる事とは、それ自身、目的ではない。
目的というニンジンをぶら下げられて
ひたすらさっさと疾走するのではない。

命は燃え尽きるために在るのではなく、
ただ知ってしまったからこそ、
記憶の限り、永遠に続くのだ。

命が続くのは、そこに感動があるからだ。
人との繋がり、世界との調和、
喜怒哀楽、四苦八苦、
そのような感受性が輝く限り、
みやすけはみやすけを忘れないだろう。

この世界にずっと想い出が残る限り、命は生き続ける。
そう、この世界に、生きているという実感がある限り。
みやすけは、みやすけを決して忘れないだろう。

生きる事とは、それ自身目的ではない。
それは生きる事そのものが、みやすけという存在を、
記憶し続けているという事だから。
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