
多様であるとは、なんだろう?
それは単に、カラーのバリエーションが、
キャンバスの紙上に増えることを言うのだろうか?
それか、様々な人種が、国境を超えて、
仲良しこよしに、手を繋ぐ理想世界のことを言うのか?
多様さ
それには、いろんな主張がある。
それを踏まえて、、
これからみやすけの考えをちょこっと述べてみる、、
多様、
多様であるとは、実は"余剰"のことを言うのではないか?
みやすけはそう思っている。
それは、
直接的に、その集団には何も貢献しない。
そう、彼らは一見、なんの意味の無いモノ達だ。
つまり、この集団にとっての"無駄"である。
しかし彼らは、一見無意味に見えるが
実は、その集団にとっての"遊び"の部分を担っている。
と言えると思っている。
そう、ここで言う"遊び"とは、
"余裕"
つまり、ある集団が多様であるとは、
その集団の中に、どれだけの余裕があるのか、
また、その余裕が寛容に
受け入れられているのかという事だ、
と思う。。
無意味さ
たとえば、男女の仲を超えて、
男女を問わない性関係が人間の内に成り立っているのも、
それは、人間の営みが、
単に生殖を指すだけのものではなくなった、
という余剰の現れではないか?
そう、この余剰こそ、性関係に多様さを与えた。
多様さ
これらを発生させるものこそ、
無意味なモノ達の出現なのだ。
生物が、理屈を超えた時に発生するモノ、
たとえば、交尾して子供作って、さっさと死んで行く、
という単純な、生物の目的を超えた瞬間に花開くもの。
それは、理由では決して説明できない。
この、理屈を超えた、"理由なき無意味"の発現こそ、
それが生物の"多様さ"なのである。
しかし、その多様さを、今の世界は病理にしてしまう。
"普通"という、目的に適った道理に戻そうとする医療行為で、
せっかくの多様さを無くそうとしている。
多様さとは、生物にとっての余裕の現れであるのに。。
生物を"目的の輪廻"から解放し、
自由闊達な"遊び"のある世界へと手を引くのは、
実は、こうした無意味なモノ達の役割なのである。
つまり、無意味なモノ達にも、
その集団にとっての意味はきっちりとある、
ということだ。