汽水空間 ~言葉と次元の力学系へ~

身体で体感する言葉の世界をお届けします(*´∀`)♪

エッセイ 人間に期待してしまうあなたへ

2018年11月17日 | 哲学



人間関係やってて、つくづく思うのが、
やっぱり人は自分が一番可愛いのだという事だ。

相手に込めた想いが、こちらに100%の形で返してくれる。みたいな感覚ってやっぱり、どこかしらある。そう、誰だって。

相手を想う気持ち、それはこんだけの事したんだから、
これだけ返してくれて当然。みたいな。
そんな期待値をちまちま計算して、人は人間関係を営んでる。

そんな気がする。

やっぱりね、人間には期待してしまうのです。
そう、それは自分に対するレスポンスを、特に。
でも、人間というのはそんな単純なものではない。

仮にこちらが100篭めたとしても、
その見返りは80だったり、最悪20だったりするし、
本当に悪党だと、-40くらい、
つまり逆にむしり取られたりする。

そんな、1+1=2とならない世界の中で、
人間たちは時たま、ちょろっと漏れてくる利息と、
わずかな利害のやり取りに一喜一憂しているのだ。

でも、世の中にはピュアな人も居たりする。
100以上のものを人に与えようとする人たちの事である。

しかし、人は人間に期待し過ぎである。
むしろしないくらいの距離感が丁度良い。
どうせ人間のやる事だ。
なんでもそう高を括る方が、
この世で人間をしていくうちは比較的に楽になれる。

ような気がする。

例えばある人に怒り狂っているのだとすれば、
それはその人への期待する気持ちの裏返しである。
こうこうすれば、あの人はきっと変わってくれる。
そう思っているのだ。

動いている物体の動きを、バチコーンとぶつけて方向を変える。これが怒りである。
とみやすけは思っている。
そうする事で、あの人が言うこと聞いてくれる。
そうして、こっちの思うように誘導する。

しかしそれは、裏を返せばこれだけの気持ちを込めて、それが必ずこっちに返ってくる、という期待の表れである。

でも、人間なんかに期待をしなくなれば、
ああ、また人間がなんかやってるわ。
と流せるようになる。

しょせん、人間同士の言い合いとは、
結局のところ自己弁護の応酬なのである。
お互いに守りに入って、その権利を主張し合うからこそ、人間はいがみ合うわけである。
とどのつまりは、お前だけ得しやがって、けしからん!
という事を言い合っているのである。

いっそのこと、生きる権利なんか全部丸投げて、
全部まるっと期待なんて捨ててしまえ。

期待値なんか計算したペーパーなんか殴り捨ててさ。
人間なんて所詮そんなもん。
期待するだけムダ、ムダムダ!
という距離感でいられたら、、

だから、みやすけは、人間なんかに期待してない。
恋もセックスも、愛も、求めるだけムダである。
むしろ、請求するだけ、相応の利息を取られる。
なぜなら、相手は人間だからである。
人間とは所詮そんなもんである。
でもお金くれたら、めっちゃ嬉しい。

だから、そんな他人より自分を充分に労わる事が重要。
しかし不思議な事に、自分を大切にする事ができれば、自然と他人に対する接し方が分かってくる。

なぜなら、自分の気持ちイイ事は、
大抵他人にとっても気持ちのイイものだからである。
自分を労わるやり方を学べば、その分、他人にも優しくなれる。

つまりこうだ。
他人への接し方は、自分への接しかたの表れである、と。

だから、他人に期待せず、自分を大切する生き方を、
みやすけは推奨します(^-^)
人間関係で辛いなら、期待なんか捨てな。
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詩 声に唆されて

2018年11月05日 | 奇想の詩



別つ瞬間を想う
身体 強張りし 響音に偲ぶ声
雨音の清 静寂と心音が 揺れる

抱き抱えた ままのその命
滾る水音 絶え間の無い 心拍
消えた 路跡 波状の憂鬱
盲滅法の悪戯

巡り逢い 別れ道に
今宵誘う やがてその手に魅かれるまで
抱き抱えた ままのその命
やがて穿つ 闇の戸口 響音を偲ぶ
声に唆されて

雨音の清 静寂と心音が乱れて
消えた 路跡 憂鬱の雨に 波状の蔭を
やがて穿つ あの闇の裡まで

壊してあげる
孰れ 静寂に還える 瞬間の
無垢な生命
やがて穿つ 闇の戸口 その心音を偲ぶ
声に唆されて

偲ぶ しのぶ
滾る たぎる
唆されて そそのかされて
孰れ いずれ
穿つ うがつ
響音 きょうおん
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エッセイ この世界に存在している理由

2018年11月03日 | 哲学




最近、生きる事がなんだかうるさい。
生きる事を賞賛するのはまだ良いとしてね。
近年になっていよいよ生きる事が過剰になって来た、と感じる。

生きる事に、そもそも意味なんて無い。
お父ちゃんとお母ちゃんがたまたま出逢い、
たまたま盛りがついて、
そして結果、みやすけがここに居る。

なんて事はない、この世界に居るのは、
そういうたまたまが重なっただけのことである。
そんな世界に一体なんの意味があるのか、、

実は意味もなく、ただ茫漠と広がっている
それが世界である。
そこに様々な意味を付けるのが、人間の大脳である。
大脳によりすっかりと整理整頓された世界を
理性のコンパスと感受性の舵を切って進んで行く。

なぜその先を行くのか?
それはみやすけが存在しているからである。
みやすけがみやすけの存在を知ったとき
ぐーーんとその世界は広がった。

宇宙がビッグバンを起こした。
そして神が光あれと言った。

これらは、みやすけがみやすけを知った瞬間のお話である。

宇宙は、宇宙自らを知った時、ビッグバンを起こした。
神さまがみやすけにみやすけの存在を知らせるために
光をあらんとした。

あらゆる存在は、自分が居る事を知ったがゆえに
存在しているのだ。

存在しているすべてには、意識が流れている。
非生命か生命かの瀬戸際には、
自分が存在している事を、自ずと知っているという領域がある。
この自覚の瞬間に、生命は生まれるのだ。

このような気づきの瞬間を
生きる為の目的で潰してはならない。
生きる事とは、それ自身、目的ではない。
目的というニンジンをぶら下げられて
ひたすらさっさと疾走するのではない。

命は燃え尽きるために在るのではなく、
ただ知ってしまったからこそ、
記憶の限り、永遠に続くのだ。

命が続くのは、そこに感動があるからだ。
人との繋がり、世界との調和、
喜怒哀楽、四苦八苦、
そのような感受性が輝く限り、
みやすけはみやすけを忘れないだろう。

この世界にずっと想い出が残る限り、命は生き続ける。
そう、この世界に、生きているという実感がある限り。
みやすけは、みやすけを決して忘れないだろう。

生きる事とは、それ自身目的ではない。
それは生きる事そのものが、みやすけという存在を、
記憶し続けているという事だから。
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エッセイ 生きる意味に疲れたら

2018年11月03日 | 哲学



この世界とは、仮象である。
といえばなんとなくカッコつけた感じもする。

がしかし、生まれた意味とか考えてみても、
結局は答えも出ずな毎日である。

ややもすれば、お父ちゃんとお母ちゃんが
一時的な盛り上がりの末に、勝手に生まれ落とされた
とかいう感じにも思わなくはない。

そう、我々はお父ちゃんとお母ちゃんの
一夜のアバンチュールによって、
作為的にこの世界に引っ張り込まれたのだ。

じつは、そんな生きている状態というのは、
とてつもない無駄の上に成り立っている。

でも他人は、"良く生きよ"とか
"そんなんじゃダメ人間だ"、とか
"理知的に""道義的"やれ、だの
挙句果てには、人生をまるっと否定されたりする。

ああ、生きるのって難しい...
でも、ただ生きるのは本来、食い物と屋根さえあれば
誰でも難なく出来るものだ。

しかし、人間というものは厄介なもので
他所様の視線に敏感に生きる事を
余儀無くされている始末なのである。
特に人は集団で生きるから、とやかく言われるのである。

しかもこの群れには、ナゾの規則があって
ナゾのTPOがあって、さらに困った事に
礼儀を尽くさねばならないというナゾの地獄っぷり。

というのも、これぜーんぶ群れの維持ためのコストである。

このように、人間というのは、
"ただ食う"、"ただ寝る"といった事をする為に
わざわざ"意義"を付け加えようとするのだ。

やれ良い人間、やれ実りのある人生
道義的、律義やら、まったくやれやれである。


しかしなぜなんだろう?
困った人が居れば、
持ってるもので助ければ良いではないか。
持ってなければ、あげれば良いじゃないか。
もし何もなければ、一緒に探せば良いじゃないか。

と、色んな疑問が起こるけど、
人間というのは、いちいちそこにクレジットを結び
相手を縛ろうとするのだ。

そうそう霊長類学では、こんな面白い話がある。
とある群れが安定的に維持可能となる数は150人である。
これ、ダンバー数といって、この数の範囲なら
なんにもクレジットで縛る必要も、
群れ内でも諍いがあまり起こらない理想的な数らしい。

つまり、今の日本は群れの構成としては、
まったくのダメダメなのである。
このように人数が多すぎるから、
ヘンに働く意義を強調するし、
妙に真面目に生きる事を押し付けられるのである。

そうすべては、群れの維持のためである。
人間は、群れの維持のために病んで行くし、
最悪、自殺していく。
いくら命の尊さを説こうが、一向に減らないのは、
そもそも命の"尊さ"というものが、
ダメダメなのである。
そんなアップテンポな
ポジティブさなんて要らないのだ。

勤労の尊さ、聖人君子のような清やかさ、
我慢の精神 etc
のような"尊さ"を面前に、絶望して来たのに、
さらにその予想斜めを行く、"ネオ・尊さ"の概念で
死ぬのを抑え込むのは、もはや本末絶倒なのだ。

人間とは、群れの前に1人の人である。
1人の人の前には、
お父ちゃんとお母ちゃんのアバンチュールがあった。
生きるために必死なのは、また毎日辛いのは、
それは"食うため"、"寝るため"ではない。

それは、多すぎる群れを維持するためである。
だから、みやすけはもっと小さく群れろ、と言う。
どんどん小さくなって、勤労の意義とか、
社交辞令とか、真面目な人生から、
どんどん逃げろ。
そして、小さな仲間で助け合いながら生きろ。
一夜のアバンチュールでできた子供なら、
その子どもが仲間の元へ巣立てるまで、面倒を見ろ。
生きる意味なんか、考えるな。
そんなもん本質的に無いのだから。

生きる意味を考える事、
それこそクレジットで自分を縛る行為だ。
クレジットというムダなもので、
生きる事に臆病になるな。
むしろ、生きること自体、
全部まるっとムダなんだから。
そうだ、こんなムダなんかのために
病む必要なんて、ないのだ。

人間よ、今こそ
胸に秘めたる大志を今すぐに全部棄てよ!
そんな君は今日から自由だ。Fuu〜(^-^)

おわり、、
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