週刊ベースボールが世に出たのが今から25年前の1958年。その年はプロ野球界に長嶋茂雄が登場した年で日本のプロ野球の潮流が大きく変わり始めた転換期、新たなヒーロー出現で野球史そのものが塗り替えられようとしていた。この25年間でプロ野球界には長嶋以外にも多くの「時代の流れを変える男達」が現れた。
" 宿命のライバル " 長嶋と村山の2人にこれ以上にシックリくる形容詞は無い。現役を引退しグラウンドを離れても2人は永遠にライバルなのだ。例えそれがお遊びであっても…昭和57年12月15日、オーストラリアのシドニーで「名球会豪州ツアー」の最終日にテレビ用の打ち上げ会でジャンケン大会が行われて両者は対戦した。「あの時の屈辱を晴らしますよ」と村山。あの時とは勿論、昭和34年6月25日の天覧試合だ。「ウェルカム」と長嶋は受けて立ち、村山はパー・長嶋はチョキを出しまたもや長嶋に軍配が上がった。「人は緊張するとグーを出す確率が高い。だから…やっぱりチョーさんには敵わない」現在、野球解説の傍ら年商13億円にものぼるスポーツ用品代理店を経営し30人の社員を率いて人間観察に秀でた実業家でもある村山実のしたたかな読みも天才・長嶋茂雄には当てはまらなかった。
「あの時」もそうだった。ボールカウントが2-2となったところでマウンド上の村山は考えた。「次の球を絶対に狙ってくる。だから内角高目のシュートでのけ反らせてからフォークボールで勝負」と伏線を張った。村山が考え抜いた投球を長嶋はいとも簡単に左翼席上段に叩きこんだ。狙い通りのボール気味の厳しい球だったが「甘いシュートが来た。失投ですよ」と長嶋には絶好球に見えた。天才が持つ独自の反応が上回った結果だった。
その長嶋がプロ入りしたのは昭和32年12月7日、立教大学の学生服に身を包んで入団発表に臨んだ。キャンプイン前日の明石駅前にはゴールデンルーキーを一目見ようと早朝から約5千人の群衆が押し寄せた。長嶋のプロ入り前後、入れ替わりに川上哲治、藤村富美男、小鶴誠ら一時代を築いた名選手が引退。一方で中西太、稲尾和久、金田正一らが全盛期を迎えプロ野球界は新たな時代の到来を予感させた。長嶋が新人であわや三冠王か、と期待通りの活躍を見せ本塁打と打点の二冠に輝いた昭和33年は暮れた。
明けて昭和34年には巨人に王が阪神には村山が入団。パ・リーグは大毎のミサイル打線や西鉄の重爆打線を相手に杉浦(南海)が阿修羅の如き力投で38勝4敗・防御率 1.40 でリーグ制覇。日本シリーズでは宿敵・巨人を相手に杉浦の4連投&4連勝で悲願の日本一を達成して「涙の御堂筋パレード」…超人的な活躍をした杉浦は「一人にしてくれ、一人で泣きたいから」とポツリ。御堂筋パレードは皇太子御成婚パレードと共にこの年の東西二大セレモニーに。この年オフに大下弘、青田昇が現役を引退した。
カラーテレビの本放送が開始された昭和35年にはフラフープがやっと下火になったと思いきや今度はダッコちゃんなる「けったいなモノ」が流行した。いい歳をした大人が黒ん坊の人形を街中で持ち歩く姿は異様に見えた。けったいな事は球界でも起きた。7月19日、駒沢球場での東映-大毎戦8回二死満塁で大毎の四番・山内は空振り三振でチェンジと思った次の瞬間、捕手が後逸。しかし「三振だから」と捕手は球を拾いそのままベンチへ。誰も指摘しない間に3人の走者と打者走者の山内まで生還して一挙4失点の珍事が。
ある意味けったいと言えたのが名将・三原監督が万年最下位の大洋を優勝させてしまった事。更に日本シリーズでは大毎オリオンズを4連勝で圧倒。特に第2戦の8回一死満塁の場面でのスクイズを巡って大毎・永田オーナーと西本監督が衝突、パ・リーグ優勝監督がクビとなるけったいな結末に。三原監督の後塵を拝した巨人・水原監督が去り、後任に川上監督が誕生した激動の昭和35年だった。
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