➏ 阪急がとった11年ぶりの人海戦術
7月13日の阪急対日ハム戦は大乱戦の結果、11対11で引き分けたが、この試合で阪急はベンチ入りした25人全員を総動員した。1点を追う阪急が9回二死一塁の場面で24人目となる長村選手を代打に起用し、長村が内野安打で出塁すると代走に残った25人目の小嶋を送った。この小嶋は野手ではなく投手だった。この後に福原選手の右前適時打で同点として引き分けに持ち込んだのである。パ・リーグでは昭和50年から指名打者制を採用して以降は投手に代打を送る必要が無くなったので選手交代は少なくなっていた。なので25人総動員は昭和49年9月29日の日ハム以来、実に11年ぶりパ・リーグでは5度目の出来事だった。
対戦相手の日ハムも22人を起用し、両軍合わせて47人も昭和43年4月2日の東映対南海戦の47人(東映25人・南海・22人)に並ぶパ・リーグ記録だった。また阪急は8月24日の近鉄戦でも25人を使い切る総力戦を演じた。一方のセ・リーグでは10月24日の巨人対阪神戦で阪神が25人を起用したが、これは日本シリーズに向けてのコンディション調整の意味合いが強かった。セ・リーグでベンチ入り選手全員を使ったのは昭和56年7月24日の大洋対巨人戦の大洋以来4年ぶりの出来事。ちなみに対戦相手の巨人も24人を使い、両軍合わせて49人が出場する総力戦だった。
➐ 43年ぶりに実現した兄弟バッテリー
正捕手の木戸選手が負傷欠場となり代わりに新人の嶋田兄が8月13日の巨人3連戦からマスクを被った。3戦目の7回裏、同じく新人の嶋田弟が登板し兄弟バッテリーが誕生した。過去に兄弟バッテリーが同じチームに在籍した例には旧大洋の野口(明・二郎)、中日の上崎(克公・泰一)、西武の森(宝生・隆峰)とあるが上崎と森は兄弟ともに一軍経験はなかった。野口兄弟のバッテリーが誕生したのは戦前の昭和17年で嶋田兄弟の実に43年前だった。野口兄弟は戦後は阪急に在籍したが兄・明が捕手で出場した昭和21~23年の間に弟・二郎は登板せず兄弟バッテリーは実現しなかった。嶋田兄弟はその後も8月18日の広島戦、9月3日の中日戦、11日の大洋戦にも出場したがいずれも途中出場で兄弟揃って先発出場は来季以降にお預けとなった。
➑ ボール・スリーなのにフォアボール
9月23日の中日対阪神戦の8回表、掛布選手はボールカウント2-1からの4球目のボール球を見送り、2-2の平行カウントに。続く5球目もボールと判定されると掛布は当たり前のように一塁へ歩き出した。実は4球目の後のスコアボードや球審のインジケーターは2-3と表示されていたのだ。小松投手は異議を唱えたが球審は取り合わず、中日ベンチからも抗議はなく掛布は一塁へ。野球規則 - 九・〇二(b)により、小松が次打者の岡田選手に1球目を投じたことで判定を覆すことは不可となり掛布の「3ボール四球」は公式記録となった。
草野球みたいな凡ミスは過去にもあった。昭和29年8月21日・山田(大映)、昭和43年4月29日・遠井(阪神)、昭和53年7月20日・柴田(巨人)らが3ボールで四球に。逆に4ボールなのに気づかず打席に立ち続けて三振をしたケースが昭和42年6月14日・青野(東映)、昭和47年5月7日・水谷(広島)、昭和53年6月21日・山村(クラウン)と3人もいる。それにしても今季の打率がちょうど3割0分0厘だった掛布が、もしも本来のカウント2-3から打って凡退していたら打率は2割9分7厘となるところだったから掛布にとっては大ラッキーと言える " 誤審 " だった。
➒ 1イニング2本塁打!でも年間では4本
岡村選手(西武)の今季の成績は224打数54安打・打率.241 ・4本塁打と特に目立った数字ではない。だが印象に残るシーンがあった。5月22日のロッテ戦でサイクルヒットを達成したり、シーズン最終日の10月22日の対日ハムとのダブルヘッダー第1試合の6回裏、先頭打者で本塁打を放つと打線に火が点き打者一巡の猛攻で満塁の場面で再び岡村に2打席目が回ってきた。結果はまたも本塁打。1イニング2本塁打は史上11人目の快挙だった。しかし過去の達成者の多くが強打者で年間本塁打数が1桁の選手はいない。そこへいくと岡村は前述のサイクルヒットの本塁打が今季第1号で2本目は8月のロッテ戦で、この2本塁打を含めても年間4本だった。
➓ ベストナインがゼロの巨人
2年連続で優勝を逃した巨人に追い討ちをかける出来事が。ベストナインに選ばれた選手が皆無だったのである。これは昭和25年以降にベストナイン選出が定例化した中で球団史上初の屈辱だった。しかも次点に入ったのも吉村選手のみという体たらく。加えて巨人の内野手は誰一人として1票も獲得していない。過去には昭和28年に7人(広田・川上・千葉・平井・与那嶺・南村)が選ばれた年もあり、5人選手された年が7回もあった。最下位に転落した昭和50年でも王選手が選ばれた。リーグを代表する選手がいないという現実を選手・首脳陣・球団フロントは真剣に考えるべきである。
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