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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#89 大学時代の岡田彰布と原辰徳

2009年12月09日 | 1979 年 





後年 阪神と巨人の監督として凌ぎを削った両雄は大学時代からライバル同士でした。2人は
競い合うように、そして互いの存在を意識しあって大学時代を過ごしました。大学の通算成績は

  岡田 打率 .379 81打点 20本塁打
                             と遜色なく、両者 好成績を残しプロへ進みます。
  原  打率 .398 105打点 21本塁打






岡田彰布は大阪で生まれ育ち子供の頃から甲子園球場に通うなど熱烈な阪神ファンでした。
父は大阪・玉造町で紙工業を営み、従業員で野球チームを結成して、大阪軟式野球協会の
天王寺支部に所属していました。岡田少年は小学校4年生の時、大人に混じりエースとして
投げてましたが10歳の少年に公式大会出場の資格は有りませんでした。その後 中学1年生で
関西選抜軍に選ばれ海外遠征に参加するなど将来を嘱望されていました。北陽高校に進学を
決めた3月、春の選抜大会に出場した北陽高を中学3年の岡田は甲子園のスタンドで応援して
いました。結果は北陽打線は17三振を喫っする完敗、その時の相手が作新学院の江川でした。
この時 岡田少年の目標 「甲子園出場」「早稲田大進学」「阪神入団」 に新たに「打倒・江川」が
加わりました。

原辰徳は甲子園のアイドル球児から卒業し、首都大学リーグの連続試合安打記録を塗り替え
長打力もついて2年秋には三冠王を達成するなど着実に成長していました。岡田が打倒・江川を
掲げていたのと同様、原はハワイ大のタツノ投手をライバル視していました。タツノとの出会いは
原がまだ高校生の時で、ハワイに遠征した時に対戦して全く歯が立ちませんでした。大学進学後
日米大学選手権大会で再び対戦するも完敗。「プロに行きます。希望は在京球団です」と進路を
ハッキリと口にする原ですが、プロ入りの前に「早くタツノ投手の球を打てる打者になりたい」との
新たな目標を掲げて練習に励み、3年時の日米大学選手権でタツノから本塁打を放ちました。

2人ともドラフトでは複数球団が入札し抽選となりましたが共に希望球団が引き当て入団しました。
プロ入り後は共に新人王を受賞し中心打者へとなっていきましたが 晩年 岡田はオリックスに放出
原は専門外の外野を守らされるなど共に冷遇を受けました。引退後は自軍の監督に就任するなど
ここ迄の2人の野球人生は似ていますが、この先どうなるか注目です。










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