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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

# 779 中継ぎ投手 ❷

2023年02月15日 | 1977 年 



ブルペンで完投投手
この2~3年で中継ぎ専門役なら広島の渡辺弘基投手が傑出しているだろう。カープが悲願の初優勝を果たした昭和50年、渡辺投手は全130試合すべてにベンチ入りした。並みの努力や節制ではとてもこんなことは出来ない。先発要員なら一度登板すると中3日の休養が与えられるのが普通だが、渡辺投手のような中継ぎ要員は出番が定かでないから試合展開と睨み合わせて何度かブルペンに走る。仮にその試合に登板しなかったとしてもブルペンで1試合分の球数を投げるのが当たり前。

渡辺弘基 29歳の左腕投手。亜細亜大学から日産自動車追浜を経て阪急に入団したのが昭和47年。カープに移籍したのは昭和50年。まさに初優勝を果たした年にカープの一員となった。プロ入り6年目だが試合の中で派手に脚光を浴びたことはない。プロ入り通算196試合に登板しながら6勝6敗7Sで、先発登板は五度のみで完投勝ちは勿論ない。そんな渡辺投手らしい記録がある。シーズン73試合登板のセ・リーグ記録(昭和51年)だ。6月24日現在、308試合連続で3年越しで全試合にベンチ入りしている。

投手としては前例がないが「選手にはそれぞれの役割がある。僕の場合は中継ぎだというだけ。自分の能力と合わせれば当然だと思う。この役割を全うするのが全てです」と見事なまでに割り切っている。今年も既に28試合に登板し、チームでは最多登板である。カープに移籍して3年目だが、チーム内で渡辺投手の口から愚痴が漏れるのと聞いた者はいない。常に爽やかで頭の回転が速い渡辺投手に対して「彼(渡辺投手)なら世の中のどんな職業に就いても成功するだろう」と渡辺投手を知る人は異口同音に言う。


救援の喜びと悲しみ
そんな渡辺投手だが今年は今一つ調子が上がらない。「ブルペンでは悪くないのにマウンドに上がると今一つ。今年は気持ちに余裕がなく、自分で自分の頭をポカリと叩きたくなる」そうだ。6月5日の大洋戦(札幌・円山球場)、大洋に3点のリードを許した3回無死一・二塁で左打者の高木選手を迎えた所で先発の望月投手を救援したが、左前適時打を許しその後も自らの野選や3四死球で自滅。チームに迷惑をかけただけでなく若手投手の自信まで壊してしまう。「あんな形になった時は自責の念にさいなまれるよ」と苦悩を吐露する。

勿論、喜びもある。中でも最大のものは悲願の初優勝を果たした昭和50年。渡辺投手は55試合に登板して3勝3敗1Sと特筆するほどの数字ではなかったが、リードしている試合での中継ぎが多くやり甲斐を感じていた。当時の渡辺投手は自分の置かれた立場を踏まえて喜びを次のように言い表した。「僕が一人でも多くの打者に投げて抑えれば宮本さん(現日ハム)の負担を減らせる。次の宮本さんにバトンを渡せればチームの勝利が近づく。チームが勝つことが目標ですから」と。

176㌢・76㌔と決して恵まれた体格ではない渡辺投手。今年は渡辺自身もチームも苦しんでいる。エース外木場投手が右肩痛で戦列を離れ、池谷投手は好調を維持できず勝ったり負けたり。投手陣は先発ローテーションを組むのも一苦労の状態だ。抑えの松原投手に繋ぐのが渡辺投手の役割だが、唯一の左腕投手ということで試合展開によっては左打者封じに試合の中盤に登板することもある。「今までは次の投手にバトンを渡せば自分の仕事は完了だったが今後は最後まで投げ抜く姿勢を押し通さねば」と決意を新たにする渡辺投手だ。

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