昭和11年12月9日から11日に行なわれた3回戦方式の王座決定戦が、いわゆる「洲崎の決戦」である。
【阪神】 【巨人】
(一)藤井 勇 (二)三原 脩
(左)藤村冨美男 (三)水原 茂
(捕)小川 年安 (右)前川 八郎
(二)小島 利男 (一)中島 治康
(投)景浦 将 (左)伊藤健太郎
(右)御園生崇男 (捕)中山 武
(中)山口 政信 (遊)白石 敏男
(遊)岡田 宗芳 (中)林 清一
(三)伊賀上良平 (投)沢村 栄治
上記が第1戦の先発メンバーで両軍ともに知る人ぞ知る錚々たる選手が名を連ねている。特にタイガースは二塁手の小島を除く8人を当時の野球のメッカと言われ多くの名選手を輩出した四国出身者で固めた。尚、タイガース主将の松木謙次郎は怪我の為に出場できなかった。
第1戦は巨人が4点を先行したがタイガースは4回に小川の四球後に小島の右二塁打で二・三塁として迎えるは景浦。カウント1-3から沢村の懸河の三段ドロップを捉え左越本塁打で追いすがる。景浦はベースを一周する間、指を一本高々と上げて自軍ベンチの石本監督を見てニヤリ。決戦を前にして月給90円の景浦に対し「本塁打1本で100円」とハッパを掛けていたからだ。その後も攻勢を強めるが巨人が逃げ切り先勝した。
第2戦の巨人の先発は再び沢村。もう負けれないタイガースは死に物狂いで襲いかかり2回に先制し6回で沢村をKOした。一方、タイガースは先発の御園生を若林が救援して巨人の反撃を断った。
そして最終戦。巨人は前川、タイガースは景浦の先発で始まった。4対2とリードした巨人は5回から3連投の沢村を投入、タイガースは景浦を三塁へ回して第1戦で好救援を見せた若林が登板。後年に監督だった藤本定義によると沢村は志願の3連投で、さすがの沢村にも疲れが見えたが若林との息づまる投手戦を制して2勝1敗で巨人が初優勝を手にした。
この年以降両チームの戦いの結果が優勝争いに大いに影響を与える事となる。昭和12年春の対戦成績は巨人の5勝3敗だったが5勝は全て沢村があげたものでタイガース打線は沢村に対して155打数18安打、打率.116 と完全に抑え込まれた。打倒沢村なくして優勝は出来ないとして対沢村用に投手プレートの一歩前から投げさせた球を打つ練習を繰り返して秋季の対戦に臨んだ。
練習の成果は即座に表れて沢村を118打数34安打・打率.288 と打ち崩し、対沢村3連勝を含め巨人戦は7戦全勝だった。年度優勝決定戦でも沢村は1勝3敗と勝てずタイガースが4勝2敗で前年の雪辱を晴らした。こうして繰り広げられた両軍の戦いは昭和24年に1リーグ制が幕を閉じる時点迄はタイガース85勝・巨人84勝と拮抗していたが、2リーグ制以降は巨人の一方的な勝利の時代を迎える事となる。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます