Haa - tschi  本家 『週べ』 同様 毎週水曜日 更新

納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#268 昔日の豪腕投手

2013年05月01日 | 1982 年 



「あの時に山口を指名しとけばなぁ」昭和50年、阪急-近鉄のプレーオフ敗退後の藤井寺球場のロッカールームで近鉄・西本監督がポツリと呟いた。前年のドラフト会議で一番クジを引き当てた近鉄だったが指名したのはその年の目玉であった山口投手(松下電器)ではなく同僚の福井投手だった。「契約金が高過ぎる」…それが近鉄本社の意向で指名を見送り二番クジだった阪急が棚ボタで山口を獲得した。1年後の今、その新人投手がプレーオフ第2・4戦で完投勝利を収め近鉄の前に立ちはだかり日本シリーズ進出の夢を打ち砕いた。

その勢いのまま広島との日本シリーズに突き進みチームは4連勝、山口も4連投で球団初の日本一の瞬間のマウンドに立ち上田監督の胴上げに続き「次はタカシや」の声と共に宙を舞った。入団1年目から4年連続2桁勝利、昭和53年には13勝4敗15Sでセーブ王を獲得したが翌年に肩を痛めると成績は下降線を辿る一方となった。昭和54年は1勝、翌55年も1勝、昨年は遂に勝ち星なしに終わった。


昨年の昭和56年4月27日、西宮球場での西武戦の5回途中から登板した山口は山崎に特大の一発を含め9安打7失点の滅多打ちにあい降板、即二軍落ちを告げられた。山口に対して上田監督は「闘争心が無くなったのならユニフォームを脱げ。『山口高志』という名前を大事にしたらどうだ」と引退勧告まで突きつけられた。あれからほぼ1年、秋季キャンプ・自主トレ・春季キャンプ・オープン戦と球を投げ続けた。自主トレ期間中にフリー打撃に登板したのはプロ入り以来初めての事で、それ程に山口の復活に懸ける思いは強い。

3年間も低迷を続けるきっかけは昭和53年のヤクルトとの日本シリーズ直前に襲って来た腰痛だった。抑えの切り札である自分が戦列から離脱する訳にはいかないと痛みに堪えて練習を続けたのがいけなかった。とうとうパンクし腰痛の権威である大阪大学附属病院の小野教授の診察を受けた。椎間板ヘルニアとか腰椎分離症といった明確な病名ではなく、長年の酷使により疲弊したものと少々曖昧な結果であった。幸い手術は避けられたが痛みが引いても再発を恐れるが余り無意識のうちに腰を庇う投球フォームになり、球威は落ちて往年の豪速球は影を潜めた。

思えば自分ほど幸福な道を歩んで来た者はいない、と山口本人は思っている。関大で通算46勝の記録を作り大学日本選手権や日米大学野球選手権で優勝、都市対抗野球では小野賞を受賞しプロ入り後はいきなり日本一の立役者となった。「順風満帆すぎて腰痛でダウンするまで苦労という苦労を経験してなくて抵抗力が無かった。不屈の闘志で長年の肩痛からカムバックした足立さんを手本にしなければ」と自らを奮い立たせる。だが「ストレートだけで勝負して来た俺が今じゃチームで一番の球種持ちなんだよ。でもね、どれ一つ満足できる変化球じゃないんだ…今更ながら自分の不器用さに呆れてるよ」と寂しく笑う。




結局、山口は復活する事なくこの年オフに引退しました。一番好きだった選手でしたが肩の故障も腰を庇ってフォームを崩したのが原因とされていただけに腰を痛めた時に思い切って手術をしていれば…と思わなくもないです。
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