重松通雄【呉工廠-阪急-大洋-西鉄-金星-西日本】…日本初のアンダースロー投手には諸説あるが筆者が思うに第1号は重松投手だ。重松のアンダースローの投球フォームは左足を上げた段階で既に身体を「く」の字に折り曲げていて、後に登場する杉浦忠や秋山登らとは違っていた。入団当初はテークバックが小さい為に球に威力が無く、風変わりな変則投手の域を出なかったが腰を思いっきり打者側に突き出すフォームに改造してからはスピードが増し打者を抑えるようになった。「フィニッシュ時は腰が入って軸足のケリが強いからまるでジャンピングスローのようだった」と重松の元同僚の日ハム・丸尾スカウトは言う。
筆者とも浅からぬ因縁がある。昭和14年の東西対抗戦で先発した重松はノーヒット・ノーランを達成したのだが(投球イニングの制限は無かった)、準完全試合で唯一の四球を選んだのが私だった。7回の打席でカウント2-3からの外角低目の直球が外れて完全試合を逃した。正直言うと手が出ず見逃したのだが「あれは入っていただろ?白状しろよ」「いや、球1個分外だった」とお互い現役を退いた後も幾度となく言い合った。ちなみに当時の東西対抗戦は今で言うオールスター戦で出場選手は各球団の主力だっただけに価値ある偉業達成だった。
【 通算成績 63勝82敗 防御率 3.06 】
中根 之【神港商-明大-名古屋-イーグルス】…日本球界で初のスイッチヒッターは誰か?巷間、ジミー堀尾と中根のどちらかであると言われているが中根本人に尋ねると「俺だよ」と即答する。一方のジミー堀尾が既に故人なので中根の言い分を信じるより他ない。同じスイッチヒッターでも堀尾の場合は左右打ちの機会に規則性は無く右腕投手相手でも右打席に立つ事もあったが中根の場合は右腕投手には左打席、左腕投手には右打席と徹底していた。昭和11年秋、中根は打率.376 で日本プロ野球の初代首位打者に輝いた。「右打者が苦手とするアンダースローも打てたし左腕の内藤幸三君には8割くらい稼がせて貰ったしタイトルが取れたのはスイッチのお蔭だよ」
中根のスイッチは高校時代からのものだ。中根のいた神港商は山下実や島秀之助らを輩出した名門で、スイッチの助言をしたのも同じくOBの二出川延明だった。3年生の時に俊足を生かす為にも左で打つよう薦められ本格的に練習に取り組んだ。「俺はね元々反体制側の人間で天の邪鬼でね、当時は重いバットが主流で強い打球が求められていた時代だった。それに反発したくて軽いバットを使っての軽打専門だった」左打席で走りながら打ち単打を稼ぐ中根を見て二出川が「そんな打ち型じゃ強打者にはなれんゾ。左右両打席で本塁打を打てるようにならないと六大学へ行っても大成しない」と言われて打撃を改造した。
【 通算成績 183安打 7本塁打 打率.286 】
永沢富士雄【函館商-巨人】…今やどこの運動具店でも売られているファーストミットの原型を編み出したのが永沢だ。内野手からの送球はいつも取り易いものばかりではなく高かったり横へ逸れたりと一塁手は捕球に苦労するのもしばしばである。一塁手だった永沢のグローブは一見して指の部分が長く異様な形をしていて、大日本野球連盟東京協会(大東京軍)の代表だった鈴木龍二(現セ・リーグ会長)が違反グローブじゃないかと物言いをつけた程だった。昭和9年に来日した大リーグ選抜軍の一員だったジミー・フォックスに「一塁手のグローブは捕球し易い様に大きい方が良い。お前のグローブは小さ過ぎる」と言われてアメリカ製のグローブを取り寄せて自分で改造したのだ。
入手したグローブはアメリカ人用だけに大きく指も長く捕球し易かった。さらに永沢は親指と人差し指の間のネット部分を外して新たに柔らかい銅線で形を大きく、深く改造した自作のネット部分を取り付けて球がグローブからこぼれ出ないようにした。銅線を布テープでグルグル巻きにし、さらにその上から絆創膏を貼り付け強化した。出来上がったグローブは原型を留めておらず、まさに現在のファーストミットの形をしていたのだった。こうして自作のグローブを永沢は10年の選手生活で2個しか使わなかった。
【 通算成績 158安打 5本塁打 打率.200 】