(19日、一部追記しました)
炭鉱を題材にした写真は数多い。
しかし、その大半は、控室や人車などで、現場に向かう(あるいは地上に戻る)炭鉱マンをとらえたり、風呂場の脱衣場や組合事務所でレンズを向けたものが大半で、「切刃」と呼ばれる採掘の最前線を撮影した例は、意外なほど少ないのではないか。
1966年に九州の高島炭鉱を訪れて、切刃まで行けたときのことを、丹野章さんが回想した文章が、個展の会場に貼ってあった。
それによると、カメラを2機、フィルムをたくさん持っていったらしいが、暗い上に、粉じんが舞い散り、フィルムを交換するいとまもなかったという。
昼食をかきこむ炭鉱マンの写真には
「弁当箱をひらくと真っ白な飯はゴマ塩のようになる。5合やかんの水を呑んで横になるのが昼休みだ」
とキャプションがついている。
また、別の写真には
「数10メートルの間隔でホーベルという鉄の爪を取りつけて炭層を削りおとす」
とある。
前述のような、困難な条件のため、写っていたのは数枚だけだったという。
しかも、炭鉱マンの表情を大写しにした写真は、明らかに手ぶれしている。もちろん、それをとがめるつもりは全くない。ドキュメンタリー写真というのは、きちんとピントを合わせてレフ板に囲まれて撮るものではないし、そういう表層的な欠点を越えた意義が写真にはあるからだ。それに、60年代のフィルムは、現代から比べるとかなりの低感度だっただろう。(筆者がカメラを手にした80年代初頭でさえ、フィルムの感度はISO=当時はASAといった=100が標準で、400は「高感度フィルム」と言われた。隔世の感がある)
その後、76年にも同炭鉱を訪れたが、そのときは組合本部などにも掛け合ったものの、切刃までは行けなかったという。
今回の写真展では、そのとき写した「仲間との話し合い」などが展示されている。
66年の写真は、ほかにも、井戸で水をくむ主婦、購買部、鉄筋コンクリートの立派な社宅などがうつり、高度成長のまっただ中で生活環境が変化する真っ最中であったことが見て取れる。
70年代に入ると、ズリ山から流れてくる土砂に押しつぶされる木造住宅とか、職安の紙で次の仕事を探す男、高島を船で離れる家族など、時代の流れが急激に石炭を押し流していった様子のさまざまな断面が切り取られている。
丹野章さんは1949年、日大芸術学部卒というベテランで、川田喜久治や細江英公、奈良原一高とともに戦後を代表する写真家集団「VIVO」のメンバーでもあった。
このような、戦後のリアリズム写真の典型ともいえそうな作品群が、札幌のギャラリーでひっそり展示されているのは、めったにない機会なので、可能ならばご覧になることをおすすめします。
日本写真家事典(東京都写真美術館執筆・監修)によると、丹野さんは1925年(大正14年)東京生まれ。
51年、フリーランスとなり、「音楽之友」を中心に舞台写真を発表。57年には第1回「10人の眼」展に「サーカス」を出品し、「さまざまなアングルから対象をとらえ、卓越したテクニックで身体表現の新たな領域を提示した」。
「ボリショイ劇場」「壬生狂言」などの写真集がある。
2013年11月7日(木)~11月19日(火)午前9時~午後5時30分、土日休み
キヤノンギャラリー札幌(中央区北3西4 日本生命札幌ビル)
※北4条通のほうから入るとすぐです
炭鉱を題材にした写真は数多い。
しかし、その大半は、控室や人車などで、現場に向かう(あるいは地上に戻る)炭鉱マンをとらえたり、風呂場の脱衣場や組合事務所でレンズを向けたものが大半で、「切刃」と呼ばれる採掘の最前線を撮影した例は、意外なほど少ないのではないか。
1966年に九州の高島炭鉱を訪れて、切刃まで行けたときのことを、丹野章さんが回想した文章が、個展の会場に貼ってあった。
それによると、カメラを2機、フィルムをたくさん持っていったらしいが、暗い上に、粉じんが舞い散り、フィルムを交換するいとまもなかったという。
昼食をかきこむ炭鉱マンの写真には
「弁当箱をひらくと真っ白な飯はゴマ塩のようになる。5合やかんの水を呑んで横になるのが昼休みだ」
とキャプションがついている。
また、別の写真には
「数10メートルの間隔でホーベルという鉄の爪を取りつけて炭層を削りおとす」
とある。
前述のような、困難な条件のため、写っていたのは数枚だけだったという。
しかも、炭鉱マンの表情を大写しにした写真は、明らかに手ぶれしている。もちろん、それをとがめるつもりは全くない。ドキュメンタリー写真というのは、きちんとピントを合わせてレフ板に囲まれて撮るものではないし、そういう表層的な欠点を越えた意義が写真にはあるからだ。それに、60年代のフィルムは、現代から比べるとかなりの低感度だっただろう。(筆者がカメラを手にした80年代初頭でさえ、フィルムの感度はISO=当時はASAといった=100が標準で、400は「高感度フィルム」と言われた。隔世の感がある)
その後、76年にも同炭鉱を訪れたが、そのときは組合本部などにも掛け合ったものの、切刃までは行けなかったという。
今回の写真展では、そのとき写した「仲間との話し合い」などが展示されている。
66年の写真は、ほかにも、井戸で水をくむ主婦、購買部、鉄筋コンクリートの立派な社宅などがうつり、高度成長のまっただ中で生活環境が変化する真っ最中であったことが見て取れる。
70年代に入ると、ズリ山から流れてくる土砂に押しつぶされる木造住宅とか、職安の紙で次の仕事を探す男、高島を船で離れる家族など、時代の流れが急激に石炭を押し流していった様子のさまざまな断面が切り取られている。
丹野章さんは1949年、日大芸術学部卒というベテランで、川田喜久治や細江英公、奈良原一高とともに戦後を代表する写真家集団「VIVO」のメンバーでもあった。
このような、戦後のリアリズム写真の典型ともいえそうな作品群が、札幌のギャラリーでひっそり展示されているのは、めったにない機会なので、可能ならばご覧になることをおすすめします。
日本写真家事典(東京都写真美術館執筆・監修)によると、丹野さんは1925年(大正14年)東京生まれ。
51年、フリーランスとなり、「音楽之友」を中心に舞台写真を発表。57年には第1回「10人の眼」展に「サーカス」を出品し、「さまざまなアングルから対象をとらえ、卓越したテクニックで身体表現の新たな領域を提示した」。
「ボリショイ劇場」「壬生狂言」などの写真集がある。
2013年11月7日(木)~11月19日(火)午前9時~午後5時30分、土日休み
キヤノンギャラリー札幌(中央区北3西4 日本生命札幌ビル)
※北4条通のほうから入るとすぐです