筆者は、詩は若い時分にけっこう読んだので、たぶん美術よりも理解に困らないが、短歌と俳句には疎い。この本「もっと電車よ、まじめに走れ 福島泰樹わが短歌史」(角川学芸出版)が短歌の勉強に最適だと思って買ったわけではないが、或るきっかけがあって手に取った。
短歌の作品そのものについて述べるのはまた後の機会にゆずるとして、この本を読んで、「いま自分は歴史の中にいて、それを切り開く主体である」という懐かしい感覚がよみがえってきたので、それに関して書く。
いま「懐かしい」と書いた。
自分がこの語を使える世代としてはぎりぎり下限だろう。
私が入った高校は、校舎の床にタイルがほとんどなかった。
聞くと、10年ほど前にバリケード封鎖・全学ストライキを決行した際、導入された機動隊に生徒たちがタイルを砕いて投げたためだという。
よく目をこらすと、壁には「無期限スト貫徹!」という文字を消した跡などが残っているのであった。
1960年代後半から70年代初頭にかけて、全国の大学で学生運動の嵐が巻き起こった。
発端は、学費値上げ反対とか、学生寮の管理をめぐるあつれきなど、さまざまだったが、運動はエスカレートした。また、街頭では、新左翼各派のヘルメット姿の学生たちが角材(当時、ゲバ棒と称した)を手に、ベトナム反戦を叫び、また或る者は三里塚(成田空港)反対闘争に取り組んでいたのである。
(なお、筆者は、高校時代に、「学園紛争」というのは管理する側の用語であるからわれわれは「闘争」と呼ぶべきであると教わったので、今も「紛争」とはいわない。さらにいえば「過激派」というのは警察の用語である)
この時代、学生たちが、かなり(100%ではないにせよ)本気で革命と解放を夢見ていたのは、この福島の本を読めば伝わってくる。それは、例えば、フランス5月革命の記録などを見聞きしていても同じである。そういう時代の空気を吸っていれば、バリケードの内側にいても、街頭でジグザグデモをしても
「1967年に羽田で機動隊を後退させ、69年に三派全学連が結成されんとする激動の情勢にあって、70年安保粉砕闘争に向けてわれわれは…」
みたいな感覚が醸成されていたのではないか。
要するに、1年ぐらいのスパンで、歴史がぐらぐらと動き、しかもそれを動かす力にわずかながらも自らが参加している。そういう感じである。
そのような感覚は、戦争中にも、戦後すぐにも、60年安保の頃にも、それなりの強さであったに違いない。
60年代までは、2、3年違えば、政治状況も変われば、音楽や文学や芸術の最先端も移り変わっていったのである。
しかし、1973年あたりを境に、その感覚は急速に薄れていく。
88~91年にはふたたび世界の歴史が大きく転回する感覚を味わったが、それはほとんど海外の報道に接してのものであって(冷戦の終了と東欧・ソ連の共産主義の崩壊)、自分たちが何か主体的に行動しての結果ではない。
村上春樹の「1973年のピンボール」の中で
「終わったのよ、何もかも」
とピンボールマシンが主人公の「僕」に告げるシーンがあったと記憶しているけれど、それはまったく偶然ではないのだ。
小林秀雄がどこかで書いていたが、歴史は、現代の神なのだ。
死ぬべき運命にあるわたしたちが、有限の生に価値があると信じるためには、宗教なき現代社会にあっては、歴史の「進歩」に殉じるのが一番だった。
しかし、いまや歴史は進歩しない。政治も、ファッションも音楽も、なにもかも、かつて奏でられたメロディーの変奏を繰り返しているだけだ。
私は、いまの若者が生きづらいのは、案外この時代背景かもしれないとさえ思う。
時代が進んでいくのではなく永遠の繰り返しであるとしたら、自分が生きてやがて死んでいくことに、どんな意味が見いだせるというのだろう。
時代が繰り返すだけだとしたら、なんらかの理想を掲げ、それに少しでも近づいていくという発想自体が出てこないのではないか。
福島泰樹はいまも絶叫し続けている。
しかし、それは、歴史が終わったあとの長い長いコーダなのではないか。
そんなことを思った。
短歌の作品そのものについて述べるのはまた後の機会にゆずるとして、この本を読んで、「いま自分は歴史の中にいて、それを切り開く主体である」という懐かしい感覚がよみがえってきたので、それに関して書く。
いま「懐かしい」と書いた。
自分がこの語を使える世代としてはぎりぎり下限だろう。
私が入った高校は、校舎の床にタイルがほとんどなかった。
聞くと、10年ほど前にバリケード封鎖・全学ストライキを決行した際、導入された機動隊に生徒たちがタイルを砕いて投げたためだという。
よく目をこらすと、壁には「無期限スト貫徹!」という文字を消した跡などが残っているのであった。
1960年代後半から70年代初頭にかけて、全国の大学で学生運動の嵐が巻き起こった。
発端は、学費値上げ反対とか、学生寮の管理をめぐるあつれきなど、さまざまだったが、運動はエスカレートした。また、街頭では、新左翼各派のヘルメット姿の学生たちが角材(当時、ゲバ棒と称した)を手に、ベトナム反戦を叫び、また或る者は三里塚(成田空港)反対闘争に取り組んでいたのである。
(なお、筆者は、高校時代に、「学園紛争」というのは管理する側の用語であるからわれわれは「闘争」と呼ぶべきであると教わったので、今も「紛争」とはいわない。さらにいえば「過激派」というのは警察の用語である)
この時代、学生たちが、かなり(100%ではないにせよ)本気で革命と解放を夢見ていたのは、この福島の本を読めば伝わってくる。それは、例えば、フランス5月革命の記録などを見聞きしていても同じである。そういう時代の空気を吸っていれば、バリケードの内側にいても、街頭でジグザグデモをしても
「1967年に羽田で機動隊を後退させ、69年に三派全学連が結成されんとする激動の情勢にあって、70年安保粉砕闘争に向けてわれわれは…」
みたいな感覚が醸成されていたのではないか。
要するに、1年ぐらいのスパンで、歴史がぐらぐらと動き、しかもそれを動かす力にわずかながらも自らが参加している。そういう感じである。
そのような感覚は、戦争中にも、戦後すぐにも、60年安保の頃にも、それなりの強さであったに違いない。
60年代までは、2、3年違えば、政治状況も変われば、音楽や文学や芸術の最先端も移り変わっていったのである。
しかし、1973年あたりを境に、その感覚は急速に薄れていく。
88~91年にはふたたび世界の歴史が大きく転回する感覚を味わったが、それはほとんど海外の報道に接してのものであって(冷戦の終了と東欧・ソ連の共産主義の崩壊)、自分たちが何か主体的に行動しての結果ではない。
村上春樹の「1973年のピンボール」の中で
「終わったのよ、何もかも」
とピンボールマシンが主人公の「僕」に告げるシーンがあったと記憶しているけれど、それはまったく偶然ではないのだ。
小林秀雄がどこかで書いていたが、歴史は、現代の神なのだ。
死ぬべき運命にあるわたしたちが、有限の生に価値があると信じるためには、宗教なき現代社会にあっては、歴史の「進歩」に殉じるのが一番だった。
しかし、いまや歴史は進歩しない。政治も、ファッションも音楽も、なにもかも、かつて奏でられたメロディーの変奏を繰り返しているだけだ。
私は、いまの若者が生きづらいのは、案外この時代背景かもしれないとさえ思う。
時代が進んでいくのではなく永遠の繰り返しであるとしたら、自分が生きてやがて死んでいくことに、どんな意味が見いだせるというのだろう。
時代が繰り返すだけだとしたら、なんらかの理想を掲げ、それに少しでも近づいていくという発想自体が出てこないのではないか。
福島泰樹はいまも絶叫し続けている。
しかし、それは、歴史が終わったあとの長い長いコーダなのではないか。
そんなことを思った。