今日は群馬県吾妻郡嬬恋村の鎌原観音堂へ行ってみた。久しぶりだ。何年ぶりだろう。
鎌原集落は「日本のボンベイ」とも呼ばれるように、天明三年の浅間焼けで集落が飲み込まれてしまった場所である。

天明三年は、約4ヶ月ほど浅間山噴火による降灰や火砕流などがあったようだが、7月8日には鎌原に土石なだれが襲う。このとき高台にあった鎌原観音堂に籠もって、神仏に祈りを捧げていた93人が生き残り、466人が犠牲になったのだそうだ。

未だに、この観音堂の脇には集落の方が当番を決めて、観音堂をお守りしておられる。
また手前には「延命寺石標」があるが、これはかつて吾妻川下流の東吾妻町矢倉で発見されたもの。これを再び、当地に返したものだそうだ。

この観音堂の手前の石段は15段で、それよりも下は土石なだれによって埋まっている。

かつて、この下を発掘調査したところ、女性の遺体が2体発見された。そんな写真が観音堂付近に飾られている。そこで近くにある「嬬恋郷土資料館」に寄ってみた。

中には、浅間焼けのときの発掘物や数々の資料が展示されている。入館すると、ボランティアガイドの方が説明してくれるとのこと、お話を聴きながら、見学した。
やはり、噴火の凄まじさを物語る資料がいっぱいあった。延命寺で飼っていたという馬の骨、無惨な感じの仏像、食器や茶器等、いろいろ印象的であった。また、お話のなかで認識を新たにしたのは、鎌原集落は溶岩流が直接流れて来たのではなく、土石なだれであって「山津波」であったのだ。発掘調査によって、学術的に明らかになったことなどを説明していただき、なるほどと思った。
特に生き残った93人は、鎌原再生のためにやもめ同士、新たな親子関係を結び、約30軒の家族になって、今日にいたるのだそうだ。また、土地を整理して、道路の脇に家と畑を短冊のように仕切り、きちんと整備したのだそうだ。
そんなことお聴きし、あらためて鎌原集落を見渡した。

先祖の残した村を再生させた信念をいまでも伝えている、その象徴がこの観音堂である。そして、地区のお年寄りによって「浅間山噴火大和讃」が毎月2回、唱えられているとのことだ。
鎌原集落は「日本のボンベイ」とも呼ばれるように、天明三年の浅間焼けで集落が飲み込まれてしまった場所である。

天明三年は、約4ヶ月ほど浅間山噴火による降灰や火砕流などがあったようだが、7月8日には鎌原に土石なだれが襲う。このとき高台にあった鎌原観音堂に籠もって、神仏に祈りを捧げていた93人が生き残り、466人が犠牲になったのだそうだ。

未だに、この観音堂の脇には集落の方が当番を決めて、観音堂をお守りしておられる。
また手前には「延命寺石標」があるが、これはかつて吾妻川下流の東吾妻町矢倉で発見されたもの。これを再び、当地に返したものだそうだ。

この観音堂の手前の石段は15段で、それよりも下は土石なだれによって埋まっている。

かつて、この下を発掘調査したところ、女性の遺体が2体発見された。そんな写真が観音堂付近に飾られている。そこで近くにある「嬬恋郷土資料館」に寄ってみた。

中には、浅間焼けのときの発掘物や数々の資料が展示されている。入館すると、ボランティアガイドの方が説明してくれるとのこと、お話を聴きながら、見学した。
やはり、噴火の凄まじさを物語る資料がいっぱいあった。延命寺で飼っていたという馬の骨、無惨な感じの仏像、食器や茶器等、いろいろ印象的であった。また、お話のなかで認識を新たにしたのは、鎌原集落は溶岩流が直接流れて来たのではなく、土石なだれであって「山津波」であったのだ。発掘調査によって、学術的に明らかになったことなどを説明していただき、なるほどと思った。
特に生き残った93人は、鎌原再生のためにやもめ同士、新たな親子関係を結び、約30軒の家族になって、今日にいたるのだそうだ。また、土地を整理して、道路の脇に家と畑を短冊のように仕切り、きちんと整備したのだそうだ。
そんなことお聴きし、あらためて鎌原集落を見渡した。

先祖の残した村を再生させた信念をいまでも伝えている、その象徴がこの観音堂である。そして、地区のお年寄りによって「浅間山噴火大和讃」が毎月2回、唱えられているとのことだ。