小さな花ですが、今年も花をつけました
各新聞の「首相の一日」を読んでいると、政治家の実務とは動き回って「人に会うこと」であり、「部屋を出たり入ったりすること」であるような気がしてくる。
それ以外のことはしていないのだ。
何のため人に会ったり、部屋を出たり入ったりするかというと、それは「根回し」をするためで、結局「政治は根回しである」という気がしてくる。
あと何だろう。
そうだ、政治家にとって不可欠で重要な仕事、それは演説である。
ただ今の政治家の演説は、演説というより読んでいる、といったほうがいいのかもしれない。
原稿をただ読んでいるだけなのだが、それをいかに演説らしく見せるか、そっちのほうの才能が問われる。
テレビの国会中継を見ているとわかるが、野党の質問をするほうも紙に書いたものを読んでいる。
ただ読んでいるだけなのだが、それをいかに質問しているらしく見せるのか、その才能というか演技力というか、そっちのほうが大切なのだ。
ときどき声を荒げて怒ったりするが、そこのところも実は書いたものを読んでいるのだ。
答弁するほうはもっと読む。
衆議院予算委員会における質疑、などともっともらしい名前が付いているが、実態は読みっこ対読みっこ。
読みっこごっこというごっこの世界なのだ。
ごっこというのは電車ごっことか鬼ごっこ、お医者さんごっこ。
そういうお遊戯のことを言います。
とか言いつつも、一国の経済も方向性も、そのごっこで決まっていくところが恐ろしいのである。
うな重を食べるとき、重箱の中をしきりに掃除しながら食べる人がいる。
重箱の中の食べ散らかしが気になってしょうがないんでしょうね。
さて、うな重はどのあたりから食べ始めるのか。
重箱の左の一番下のところからかな、あるいは右の一番下に箸を入れるか。
上半身から食べ始めるか、下半身から食べ始めるかという問題にもなる。
うな丼を食べているときは、「丼の中が散らかっている」と感じたことはないが、うな重だとなぜか散らかっている感が強い。
うな重は底が浅い、というのがその理由だと思う
うな丼ならば、箸の先をウナギの層とゴハンの層の奥深く入れたいと思えば差し入れられるのだが、うな重の場合は何だか急に箸の先が重箱の底に突き当たってしまう。
あれ と思うほど早く重箱の底に到達してしまう。
箸の先が充分に深く入らないから、充分な量のゴハンがすくい取れない。
その結果、ゴハンもウナギも箸先からこぼれ落ちて、あたりが散らかってくることになる。
食事の中盤を過ぎ、後半にさしかかった段階になると、重箱の中は廃棄物処理場の様相を呈してきた。
重箱の底全域に展開している廃棄物を少しずつ、根気よく集め、重箱の隅のところに集め、これを一挙に口の中に入れようとする。
それをするには重箱を手に持ち、逆さに高くかかげ、重箱の隅のところに口を当て、箸で掻きこみ掻きこみをしなければならない。
この姿を人に見られたくないな、と思うのであった。