
江戸時代の刑法の内、流刑・島流しは江戸へは再びもどれないという刑であった。八丈島などは代表的なものだった。どえらく遠く脱走など無理であった。それでも脱走計画をし、捕まると斧で頭を割る撲殺刑か底土刑といって絶壁から突き落とす刑がまっていた。
現在の刑法は「・・・・未決ノ囚人逃走シタ時ハ一年以下ノ懲役」となってる。現代の方がはるかに軽い。
インテリ崩れの博徒・喜三郎と付け火(放火)の花鳥という女性と5人の博徒が脱出を試みた。インテリだった喜三郎は「潮の流れ」を十分研究し、茨城に流れ着く計算をし、脱出した。途中暴風にあい4人が死に、暴風がかえって幸いし3人は陸にうちあげられた。
これくらいしか八丈島の脱出記録はないようである。この記録は後に捕まった喜三郎が牢屋の中で書いたものが残っているからわかるらしい。・・・・彼がインテリだったことが計画が緻密であり、記録も残せたのだろうか。いずれにしても犯罪者だから「快挙」とも言えない。
ここまで「江戸の犯罪白書」という本からパクリました。
江戸時代は火事になると「牢屋」のカギをはずし、犯罪者を帰ってくると罪を半減ということで逃がしたようである。現在でも、この間の東日本災害時にも対処できないと犯罪者を解放したようである。この中で又悪さをし、捕まった人がいるようである。
こういう話は気持ちが暗くなるが・・・脱走でもスチーブ・マックーインの「大脱走」など明るいものだ。