唐招提寺展は、平日の午前中だというのに結構な人出だった。
国宝級の展示物のオンパレードということで多くの人の関心を集めるのも無理はない。
ただ、いくら国宝でも壊れかかった瓦のキレッパシには、申し訳ないが余り興味がわかなかった。
しかし、何体もの仏像は1200年もの時を越えてすごい迫力で見るものに迫ってきた。鑑真和上の閉じられた目は左右にほんのわずかだが形の違いがあり、まさに生きている人のようなリアリティがあった。もうそのころは失明していたのだから実際にそのまぶたが開くことはなかったのかもしれないが、今にもすっと眼を開けてしまいそうな雰囲気があった。薄い唇の上下は、ほんの少し離れており、見つめていると鑑真その人の言葉が聞こえてきそうな錯覚に落ちてしまいそうだ。
盧舎那仏を守るように配置された四天王立像立像たちも強烈なオーラを放っていた。印を結んでいるしなやかな仏像の手と仏像の顔を斜めに見る位置が一番良い。しなやかな指とその端正な顔とのマッチングが絶妙だ。ちょっと光を工夫して写真を撮ったら、すごく良い写真になりそうな気がした。土門拳のように。(無理かな?)
それにしても、あの仏像はなぜあのように怒っているのだろう?衣の下に鎧をつけているものもいる。やさしさだけでは人は生きていけないということなのだろうか?どんな気持ちで大陸からわたってきた人たちは、あの像を作ったのだろうか。
怒りや恐れ、そしてねたみや嫉妬、そうした気持ちは物事の成就には禁物だ。何事にも平静に対処することが出来れば万事は上手くいく。でもそれが出来ないのが人間の弱さ。その弱さの一面を仏像に刻み込んだのはなぜだろう。そうした弱さもまた受け入れるべきものなのか。
今にも話をしだしそうな仏像たちに心の中でそんな質問をぶつけてみた。もうちょっとで話してくれそうな気がしたが、残念ながらその声は聞けずじまいに終わった。
国宝級の展示物のオンパレードということで多くの人の関心を集めるのも無理はない。
ただ、いくら国宝でも壊れかかった瓦のキレッパシには、申し訳ないが余り興味がわかなかった。
しかし、何体もの仏像は1200年もの時を越えてすごい迫力で見るものに迫ってきた。鑑真和上の閉じられた目は左右にほんのわずかだが形の違いがあり、まさに生きている人のようなリアリティがあった。もうそのころは失明していたのだから実際にそのまぶたが開くことはなかったのかもしれないが、今にもすっと眼を開けてしまいそうな雰囲気があった。薄い唇の上下は、ほんの少し離れており、見つめていると鑑真その人の言葉が聞こえてきそうな錯覚に落ちてしまいそうだ。
盧舎那仏を守るように配置された四天王立像立像たちも強烈なオーラを放っていた。印を結んでいるしなやかな仏像の手と仏像の顔を斜めに見る位置が一番良い。しなやかな指とその端正な顔とのマッチングが絶妙だ。ちょっと光を工夫して写真を撮ったら、すごく良い写真になりそうな気がした。土門拳のように。(無理かな?)
それにしても、あの仏像はなぜあのように怒っているのだろう?衣の下に鎧をつけているものもいる。やさしさだけでは人は生きていけないということなのだろうか?どんな気持ちで大陸からわたってきた人たちは、あの像を作ったのだろうか。
怒りや恐れ、そしてねたみや嫉妬、そうした気持ちは物事の成就には禁物だ。何事にも平静に対処することが出来れば万事は上手くいく。でもそれが出来ないのが人間の弱さ。その弱さの一面を仏像に刻み込んだのはなぜだろう。そうした弱さもまた受け入れるべきものなのか。
今にも話をしだしそうな仏像たちに心の中でそんな質問をぶつけてみた。もうちょっとで話してくれそうな気がしたが、残念ながらその声は聞けずじまいに終わった。