(蔵前一丁目信号左の小公園)
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(蔵前2)
(蔵前一丁目)信号の左手に、小さな公園があり、
そこに(下町まちしるべ)なる案内看板があり、
「旧浅草蔵前」について説明板があるので紹介しておきたい。
(蔵前という町名がつけられたのは、
元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。
この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。
米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から、
送られてきた米を収納するための倉庫で三箇所あった。
大阪、京都二条のお蔵とあわせ三御蔵といわれた。
その中でも浅草御蔵は重要であった。
米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、
その土砂で隅田河岸を整地し造成された。
当時67棟もの蔵があったことから、
約六十二万五千俵の米を収納する事が出来た。
この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と
領地を持たない旗本・御家人の支給される給料米であった。)(台東区教育委員会)
67棟に62万5千俵を収めた蔵は、
1棟当り約9万俵を納めていたと言うから、
かなり大きな蔵であったに違いない。
その模型が蔵前橋手前左にある、
東京都水道局の敷地に建っているが、
この何十倍もする大きさであったと思われる。
(御蔵の模型)
(蔵前一丁目)の信号を右に渡り、少し戻って表通りから、
左へ入ると表通りの喧騒とは嘘のように静かな住宅地に入る。
近くに中学校があって、丁度帰り道の子供たちとすれ違うが、
道路左に榊神社が見える。
(榊神社)
鳥居があって、本殿の手前左手に「浅草文庫跡」碑がある。
台東区教育委員会の説明によれば、
(浅草文庫は、明治七年(1874)創設された官立の図書館である。
翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。
当時の和・漢・洋の蔵書は11~13万冊とも言われ、
現在、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、
東京国立博物館などに所蔵され、
太政大臣三条実美の筆跡と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
―後略。)とある。
(榊神社の本殿)
(浅草文庫の碑)
(浅草文庫の碑2)
蔵前橋の袂右側に、「首尾の松」の石碑と松が数本植えてある。
その松の由来について諸説は、台東区教育委員会の説明によると、
(1.寛永年間(1614~1643)に墨田川が氾濫したとき、
三大将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、
列中に伍している中から進みいで、
人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り、
見事対岸に渡りつき、家光これを賞して勘気を解いたので、
傍らにあった松を「首尾の松」と言った。
2.吉原に遊びに行く通人たちは、
隅田川をさかのぼり山谷掘りから入り込んだものだが、
上り下りの舟が、
途中この松陰に止まって「首尾」を求め語ったところからの説。
3.「首尾」は「ひび」の訛からきたとする説、
江戸時代この辺りで海苔を採るために、
「ひび」を水中に立てたが、訛って「首尾」となり、
近くの松を「首尾の松」と言った。)という。
現在植えてある松は、七代目の松という。
この説明から、ボクが勝手な想像を廻らすと、
2番の吉原へ遊びに行って、首尾よく目当ての女性にめぐり合え、
一夜をねんごろに過ごしたあと、
山谷掘りから舟で帰り、
首尾よく「ヤッタゾー」という気持ちの高揚の現れと思っている。
(首尾の松とその碑)
さて、(蔵前一丁目)の信号に戻って、
信号を渡り、街道を進む。
(蔵前二丁目)(蔵前三丁目)の信号を渡ると、
厩橋袂の信号に出る。
右が厩橋で、左へ行けば春日通りでJR御徒町駅に出る。
(厩橋)
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(蔵前2)
(蔵前一丁目)信号の左手に、小さな公園があり、
そこに(下町まちしるべ)なる案内看板があり、
「旧浅草蔵前」について説明板があるので紹介しておきたい。
(蔵前という町名がつけられたのは、
元和七年(1621)の浅草御蔵前片町である。
この付近に徳川幕府の米蔵があったことから付けられた。
米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から、
送られてきた米を収納するための倉庫で三箇所あった。
大阪、京都二条のお蔵とあわせ三御蔵といわれた。
その中でも浅草御蔵は重要であった。
米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、
その土砂で隅田河岸を整地し造成された。
当時67棟もの蔵があったことから、
約六十二万五千俵の米を収納する事が出来た。
この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と
領地を持たない旗本・御家人の支給される給料米であった。)(台東区教育委員会)
67棟に62万5千俵を収めた蔵は、
1棟当り約9万俵を納めていたと言うから、
かなり大きな蔵であったに違いない。
その模型が蔵前橋手前左にある、
東京都水道局の敷地に建っているが、
この何十倍もする大きさであったと思われる。
(御蔵の模型)
(蔵前一丁目)の信号を右に渡り、少し戻って表通りから、
左へ入ると表通りの喧騒とは嘘のように静かな住宅地に入る。
近くに中学校があって、丁度帰り道の子供たちとすれ違うが、
道路左に榊神社が見える。
(榊神社)
鳥居があって、本殿の手前左手に「浅草文庫跡」碑がある。
台東区教育委員会の説明によれば、
(浅草文庫は、明治七年(1874)創設された官立の図書館である。
翌八年に開館し、公私の閲覧に供した。
当時の和・漢・洋の蔵書は11~13万冊とも言われ、
現在、国立公文書館内閣文庫や国立国会図書館、
東京国立博物館などに所蔵され、
太政大臣三条実美の筆跡と伝える「浅草文庫」の朱印が押されている。
―後略。)とある。
(榊神社の本殿)
(浅草文庫の碑)
(浅草文庫の碑2)
蔵前橋の袂右側に、「首尾の松」の石碑と松が数本植えてある。
その松の由来について諸説は、台東区教育委員会の説明によると、
(1.寛永年間(1614~1643)に墨田川が氾濫したとき、
三大将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、
列中に伍している中から進みいで、
人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り、
見事対岸に渡りつき、家光これを賞して勘気を解いたので、
傍らにあった松を「首尾の松」と言った。
2.吉原に遊びに行く通人たちは、
隅田川をさかのぼり山谷掘りから入り込んだものだが、
上り下りの舟が、
途中この松陰に止まって「首尾」を求め語ったところからの説。
3.「首尾」は「ひび」の訛からきたとする説、
江戸時代この辺りで海苔を採るために、
「ひび」を水中に立てたが、訛って「首尾」となり、
近くの松を「首尾の松」と言った。)という。
現在植えてある松は、七代目の松という。
この説明から、ボクが勝手な想像を廻らすと、
2番の吉原へ遊びに行って、首尾よく目当ての女性にめぐり合え、
一夜をねんごろに過ごしたあと、
山谷掘りから舟で帰り、
首尾よく「ヤッタゾー」という気持ちの高揚の現れと思っている。
(首尾の松とその碑)
さて、(蔵前一丁目)の信号に戻って、
信号を渡り、街道を進む。
(蔵前二丁目)(蔵前三丁目)の信号を渡ると、
厩橋袂の信号に出る。
右が厩橋で、左へ行けば春日通りでJR御徒町駅に出る。
(厩橋)
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なんと言っても5ヶ月ほど雪に埋もれているんですから、
夏もそう長くない北アルプスの麓です。
扇風機も5日ほど使うかな?
いつも ありがとうございます♪(*'-^)-☆
回向院にあるお墓について、紹介いただき、
書く手間が省けました。
知らないことが多く、頭の中が混乱しております。
今回と前回と写真がずいぶんダブっています。
失礼しました。
回向院は4~5年前に訪れました、あの名横綱双葉山が
まだ前頭のときに奉納された
石碑がありましたね、明暦の大火の死者を弔ったお寺が
いつしか相撲発祥の地になったようですね。
ねずみ小僧のお墓もあったんでしたかな。
吉良邸も歩いていたら偶然に見つけましたよ。
名前は忘れましたが相撲部屋も周りに沢山ありましたね。