彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

天下普請の理由

2006年05月01日 | 彦根城
彦根城築城が開始されたのは1603年の事、この年に徳川家康は征夷大将軍に任命されています。
天下分け目と言われている関ヶ原の戦いが1600年ですから、後で歴史を見るなら「戦国」と分類される時代でこの先に起こった戦いは2回の大坂の陣しかない事になります。

西から東に進む時、彦根は不破の関(関ヶ原)の直前にあり、交通の要所であった事は理解できると思いますが、それならば以前からあった佐和山城を直した方が経費も安く済みますし、防衛拠点としても佐和山城が劣っていたとは思えません。

しかし、なぜかこの様な時に彦根城築城が行われました。
正確に言うならば、彦根城だけではなく名古屋城を始めとする天下普請が始まったのもこの時期だったのです。

実は、ここには徳川家康の脅えも含まれていました。

関ヶ原の戦いの時、江戸城ってどのような状態だったと思いますか?
今の皇居に天守閣があった立派なお城?
いえいえ、とんでもない!

この時の江戸城は廃墟になっていた砦を何とか人が住めるようにしただけの物でした。
つまり、もし大軍が攻め込んできたら篭もる為の城もなかった状態なのです。
そんな事態は回避しなければなりません。
その為には、大名に金を使わせて自分を守ってくれる城が出来れば一石二鳥と言う訳だったのです。

彦根城もそんな政策の一つでした。
彦根城築城には幕府から三名の普請奉行が派遣され、総指揮は徳川四天王の一人・本多忠勝が担当、縄張り(設計)は築城の天才・山本勘助の流れを汲む甲州流の築城の第一人者・早川幸豊が行ったのです。

江戸を守る為に要所に堅城を作るって発想が凄いですよね。
そして、この事でお金が動き、戦需景気から公共工事による好景気に継続していった経済感覚も相当のものですよ。
コメント
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