慶応元年(1865)9月2日、新選組四番隊組長松原忠司が亡くなりました。享年31歳。
松原は「新選組の親切者は山南と松原」といわれるくらいに温厚な人物でしたが、その死には悲しい逸話が残っています。
新選組の中で、涙をさそう物語として語られる『壬生心中』。
この物語の主人公は新選組の中でも古参に位置する松原忠司でした。
慶応元年、松原は新選組四番隊組長で柔術師範という重職を勤めていたのです。
ある日、四条大橋を歩いていた松原は前からくる浪人に不審を感じ、一騒動の末に斬り捨ててしまったのでした。
斬られたのは紀州藩浪人安西某、安西の今際の頼みで、妻おせんに遺体を届けるために安西の家を探し、そしておせんに遺体を渡したのです。
おせんは凄い取り乱しようで、松原は自分が斬ったとも言えず、慰めるしかできなかったのです。
少しずつ落ち着いたおせんに対し松原は、
「こうなったのも不思議な縁、及ばずながら力になります」
と言って、多少の金を置いて一先ず屯所に帰ったのでした。
おせんはこの時25歳くらい、安西との間に一人の子どもがいたのですが、とても美しくて近所の評判も良かったたともいわれています。
ともかく、こうして松原は自分が斬った男の妻をその責任感から面倒を見るようになり、隊務の空き時間におせんを訊ねるようになったのです。
やがて、子どもが病に倒れ、松原忠司の必死の介護の甲斐もなく、ついには帰らぬ人となってしまったのです。
こうして、家族を続けて失い女一人になったおせんが松原をますます頼るようになり、松原の方もしげしげとおせんの家に通い隊務が疎かになったのでした。
このような出来事は面白おかしく噂され、近藤勇や土方歳三の耳に入ってしまいます。
土方は松原を呼び出し、「君は妻女に横恋慕してその主人を騙し討ちにしたうえに、巧に誤魔化して親切面で妻女を自分のものにしたのではないのかね?」と厳しく問いただすのです。
松原は、「そんな疑いをかけられては武士として不名誉」と言って、安西を斬った事を報告した上でおせんは関係無い事を言い切り、別室で切腹を試みたのでした。
別室に籠った松原忠司は腹に刀を突き立てたのですが、同じ柔術師範の篠原泰之進に止められて死に至らなかったのです。
生き残った松原は平隊士に降格されます。
腹の傷の事と土方の疑いで隊務を疎かにし始めた松原が、ある日屯所に帰って来なかったのです。
事情をある程度知る林信太郎が気になって、篠原と共に安西の長屋を訪ねて行ったのです。
戸を何度叩いても返事が無いので裏口から侵入すると、きちんと敷かれた布団の上に女が仰向けに寝ていて、松原はうつ伏せていました。
林と篠原が声をかけても返事が無いので掛布団を捲ってみると、中は血の海。
松原がおせんの首を自らの手で締め殺してから、切腹していたのです。
おせんの荷物は綺麗に整理されていて、着物に乱れもなく、その枕もとには線香が立っていたのです。
松原の方は刀の先が背中から突き出ていて、勢いよく突き刺したと推測されています。
『壬生心中』は新選組の中のこの悲しい物語を伝えているのです。
でも、ここまで書いてきた壬生心中ですが、実はこの物語は子母澤寛の創作だと言われています。
この話は、八木為三郎が五稜郭での箱館戦争から帰ってきた林信太郎に聴いた話を、後年子母澤に伝え、それを子母澤が本にして出版した事になっているのですが、林は箱館に行かなかったばかりか八木に会う事も無く戦死しています。
また、当時は心中した男女は晒し者になり遺体もちゃんと葬ってもらえないのですが、松原の遺体が晒された記録も無いし、忠司は以前に出てきた光縁寺に墓が残っているのです。
子母澤寛は小説家な訳ですから多少の演出があって当然なんですがね。
松原の死を元治2年9月2日にしていることに不思議さを感じるかもしれませんが、元治2年は4月7日に慶応に改元しています。
松原は「新選組の親切者は山南と松原」といわれるくらいに温厚な人物でしたが、その死には悲しい逸話が残っています。
新選組の中で、涙をさそう物語として語られる『壬生心中』。
この物語の主人公は新選組の中でも古参に位置する松原忠司でした。
慶応元年、松原は新選組四番隊組長で柔術師範という重職を勤めていたのです。
ある日、四条大橋を歩いていた松原は前からくる浪人に不審を感じ、一騒動の末に斬り捨ててしまったのでした。
斬られたのは紀州藩浪人安西某、安西の今際の頼みで、妻おせんに遺体を届けるために安西の家を探し、そしておせんに遺体を渡したのです。
おせんは凄い取り乱しようで、松原は自分が斬ったとも言えず、慰めるしかできなかったのです。
少しずつ落ち着いたおせんに対し松原は、
「こうなったのも不思議な縁、及ばずながら力になります」
と言って、多少の金を置いて一先ず屯所に帰ったのでした。
おせんはこの時25歳くらい、安西との間に一人の子どもがいたのですが、とても美しくて近所の評判も良かったたともいわれています。
ともかく、こうして松原は自分が斬った男の妻をその責任感から面倒を見るようになり、隊務の空き時間におせんを訊ねるようになったのです。
やがて、子どもが病に倒れ、松原忠司の必死の介護の甲斐もなく、ついには帰らぬ人となってしまったのです。
こうして、家族を続けて失い女一人になったおせんが松原をますます頼るようになり、松原の方もしげしげとおせんの家に通い隊務が疎かになったのでした。
このような出来事は面白おかしく噂され、近藤勇や土方歳三の耳に入ってしまいます。
土方は松原を呼び出し、「君は妻女に横恋慕してその主人を騙し討ちにしたうえに、巧に誤魔化して親切面で妻女を自分のものにしたのではないのかね?」と厳しく問いただすのです。
松原は、「そんな疑いをかけられては武士として不名誉」と言って、安西を斬った事を報告した上でおせんは関係無い事を言い切り、別室で切腹を試みたのでした。
別室に籠った松原忠司は腹に刀を突き立てたのですが、同じ柔術師範の篠原泰之進に止められて死に至らなかったのです。
生き残った松原は平隊士に降格されます。
腹の傷の事と土方の疑いで隊務を疎かにし始めた松原が、ある日屯所に帰って来なかったのです。
事情をある程度知る林信太郎が気になって、篠原と共に安西の長屋を訪ねて行ったのです。
戸を何度叩いても返事が無いので裏口から侵入すると、きちんと敷かれた布団の上に女が仰向けに寝ていて、松原はうつ伏せていました。
林と篠原が声をかけても返事が無いので掛布団を捲ってみると、中は血の海。
松原がおせんの首を自らの手で締め殺してから、切腹していたのです。
おせんの荷物は綺麗に整理されていて、着物に乱れもなく、その枕もとには線香が立っていたのです。
松原の方は刀の先が背中から突き出ていて、勢いよく突き刺したと推測されています。
『壬生心中』は新選組の中のこの悲しい物語を伝えているのです。
でも、ここまで書いてきた壬生心中ですが、実はこの物語は子母澤寛の創作だと言われています。
この話は、八木為三郎が五稜郭での箱館戦争から帰ってきた林信太郎に聴いた話を、後年子母澤に伝え、それを子母澤が本にして出版した事になっているのですが、林は箱館に行かなかったばかりか八木に会う事も無く戦死しています。
また、当時は心中した男女は晒し者になり遺体もちゃんと葬ってもらえないのですが、松原の遺体が晒された記録も無いし、忠司は以前に出てきた光縁寺に墓が残っているのです。
子母澤寛は小説家な訳ですから多少の演出があって当然なんですがね。
松原の死を元治2年9月2日にしていることに不思議さを感じるかもしれませんが、元治2年は4月7日に慶応に改元しています。