彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

水口岡山城 第4次発掘調査説明会

2015年09月06日 | 史跡
4年にかけて毎年さまざまな成果が発表されてきた水口岡山城の発掘調査も今回でいったん区切りとなり、これからは史跡としての登録を行うかどうか?どのように整備して行くのかの方向性を問われる事になるそうです。

今回、一番話題になったのはきれいな形で報道された揚羽蝶の瓦です。
そんな水口岡山城の発掘調査説明会が雨の中で行われました(説明会の最中は小振りでした)

〇伝本丸
まずは、第一次調査で見つかった大手の虎口から天守に到る途中の発掘。
第二次調査で大石垣の可能性があった場所に繋がる石垣の発掘でしたが、栗石が出てきたのみで大石垣の可能性を行程も否定もできないとのことでした。
 

〇東端推定天守石垣遺構
第三次調査で、伝本丸の東端が大溝城から移築された武士様式の資材を利用した天守、西橋が本来この山に建っていた大岡寺の物を利用した寺院資材を利用した天守の二棟の天守と推定される建物があったことがわかりましたが、今回は東側の推定天守の石垣をもう少し調査したそうです。
その結果、前回の調査で確認した石垣の底部と石列の外側にもう一段の石垣があったことがわかりました。
これにより、二段の低い石垣を重ねた遺構であることがわかりました。
・第三次調査で見つかった石垣と石列

・上記写真左側に降る部分に見つかった石垣

・石垣下より、手前と奥にそれぞれ石垣
  
そしてこの部分には瓦や石が廃棄されていたのです。



〇揚羽蝶の瓦
今回一番注目されたのは揚羽蝶の瓦です。
三種類の鬼瓦として出土した揚羽蝶の瓦は、実は第三次発掘調査の時に見つかっていたそうですが、組み合わせるまで分からなかったそうです。
揚羽蝶ということから、これを家紋として、関ヶ原の合戦の直後に水口岡山城を攻め、その後長くても2年くらい(もっと短い可能性もある)この城に居た池田長吉の物ではないかと推測されています。
しかし、城を預かっている程度でわざわざ鬼瓦を焼いて据えるのか?との謎が残ります。
ですので、
1.池田長吉の瓦
2.歴代城主(中村一氏・増田長盛・長束正家)に揚羽蝶紋を使った人物がいた
3.吉兆の証として使った
という説も考えられるそうですが、1は上記説明通り、2はその人物が見つからない、3は他に例がないとのことで決定打に欠けています。
管理人としては、破城の時に池田家が慰霊や怨念封じで置いたのではないか?と考え質問しましたが、裏向きであったことや、バラバラになって出土していて儀礼的な意味合いは感じられないとのことでした。
・見つかった揚羽蝶の鬼瓦





・他の瓦

・出土場所
 


今回の発掘により、東端天守の石垣の構造が判明しましたが、新たに瓦の謎が広がりました。
長い発掘で土の城と思われていた水口岡山城が石垣を備えた城であることがわかるという大きな成果とたくさんの新たな謎解きゲームを示してくれたことになります。
コメント
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