彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

犬上神社と犬上君

2018年02月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 人類が最初に仲良くなった生き物は犬ではないかとの説がある。古くは縄文時代辺りには人間の狩りを手伝い、そして家族と同じ待遇も受けていたことが埋葬方法などからわかるらしい。これ対して猫(イエネコ)は仏教と共に日本に伝来したと言われている。始まりは経典を齧る鼠退治を担った存在だったのだ。よく「十二支になぜ猫が居ないか?」との話になるが、その答えは十二支が考えられた時代(古代中国)に猫がポピュラーな生き物ではなかったためなのだ。
 さて、平成30年は戌年である。私はその年の干支に関わる神社にお参りする習慣を持っているため犬に縁がある場所を探してみた。元来湖東地域は犬上郡と呼ばれていた場所が広がっていて、現在も地名として残っているため労せずしてそんな場所を見つけることができた。候補は二か所、多賀町大瀧神社内の犬上神社と豊郷町の犬上神社である。この二か所は同じ伝承を分けた場所との昔話もある。
 犬上の君が犬上川で狩りを行い少し休んでいた時に大蛇に狙われた。君はそれに気が付かずにいたが連れていた犬が大蛇に向かって吠えると君は怒って犬の首を斬ってしまった。すると犬の首は大蛇に噛み付き主人を助け、君は自らの誤解を嘆き、その地に犬の胴を埋め、首を持ち帰り屋敷近くに埋めた。胴を埋めた場所が多賀町の犬上神社で首を埋めた場所が豊郷町の犬上神社とされている。
 『近江與地志略』には多賀町の犬上神社の由来としてこの物語が紹介され、その他の伝承も詳しく紹介されている。それを読むと犬上神社は景行天皇の時に日本武尊とその子稲依別王を祀るところと言われていたともされている。実際に豊郷町の犬上神社は稲依別王が祭神となっていて、近江を治めとくに農政を発揮し、周辺が豊かな実りに恵まれたことから「稲王」と呼ばれ、それが「いねかみ」から「いぬかみ」になったとも伝わり、その子孫が犬上の君であるとも言われているのだ。
 犬上の君一族は古代日本において重要な役割を担っている。最初に名が挙がるであろう犬上御田鍬は聖徳太子が「日出処の天子」で始まる有名な文書を隋に送ったときに小野妹子に次ぐ副使として現地に向かった遣隋使であり、その後には最初の遣唐使の大使も務めている、御田鍬の子と言われている白麻呂は高句麗に派遣されるなど犬上君一族は外交に精通した官僚であった。「みたすき」は「三田耜」という名でも伝わっているモノが、農業に縁深い「御田鍬」とも記される辺りは本当に稲王だったのかもしれないとも思えてくるこんな外交官と農政の顔を持った犬上君を手塚治虫は『火の鳥太陽編』で犬上宿禰として登場させているのではないだろうか?
 こののち犬上君の子孫は多賀大社の神主を務める河瀬氏などに引き継がれたとの説もあるが詳しいことは不明のまま歴史の中に溶け込んでしまい、その足跡は犬上郡の地名と豊郷町の石碑で辛うじて知ることができるのだ。

犬上の君屋敷推定地
コメント
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