日本史において、政治的に大きな転換期は鎌倉幕府成立、明治維新、終戦であると考えている。その理由は主権の身分が変わることである。神話から始まった日本は大王、天皇、公家との流れを経て平安時代に到った。平清盛も武士でありながら自らの一族を公家にすることで政権を維持している。しかし治承・寿永の乱(源平合戦)で勝利した源頼朝が鎌倉幕府を開幕することで公家から武家へと主権が動いた。
元暦2年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで平家滅亡。三か月半後の7月9日午刻(8月13日正午)に京都を大地震が襲った。震源地は琵琶湖西岸断層と推測されM7クラスの揺れだった。京都では法勝寺の九重塔崩壊(日本史上で寺社の木塔が地震で倒れた例は二件しかない)などの被害が記録されている。8月14日に地震対策のために「文治」と改元され「文治京都地震」と呼ばれることとなるが、余震は九月末まで連日続く。
鴨長明は『方丈記』で文治京都地震のことを「山はくづれて、河を埋み、海は傾きて、陸地をひたせり(中略)都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして全からず」と書きそして「驚くほどの地震、二三十度震らぬ日はなし。十日廿日すぎしかば、やうやう間遠になりて」と残している。『平家物語』には被害が記されたあとに「たゞかなしかりけるは大地震也。鳥にあらざれば、空をもかけりがたく、竜にあらざれば、雲にも又のぼりがたし」と鳥や竜ではないので空に逃げることができないために恐怖から逃れられないとの比喩を記されている。また地震前の7月3日に壇ノ浦で亡くなった安徳天皇や平家を慰霊するための一堂が長門国(山口県)に建立されることが決定していた矢先の大地震であったため平家の怨霊が原因であるとも思われるようになった。
当時の公家が「琵琶湖の水が北に流れてしまい、しばらくしてから元に戻った」との噂があったと記録されていて、2011年に塩津港遺跡の発掘調査から琵琶湖北岸に津波が襲った跡が発見される。同年は東日本大地震発災の年でもあり大地震と津波が注目され大きな話題となった。この発掘では塩津神社が現在の位置より西に約500メートルの湖添いに建っていたことがわかり、津波に飲み込まれたと考えられる神像も出土している。現在の塩津神社は明治時代の記録を見ると湖から舟に乗ったまま参拝できたようなので平安時代も同じ形式であったかもしれない。そうであるならば文治京都地震前に塩津神社を参拝した紫式部の参拝方法にも興味が沸いてくる。
話は横道に逸れてしまったが、文治京都地震は琵琶湖でも大津波が発生する史実を私たちへの警告として伝えてくれている。鴨長明は「月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」と、月日が経つと大地震があったことを誰も言わなくなったことを嘆いているのである。今の私たちは長明に笑われないであろうか?
現在の塩津神社