文和2年(1353)、京都に足利直冬と南朝の軍勢が侵攻し、北朝の御光厳天皇は足利義詮に伴われて美濃へと逃れます。
足利尊氏は、弟直義との戦いのために鎌倉に出陣し直義の死後も鎌倉に留まったままだったのです。
その隙を突かれる形になったため、尊氏も慌てて西に進むことになりました。
美濃に入った後光厳天皇は、東山道の垂井にあった長屋氏屋敷を仮御所にしました。
その後、すぐに揖斐川沿いを北上し小島頓宮に移動します。
その後、後光厳天皇は垂井に戻り、長屋氏屋敷の垂井頓宮で尊氏と合流。
死病に蝕まれつつあった尊氏の養生ののちに京都へと進軍したのです。
大河ドラマ『太平記』で足利尊氏最後の戦と紹介されていた戦いでもありました。
そんな垂井頓宮は、後の垂井城とほぼ同じ場所とも言われています。