彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

5月11日、大津事件

2008年05月11日 | 何の日?
1891(明治24)年5月11日、ロシア皇太子・ニコライ(後のロシア帝国最後の皇帝・ニコライⅡ世)が大津市下小唐崎町で滋賀県警の津田三蔵巡査に襲われる。

この話自体は、滋賀県内とは言えども大津の事ですので彦根には直接関係内のですが、当時の日本は幕末に井伊直弼によって結ばれた『修好通商条約』による不平等条約の改正の為に国家の近代化に力を入れている時期でした。
その為に2年前の明治22年に『大日本帝国憲法』を発布し軍隊にも近代装備を性急に配備していた時でもあったのです。こう言った意味では『井伊直弼と開国150年祭』が行われる時にこそ、井伊直弼によって結ばれた条約のその後を知る一つになる事件としてここでご紹介します。


日本が諸外国の中での不当な扱いから脱却しようとしている中で、すぐ近くの近代大国ロシアは日本にとって最大の脅威でもあり一番味方にした国でもありました。また、ニコライ皇太子は日本に深い関心を持っていたのです。
ニコライ皇太子の来日は日本の外交の重要なキーポイントになるとして、当時最高の人材が接待に携わったのです。

5月11日、朝から琵琶湖見物をしたニコライ一行は滋賀県庁で昼食を取った後に京都に向けて出発。
夏の様に暑い晴れた日だったそうです。
大津市内では歓迎に為に多くの市民が道の両側を埋め尽くし、深く頭を下げていた。
警護の警官も最敬礼で並んでいたと伝わっています。
午後1時50分、大津市下小唐崎町(京町二丁目)を通過中の人力車の順番は、
先頭が京都府警部
2番目が滋賀県警部
3番目が滋賀県知事
4番目が接伴委員長・有栖川宮威仁親王
5番目がニコライ
6番目がギリシャ王子・ジョージ(ニコライと一緒に来日していた)
でした。
人力車に付いている車夫は3名で1名が車を引き後の2名が後ろから押していた。
ニコライの車を引いていたのが向畑治三郎、ジョージの車を引いていたのは北賀一太郎という人物でした。

下小唐崎町の京町通りは声も無く人力車の通る音だけが静かに響ていたそうです。
ニコライが津田岩次郎宅前を通過しようとした時、そこで警護をしていた滋賀県警の津田三蔵巡査がサーベルを抜いてニコライの右後頭部に斬りつけて帽子が飛んだ。
驚いて振り向いたニコライに対して頭部に二撃目を入れた所でニコライが反対側に飛び降りて逃げ始めます。
サーベルを振り上げ後を追う三蔵に対してジョージ王子が後ろから迫り竹の鞭で頭や肩を打ち据えたのです。
向畑治三郎が三蔵の背中に抱きつき押し倒してサーベルを落とさせると、北賀一太郎がそのサーベルを拾って三蔵をメッタ斬りにして他の車夫と共に取り押さえている。
この時、2番目の人力車に乗っていた滋賀県警・北村武警部が「殺すは不都合」と叫んで三蔵を逮捕。
ニコライは数件先の呉服屋・永井長助の店で傷口をさらし木綿で捲いて休む事となったのでした。

最初の後頭部の傷は9センチあり、骨まで達していて暫く血が止まらなかったと記録されています。

ニコライが永井長助の店で手当てを受けて少し休んでいる間に有栖川宮威仁親王が慌ててやってきます。
その時ニコライは「今日、図らずも一人の狂人の為に傷を受けたが、決して貴国を悪く思っていない。こんな傷は京都で養生したら2.3日で治るだろうから、早く東京に行って明治天皇とお会いしたい」と語ったとか・・・
しかし、傷の具合はそんなに軽いものではなく、ましてや大国ロシアの皇太子に警護の者が傷を負わせた事が一大事となるのです。
落ち着いた後にニコライはすぐに滋賀県庁に入り、その後京都の常盤ホテルに入ったのです。

有栖川宮威仁親王は東京にこの事件を電報で報告し明治天皇からの慰問の親電と京都行幸を依頼。
最高権力者の伊藤博文は病気療養の為に箱根にいたが、慌てて東京に戻り翌日午前1時に皇居に入ったのでした。
その頃、海軍は午後4時頃にロシア艦隊の報復に備えて警戒警報が発令されていたのです。
下手をするとそのまま日本海域で戦争が起る可能性も考えられたのです。

大津の有栖川宮威仁親王から報せを受けた明治天皇は伊藤博文の帰還を待って京都へ向かう事を決定。
翌日午前6時38分に新橋駅を出発した明治天皇を乗せた特別列車は10時5分に京都駅に到着。
この日はニコライとの面会は叶いませんでしたが、翌13日の午前中に面会が叶い、ニコライはそのまま神戸港に停泊中のロシア艦隊に戻る事になった事を伝え、明治天皇は神戸まで同行してこれを見送ったのでした。
14日、ニコライを乗せたロシア艦隊が日本を離れる事を決定し、その前に日本最後の昼食に明治天皇が招かれます。
ロシア艦隊に乗ってそのまま連れ去られる事を危惧した官僚達がこの誘いを断る様に進言しましたが明治天皇は毅然とした態度で誘いを受け入れ、そして無事に帰ってきたのです。
その日の午後5時前にロシア艦隊は神戸を出発し帰国の途についている。
この事件はニコライの中に暗い影を落とした様で、この後は公式文書の中で日本人をヒヒ扱いした発言も見られる様になるのでした。

大国ロシアの皇太子が負傷し、天皇の訪問の後に帰国した―というニュースは日本中を駆け巡りそして国民を恐怖の中に突き落としたのです。
特にニコライが帰国した事は問題で、「天皇陛下が謝りに行っても許してもらえなかった」との誤報が信じられたくらいでした。


5月20日、午後7時頃京都府庁前で一人の女性が自殺。
その女性の名は畠山勇子(25)和服姿で裾が乱れないように両足を手拭にて括り、剃刀で胸と喉を深く切ったがすぐには死にきれずに苦しんで亡くなったと記録が残っています。
勇子は府庁の門番所にロシア政府宛に1通・日本政府宛に2通の手紙を残していました。それによると自分の死でロシア皇太子にお詫びをするとの事でした。
勇子の自殺自体がその後の日露関係に影響を与えたとは考え難いですが、勇子自身は日本を救おうとした烈女として全国で賞賛され、小泉八雲などがその墓に訪れているし海外でも紹介されたのでした。


さて、大津事件でニコライを救うために活躍した二人の車夫(向畑治三郎と北賀一太郎)はこの事件の後に過分な恩賞を貰っています。
5月17日に京都府庁に赴いた二人は北垣京都府知事から叙勲の栄誉を受け、終身年金36円(当時の一般家庭の1年分の生活費)を約束されたのでした。
また、ロシアからは小鷲勲章と2500円の恩賞金が下賜され、年金1000円が約束されたのです。
あまりに巨額の恩賞に2人とも青くなって小刻みに震えたと言われています。

反対に滋賀県知事・沖守固、滋賀県庁書記官・横尾平太、滋賀県警警察部長・斎藤秋夫は罷免。
大津警察署長・守山警察署長(津田三蔵は守山署の巡査だった)も免官となったのでした。


そして津田三蔵自身は北賀一太郎がサーベルで斬りつけた為に頭部や背中に怪我を負っていたのです。
滋賀県監獄署に送られた三蔵は傷の手当てを受け、傷の養生の為に一般規定の三倍もする予算を当てて食事が与えられたと言われています。

明治維新以降、不平等条約の改正の為の近代化の動きは監獄の中の人権にも見られる様になっていて、国家を揺るがした三蔵の食事でもその恩恵に預かっていたと言えるのでした。
しかし、この頃から三蔵は自殺を考え始め、取調べの途中でも短刀を要求したり絶食を試みたりします。
特に絶食については監視達を困らせましたが、取調べを行っていた者の一人が、この事件で明治天皇が京都まで行幸してニコライに詫びを入れた事を伝えた為に三蔵は自分のやった事の重大さを認識し、素直に訊問に答え食事も行うようになったのでした。

訊問等で調書が作成されたのは事件の8日後の事で、これは当時としても異例の早さでした。
その結果出された罪状は「謀殺未遂罪」
当時の刑法では無期徒刑以下の刑を科せられる事となるはずでした。

しかし、政府はロシアへの配慮も考えて法を曲げてでも三蔵を死刑にすべしとの考えが主流となり、政府の重鎮(伊藤博文・陸奥宗光・松方正義・黒田清隆など)から大審院長・児島惟謙に伝えられました。
児島惟謙はこれをきっぱりと否定したのでした。大審院長とは、今で言う所の最高裁長官の様な人です。
近代国家の条件に三権分立というモノがありますね、司法(裁判所)・行政(内閣)・立法(国会)はそれぞれに独立し、それぞれに干渉を受けない事が最低限の基礎となっているというやつです。
しかし、まだ封建時代の考え方が抜けない政府要人は、権力で三権分立を無視しようとしたのです。


国家あっての法律か?
法律があるからこその国家か? という問題は日本中を巻き込みます。
児島惟謙は「国家の無事、平和は願うが、それは屈辱に満ちてはなりません。戦争の有無は裁判官が言う事ではなく、裁判官にはただ法律があるのみです。」と語り持論は曲げませんでした。


5月27日、大津地方裁判所で開廷された大審院の下した判決は「無期徒刑」でした。

裁判所の近くで判決を待っていた政府高官・西郷従道の部屋に報告に行った児島惟謙(児島は管轄違いなので裁判には直接関わっていない)は、西郷から「これで戦争になる、法律を守って国家が滅ぶ」と怒鳴られたのです。
この時児島は「戦争になるかならないかは、大臣皆様のご意向次第ですが、なんとしてもロシアとの戦争は避けて頂きたい。もし、ロシアが軍事行動を起こしたなら、その折は私も司法官の一隊を組織し、閣下達の指揮のもとで戦いましょう。その時は、堅苦しい法律は持ち出しません」と言って一礼し西郷の部屋から去ったのでした。
この事件に関わる一連の名言は真の意味での司法界の独立を表した物として歴史に刻み込まれたのです。


裁判結果は公使からロシア本国に伝えられ、6月3日にロシア政府から「貴国の法律がその様なものである以上、やむを得ない事は承知しており、判決に満足するほかはない。もとより加害者の処刑を望んでもいない」との返答があり、戦争どころか賠償金の請求も無かったのでした。
ロシアにも法律があり、日本も欧州を見本にした法律がありました。
日本が法に基いた判決を下したのだから、当たり前の結果が出ただけなのかも知れないですね。


結局、日露の関係は何かのしこりを残し1904年日露戦争勃発。
苦戦しながらも日本が勝利しましたが、ニコライは「一握りの土地も1ルーブルの金も日本に与えてはならぬ」と厳命したと伝わっていて、やはり日本に恨みを残していたのでしょうか?

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