彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

べらぼうの時代(1)

2024年12月22日 | ふることふみ(DADAjournal)
 2025年大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公は蔦屋重三郎である。この名前を聞いてどんな人物であるのかをすぐに答えられる方は少ないのではないだろうか? しかし名前は知らなくても彼が日本史に残したものは私たちの記憶に刻みつけられている。それは私たちが想像する江戸文化にぴったり符号するからである。  蔦屋重三郎をひと言で表すならば版元。江戸時代の出版社であるが、当時の版元は文化人の発掘からプロデュース、印刷、販売の全てを行なっていた。重三郎も「耕書堂」という屋号でこの全てを行なっており、重三郎が育てた文化人は浮世絵師では喜多川歌麿・東洲斎写楽・葛飾北斎など、作家では山東京伝・十返舎一九・曲亭馬琴などが挙げられる。この名前を見るだけでもその活躍が描かれるドラマには期待が膨らむのではないだろうか。  これほどの前置きを書きながら、湖東湖北の歴史をメインに紹介している本稿では直接蔦屋重三郎に関わることができない。窮余の策として重三郎が活躍した「田沼時代」から「寛政の改革」の頃を記して行きたいと考えている。身勝手な発言であるが、私(古楽)が長年興味を持ち続けた分野が田沼時代であるため話が飛躍してしまう可能性が否めないのはお許しいただきたい。  さて、歴史上でも珍しい個人名に「時代」が付く「田沼時代」とはどのように考えれば良いのであろうか? 簡単に言えば「田沼意次が実権を握っていた時代」となるが意次自身は江戸幕府の組織に組み込まれた老中のひとりであり、しかも老中首座に登ってはいない。つまり独裁者として幕府を動かしたのではないのだ。では田沼意次はどのようにして幕政を動かしていたのかと言えば、将軍の信頼と有力大名との閨閥関係の構築である。 前者について、意次の父・田沼意行が下級藩士でありながら徳川吉宗に認められ吉宗が紀州藩主から江戸幕府八代将軍へと立場を変えたときに紀州藩から連れて行った家臣であり、のちに吉宗自ら意次を九代将軍となる家重の小姓に抜擢した。意次自身も家重によく仕え家重が亡くなるときに十代将軍家治に対して「主殿(主殿頭・意次の官位)は、またうどの者(全との人・有能な者の意)なり、行々こころを添えて召仕はるべし」と遺言したとの逸話が残っている。家治はこの遺言を守り、意次を重用し続け老中職を任せることになったのだ。 後者について、身分の低い家から立身出世を遂げた者に周囲が冷たいため、意次は自分の子ども達を有力大名と縁付かせてゆく。嫡男田沼意知の正室は田沼時代を通して老中首座であった松平康福の娘を迎えている。また他の息子たちも大名家へ養子に出した。そして意次の次女(宝池院)は与板藩主井伊直朗に嫁ぎ、直朗は彦根藩主井伊直幸の八男・直広を婿養子に迎えていたため、田沼意次と井伊家にも閨閥として繋がりが出来ていたのだ。
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