彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『相良海老』

2024年09月18日 | 書籍紹介
『相良海老』を1か月近くかけて読了、他に浮気しながら少しずつ読んでました『安明間記』との副題もあり、安永と明和年間の田沼三代(意行・意次・意知)を記した物ですが、反田沼感情いっぱいです。

田沼推しは何度も挫折しそうになりますが、我慢して読みました。

反田沼の書ですが、田沼意次の家紋が丸に一文字から七曜紋に変える理由などはこの書が参考になっている面もまりますし、意知が佐野善左衛門に暗殺される時に鞘ぐるみで脇差を抜くなど、この書でも悪く書けない場面は逆に歴史的信頼も上がる(もしくは寛政期辺りでも田沼政権に認められたところもある)という穿った読み方もできます。

途中にあった話では…

石田三成は、佐吉と呼ばれた頃に美少年として豊臣秀吉に愛されて佐和山20万石の大名になり権力を恣にした。
同じく美少年だった田沼意次は、龍介(龍助)と呼ばれた頃に徳川吉宗に愛されたけど600石しか与えられず、吉宗は「龍介を寵愛してるけど天下の為になる人物じゃないから大禄は与えない」と言った。

だから、秀吉より吉宗の方が人を見る目があって凄いってことらしいけど…
むしろ吉宗の方が、人間としてクズじゃね?
まあ、2人とも根っからの女好きだから、この話し自体的外れですよね

また、後の世に田沼意次に利用された無能な大老とも言われている井伊直幸に対しての狂歌が記されていて

立(たて)からも 横から見ても 二本棒
 伊井馬鹿ものと 人はいふなり

確かに縦も横も「井」の字は二本棒だし、「ばかもの」は井伊家の官職である掃部「かもん」をやじっているのでしょうね


個人的に井伊直幸公は、大好きですし名君のひとりと思っているのですが…
てか、幻の11代藩主とも称される井伊直富さんの評価は当時から高かったのですね
父に諫言して自害した風説まであったとは驚きました。

この本、田沼推しには精神的にキツいですが、相良藩があった牧之原市で購入できました
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本居宣長宅跡と鈴屋

2024年09月16日 | 史跡

寛政7年(1795)3月25日、蔦屋重三郎が伊勢国松阪の国学者・本居宣長と面会しました。


宣長の随筆『雅事要案』には

「同廿五日来ル 一 江戸油通町蔦屋重三郎来ル 右ハ蔭春海ナトコンイノ書林也」

と記しています。

春海はたぶん宣長と同じ国学者の村田春海ではなでしょうか?

近年では、春海の隣に住んでいた斉藤十郎兵衛が東洲斎写楽だとも言われていますし、春海は若い頃に吉原に通っていたようですので、蔦屋重三郎と本居宣長は村田春海を仲介して面会を果たしたと考えて間違いないでしょう。


田沼時代に様々なアイデアで流行を作り続けた蔦屋重三郎でしたが、寛政の改革で罰を受けながらも喜多川歌麿や写楽をプロデュースして行くのです。

しかし、その一方で初期の頃から版元として着実な仕事も続けていて、その版元としての正当な仕事として世間の話題になりつつあった国学書の版権を得るために伊勢まで出向いて本居宣長に面会したのでしょう。


面会の記録はほとんど残っておらず、蔦屋重三郎も旅行記などを残していないために細かい内容はわかりませんが、商売の話がメインだったように思います。


2人が会った場所は本居宣長宅でしょうから、現在「本居宣長宅跡」になっている場所でしょう









そして、2人が出会った建物は松坂城跡に移築された「本居宣長旧宅 鈴屋」です。







本居宣長像(鈴屋内)


2人の面会から2年後(寛政9年5月6日)蔦屋重三郎はこの世を去る

蔦屋にとって最晩年ともなる旅行の記録をもっと知りたかったと残念にも思えてしまう。



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紫式部の見た近江(5)

2024年08月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 長徳2年(996)、紫式部は父・藤原為時の越前守任官を受けて越前まで同行したが紫式部のみが翌年に都に戻っている。この理由について定説では紫式部が藤原宣孝の求婚を受け入れたためであるとされている。しかし、地方に下向すればその任期である4年は戻れないことは事前に知られていることであり、それを覚悟して越前に向かった筈の紫式部がどの段階で宣孝に求婚され、父親よりも歳上の男性の妻ではなく妾になる道を選んだのかもわからないが、史実として紫式部は家族とわかれて帰路についた。

 これまで記してきた通り、往路では打出浜から湖西沿いに琵琶湖を北上したと考えられている。そして帰路は湖東沿いではないか? との説になっている、その説を押すのが「磯の歌」と「老津島の歌」であり、米原市や近江八幡市(もしくは野洲市)を通ったとも言われているのだ、そして確実に帰路の歌とされている唯一の和歌もこの考えを後押ししている。その和歌は「水うみにて、伊吹の山の雪いと白く見ゆるを」との詞書がある。この一文から紫式部が湖上で伊吹山が雪で白くなっている様子を見ていたことがわかり、帰路は冬に琵琶湖を渡ったことも証明されていて、湖東経由で伊吹山を見たのだろうと予想されているのだ。そんな伊吹山を見て

 名に高き 越の白山 ゆき馴れて 伊吹の岳を なにとこそ見ね

 との和歌を記した。「天下に知られた越前から望む白山の雪を見慣れてしまうと、伊吹山の雪景色はそれほどのことはない」と訳せばいいのか、伊吹山の雪景色の美しさを知る私たちにとっては紫式部に宣戦布告されたような気持ちにもなる。結婚のために帰京する道中だからこそ高揚した気分で美しい景色すら目に入らなかったのかもしれない。などの解釈ができる。同時に白山の雪景色を知っているために越前で冬を過ごしたあとの和歌であることも証明される紫式部が帰路に琵琶湖上で読んだ和歌と特定できることも貴重なのだ。
 しかし、この和歌が詠まれたことと紫式部が湖東航路を通過したとこは同じ土俵では語れない。伊吹山の雪景色は湖西からも望め、塩津港から湖東経由で都に向かうと考えると朝妻港や沖島辺りを通らねばならず、遠回りである。物見遊山ではない旅なのだ。また湖西からの伊吹山は少し遠くに感じてしまうために白山より見劣りしたことも認めざるを得ない面もある。一部研究者のなかでは、紫式部は帰路も湖西を南下したのではないだろうか? との考えもあり、残念ながら私もその説を推している。

 こうして紫式部の琵琶湖を渡る旅は終わった。『源氏物語』にはこれを活かすかのように近江の景色が登場する場面もある。物語に触れながら平安時代の近江に出会ってみてはいかがだろうか。


高島市から見た伊吹山(2024年8月 撮影)
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紫式部の見た近江(4)

2024年07月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
『紫式部集』に載せられている和歌について、どのような順番で並べられたものであるのかも諸説がある。越前への往復で読まれた六首についても、五首(和歌の掲載順に番号を付けると20番から24番)が連続して記され、少し離れて一首(82番)を載せているのだがこの分け方の理由も不明であるため、先の五首を往路、後の一首を帰路の和歌として順番通りに鑑賞したくなる。逆説的に解釈に多様性を加え、和歌を詠んだ推定地を明確にしようとすると順番通りで良いのか? と疑問が湧いてくる。その一首が先に紹介した湖西を北上した航路では通らない場所が出てくる「磯の歌」であり、もう一首が今稿で紹介する和歌である。

 前稿、先の五首の内で四首目に塩津山を越える場面に至った。ここは近江と若狭の国境であり『紫式部集』の和歌が詠まれた順番通りならば「塩津山の歌」の次は若狭の一首にならなければならない。しかし次に記されているのは「水うみに、老津(おいつ)島といふ洲崎に向ひて、童べの浦といふ入海のおかしきを、口ずさびに」という詞書である。直訳すると「湖に『老津島』という洲崎(海中などに突き出た岬)があり、この岬に向かうように『童の浦』という入江があるのが面白くて思わず口ずさんだ」となるだろうか?そして詠まれた和歌も面白い

 老津島 島守る神や 諫むらん 浪もさはがぬ 童べの浦

 簡単な意味としては「老津島を守る神様が注意してくれたのだろうか。童べの浦という場所なのに子どもたちの騒がしさがなく、波が穏やかです」となる。一首前に塩津山の地名から人生の辛さを重ねた紫式部の言葉遊びを紹介したが、ここでも「老」と「童」の地名が向かい合っていることから賑やかな子どもを叱る老人を想像させる言葉遊びである。

 しかしこの和歌には大きな問題がある。湖岸道路を走っていると野洲市のマイアミ浜近くで「紫式部歌碑」の案内板を目撃する。ここに刻まれた和歌が「老津島の歌」なのだが、この和歌は近江八幡市百々神社の鳥居前にも歌碑がある。これは「老津島」に沖島と奥津嶋神社がある長命寺山(昔は島だった)という2か所の候補地があつためである。そして「童べの浦」という地名は現存しない。場合によっては東近江市の乙女浜ともされているが確信もない。詳細は次稿に譲るが紫式部式部がどちらかの地(あるいは両方)を訪れた可能性は皆無と考える可能性もある。場合によっては紫式部が近江旅の途中で偶然耳にした地名であったのかもしれない。この和歌は、近江国の特定の地域ではなく琵琶湖を渡る途中で夕立に襲われ怖い思いをした場面もあったものの全体的には夏の穏やかな波で船旅を楽しむなど、近江という地を通過した安心感から生まれた総括と考えるべきなのかもしれない。


百々神社の紫式部歌碑(近江八幡市北津田町)
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紫式部の見た近江(3)

2024年06月23日 | ふることふみ(DADAjournal)
 紫式部を連れた藤原為時一行は打出浜から出港し夕立などの恐怖を乗り越えて琵琶湖を北上、横断を果たし塩津港に上陸した。
そのまま塩津で一泊し翌日、塩津神社に参詣したと言われている。塩津神社からは琵琶湖を眺めることができ間違いなく近江の絶景の一つであると言えるが紫式部は和歌を残してはいない、もしかすると琵琶湖上で感じた負の感情が強すぎて筆が進まなかったのではないだろうか?
 塩津から敦賀に向かうためには塩津山の深坂峠という山道を越えなければならず、紫式部はますます不安になるのではないかと心配しながら次の和歌を鑑賞すると「塩津山といふ道のいとしげきを、賤のおのあやしきさまどもして、『なを、からき道なりや』といふを聞きて」との説明じみた詞書が記されている。直訳すると、塩津山という草木が生い茂った歩きつらい道。ここを越えるために(為時に雇われて付いてきている)風体の貧し人夫たちが「ここはやっぱり歩きにくい難儀な道(からき道)だ」と言っているのを紫式部が聞いた。と、次に記録される和歌がどのような状況で詠まれたものであるかという情景を細かく教えてくれている。少し補足を加えるならば、越前から都へ戻る紫式部が呼坂という場所で「輿も舁きわづらふを、恐ろしと思ふに」と「自分の乗る輿をかく者たちが大変そうで恐ろしく思った」との記録を残していることから越前へ向かう陸路でも紫式部が輿に乗っていた可能性が高い。こう考えるならば、不安定に揺れる輿に乗りながら人夫たちの「からき道」という愚痴を聞いたことが和歌へと繋がったのであろう。

 しりぬらむ 往来に慣らす 塩津山 世に経る道は からきものぞと

 直訳すれば「(人夫のあなたたちは)何度も行き来しているのだから塩津山が『からき道』であることは知っていたでしょう? この世の中の道(人生?)は、からいものなのです」と解釈すればよいであろうか? この和歌のポイントは「からき道」の辛さを「塩津山」の塩と重ねる言葉遊びであり、困難な山道と人生の辛さすらも詠み込んだことである。私的に解釈を加えるならば無位無官の苦しみを味わい続けた為時一家が越前守という大役に向かうために越えなければならなかった苦しい時期すらも組み込まれていたのかもしれない。

 一般的に『枕草子』で現在のSNSで書かれるようなみんなに共感してもらえるコメントを上手に文章にした陽キャラのイメージが強い清少納言と、『源氏物語』や『紫式部日記』で人間の栄光や心の闇を炙り出した文学者肌の紫式部は、対照的に描かれている。しかし紫式部も言葉を遊びとして楽しむ一面も持っていたのである。


塩津浜の歌碑
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紫式部の見た近江(2)

2024年05月26日 | ふることふみ(DADAjournal)
『紫式部集』に残された和歌のうちで大きな議論を交わされるものが何首か存在する。前稿で紹介した三尾が崎の次に記されている和歌も激しく論争される一首である。「又、磯の浜に、鶴の声々鳴くを」との詞書と

 磯がくれ おなじ心に 鶴(たづ)ぞ鳴く なに(汝が)思ひ出づる 人や誰ぞも

「磯の浜で私の心と同じような気持ちで鶴が(次々に)鳴いている。お前たちは誰を思い出して鳴いているのだろう」との解釈になるであろうか。
 滋賀県民が磯と聞けば米原市と彦根市の市境付近にある地名が頭を過る。しかし紫式部が越前に向かうために湖西に近い航路を使って近江を旅し、季節は夏であることは確定していると考えられているため、現在の高島市と大津市の市境付近にある三尾から、米原市の磯まで船が琵琶湖を横切ったことは不自然である。また鶴が詠まれるのは冬に多いため、磯の歌は往路ではなく帰路に詠まれたものではないか? とも言われている。しかしこの和歌は三尾が崎で「都恋しも」と詠んだ寂しさをより深くするように都で出会った人を思い出してそっと涙する様子を鶴の鳴き声に重ねていて、京に向かっている帰路よりは京から離れる往路にこそ味わい深いのではないだろうか? 磯という言葉は特定の地名ではなく磯という漠然とした雰囲気で使われた可能性は否めない、鶴と冬との季節の関りについては今後の課題にしたい。
 続いては「夕立しぬべしとて、空の曇りて、ひらめくに」と、夕立が起りそうで空が曇り稲妻が光る様子を伝え、

 かき曇り 夕立つ浪の 荒ければ 浮きたる舟ぞ 静心なき

「空が曇ってきて、夕立になるとのことで波が荒くなってきた。浮いている舟は(激しく)揺れて心穏やかではいられない」と解釈するならば紫式部たちは舟に乗って湖上を進んでいるときに夕立に遭った様子が浮かんでくる。当時の舟は小さく安定感は悪かった。小さい舟だということは体感するスピードも牛車になれた平安貴族には驚きしかなかったのでないだろうか? また風の影響も考慮しなければならない。この和歌に「夕立」という言葉が含まれているため前述したように紫式部たちが越前に向かった季節が夏であると確定されているのである。琵琶湖の状態を考えても冬に湖上を渡るより夏のほうが湖面も穏やかであった。しかし突然の豪雨と強風そして稲妻が襲い、逃げる場所のない湖の上でひたすら神仏に願うしかなかったであろう。一行がどのあたりで夕立に遭ったのかを詳しく知ることはできないが、この日の内に竹生島を眺め塩津港まで上陸したと考えられている。紫式部の琵琶湖横断は期待感よりも哀愁と恐怖が強かったのかもしれない。


塩津港遺跡(2015年12月 撮影)
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紫式部の見た近江(1)

2024年04月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 長徳2年(996)1月28日、紫式部の父・藤原為時は越前守に任官された。この時代は「◯◯守」などの官職を得たならばその国の国府に一家で住んで政務を執ることとなる。為時は越前守任官の3日前に小国である淡路守を命ぜられていて本来ならば淡路島に向かう筈だった。この決定を覆し大国である越前守を任じたのは藤原道長である。道長は紫式部が『源氏物語』を執筆する前から為時との繋がりを持っていたことが伺えるのである。

 さて為時の越前行には紫式部も同行している、結婚適齢期が14歳くらいであった時代に24歳とも27歳とも伝えられている紫式部がなぜ未婚であったのかは不明だが、為時の越前守任官と紫式部の未婚という偶然から私たちは紫式部が旅をした近江と道中の心情を垣間見ることができるのである。
 紫式部の近江紀行はのちに自身が撰んだ家集である『紫式部集』に収められた和歌においてのみ記されていてこのうちの六首が近江の歌だとされている。この和歌を鑑賞し、多少の空想を交えながら紫式部の旅に同行してみよう。なお底本は岩波文庫版『紫式部集』南波浩校註とするが、多くの研究や解釈がなされているため以降の話は諸説の中の一つであることをご了承いただきたい。
 1月28日に越前守へ任官された藤原為時だったが、往路に紫式部が残した和歌の季語から京を出発したのは夏頃であったと考えられている。当時の北陸への行程は京から陸路で逢坂の関を越えて打出浜で船に乗り琵琶湖を北上して塩津港で上陸する航路か琵琶湖西岸を進む陸路、ともに塩津から深坂峠を越えて敦賀に出ていた。為時一行は航路を選んだと考えられているため、京を出発し牛車に揺られ大津に到着。大津で宿泊し天候の良い日に打出浜から船に乗ったのであろう。夏の湖上に吹く風の心地良さに心躍りながらも住み慣れた京から離れる寂しさも沸き上がっていた。船は三尾が崎(高島市安曇川町もしくは白髭神社付近)に到着。「近江の湖にて、三尾が崎といふところに、網引くを見て」との詞書のあとに

 三尾の海に 網引民の 手間もなく 立居につけて 都恋しも

 との和歌を記している。直訳すれば、「網を引く漁師たちが手を休める暇もなく働き続けている姿を見て都が恋しくなった」となるであろうか? 無位無官の貴族の娘として忙しく動き回っていた生活から、のんびりと船に乗って風景がだんだんさびれていく様子を感じながら、越前国府に向かう道程の半分も進まないうちから都を懐かしく思っているのは、これから起こる未知の生活への不安に襲われている女性の心情を真っ直ぐに表しているが、このあとの旅も紫式部らしさが詠まれるのである。


紫式部歌碑(高島市 白髭神社境内)
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揺れる近江(6)

2024年03月24日 | ふることふみ(DADAjournal)
 平安時代前期の群発地震が落ち着いてから一世紀弱、日本では災害史に特筆すべき出来事は発生しなかった。一方で政治の世界では藤原北家が確実に地位を高めつつある摂関政治の創成期とも重なっている。
 政治史において円融天皇の許で藤原兼道と兼家(藤原道長の父)が兄弟で激しい権力争いを行っていた天延4年6月18日(976年7月17日)申刻(午後4時頃)、京都が激しく揺れた。
 京都の被害として『日本紀略』には、雷のような轟音が大地に響き八省院(大内裏の政庁)・豊楽院(内裏饗宴施設)・東寺・西寺・極楽寺・清水寺・円覚寺が顛倒と記録されている。6月18日が観音様の縁日であったため十一面観音像を安置している清水寺では多くの参詣者が訪れていたため倒壊した本堂に巻き込まれた僧侶や民衆の50余名が圧死した。また『扶桑略記』には大津市辺りの被害も記録されていて近江国庁の建物30余棟倒壊、近江国分寺大門が崩れ二王像破損、崇福寺の法華堂・時守堂が谷底に落ち鐘堂なども被害に遭った。当時は大伽藍として知られていた関寺(現・長安寺)の大仏も破損し腰上が全てなくなったと記している。『日本紀略』『扶桑略記』ともに今稿で紹介している地震から二世紀のちに他の史料を抜粋して編纂された書物であるため信ぴょう性を疑問視される部分もあり地震被害についても過大解釈されているとの説もあるが、近江国庁などの発掘調査で地震被害の痕跡を確認できるため規模の大きい内陸地震が京都や大津を襲ったことは間違いなく現在の滋賀県と京都府の県境を震源とする大規模な地震であったと考えられている。また近江地震史にとっては初めて被害状況が記された地震となるのだ。地震の発生の翌日14回の余震が記録され7月23日まで揺れていて、円融天皇は7月22日に元号を「貞元」に改元。余談ではあるが地震の2年後に藤原兼家の次女詮子が円融天皇に入内している。

 この地震で倒壊した関寺はこののち源信(恵心僧都・横川僧都『往生要集』著者)の弟子・延鏡が仏師康尚らの協力を得て約50年後に再興される。再興事業の際、清水寺から役牛が寄進されたのだがいつの頃からか一頭の牛が迦葉仏(釈迦仏の直前に出現した過去七仏の六番目の仏)の化現であるとの夢告が噂となり、人々は牛との結縁を求めて作業現場を訪れるようになる、この中には藤原道長・倫子夫妻も含まれている。長徳2年(996)紫式部は父・藤原為時の越前守任官に伴って越前国(福井県東部)に下向する。越前への往復については次稿で触れるが、この時期と関寺再興事業が重なっている。為時一行は都を出て逢坂の関を越え打出浜から船に乗り琵琶湖を渡ったと伝えらえていて、文化人である為時や紫式部が関寺を訪れ霊牛と縁を結んだ可能性があるのかもしれない。


関寺の霊牛塔(大津市逢坂二丁目 長安寺)
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揺れる近江(5)

2024年02月25日 | ふることふみ(DADAjournal)
 嵯峨・淳和天皇を失意のどん底に落とした日本各地の大災害は両天皇の御代で終焉を迎えたわけではない。皇位を甥・仁明天皇に譲り、自らの薄葬まで指示して為政者としての不徳の罪を償おうとした淳和上皇崩御の翌年には信濃国(長野県)と北伊豆でも大地震が発生している。仁明天皇も「神霊の咎は悪政によるもので恥じ入る」との詔を出すことになる。
 この頃から地震の揺れ以上に政局も揺れ始め、他氏排斥を計画的に行い政局の波を乗り越えた藤原氏が台頭するようになる。嘉祥3年(850)、仁明天皇崩御。藤原北家・藤原良房の妹が生んだ文徳天皇が即位しのちに(次の清和天皇の御代)良房が皇族以外で初めての摂政に任じられたことで藤原北家が朝廷の要職を独占する摂関政治の時代となる。
 文徳天皇の御代は東北三陸地震発生。三陸では短いサイクルで大地震が発生するようになり16年後(貞観11年)の貞観三陸地震では沖合で発生したM8を超える揺れにより沿岸を大津波が襲ったと伝えられていて東日本大震災発生後に注目された。貞観三陸地震の前年には播磨国(兵庫県西部)、7年前には越中国(富山県)辺りでも巨大地震が発生していて、阪神淡路大震災や新潟中越地震・能登半島地震と重なってしまうのは考えすぎであろうか?

 時間が進みすぎてしまったので、文徳天皇即位の頃に話を戻す。即位から5年後、京都周辺で群発地震と疫病が猛威を振るい、地震の影響で東大寺大仏の仏頭が落ちる。3年後文徳天皇崩御、良房の外孫である清和天皇が即位。貞観6年(864)富士山が噴火して2年以上活動する。
 元慶2年(878)関東地方を直下型地震が襲い5~6日ほど群発した揺れにより地面は陥没し倒壊家屋・死傷者とも数が多すぎて記しきれなかったと伝えられている。2年後は出雲国(島根県)も大地震に襲われ余震が8日間続いている。
 そして仁和3年7月30日申刻(887年8月26日午後4時頃)平安時代前期の象徴とも言える群発地震の最後になる仁和地震発生。発生終日前から京都ではたびたび地震が観測されていて建物を倒壊させる規模の揺れもあった。仁和地震はM8クラスとされていて、当日の記録では数刻に渡って日本全国が揺れたような記録が見受けられる。特に酷かったのは摂津国(大阪府北部)で大津波が寄せた。津波は讃岐国(香川県)でも記録が残っている。これらの記録から仁和地震は東海・東南海・南海連動型地震であったのではないかと推測されている。

 こうして818年から始まった災害は約70年間日本を苦しめ続けた。この時期と現在の類似性を指摘する意見を尊重するならば、1990年代から始まる災害はまだ終焉が見えないのかもしれない。


群発地震が起こると富士山が噴火するかも?(2022年1月撮影)
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揺れる近江(4)

2024年01月28日 | ふることふみ(DADAjournal)
 令和6年(2024)元日の夕方に石川県を襲った令和6年能登半島地震は、滋賀県にも強い揺れをもたらす衝撃的な出来事となった。本震だけではなく余震も油断ならず被災地から伝えられてくる惨状に心が痛くなる。一日でも早い終息と復興を願う。
 日本史の中で特に地震被害が酷かったのは九世紀後半と言われているが、その頃と同じ程度の巨大地震が発生しているのが現在の日本である。このことから専門家のなかには「千年に一度の地震活動期に入ったのではないか?」との推測も出始めている。本来ならば近江に関わる地震を中心に記しているが、この時期の地震は全国規模で俯瞰したいと思う。
 延暦13年(794)平安京遷都。約四百年続く平安時代の始まりである。この四半世紀後の弘仁2年(818)夏、関東に被害を及ぼした大地震が発生。ここから日本列島は特筆すべき災害期へと突入する。このとき帝位についていた嵯峨天皇は諸国に使者を派遣して被害状況を把握するとともに被災者に援助物資を配ることを命じている。これと同時に「朕は才能もないのに帝位に即いた。このため民をいつくしむ心は忘れたことがないが、徳が及ばずにこのような大災害を招いてしまった」と自らの不徳を嘆き「現地の役人が被害を調査し住居や仕事を失った者には今年の租調(税)を免除し建物再建を助け、飢えや野宿暮らしを強いられることがないようにせよ。また死者は速やかに埋葬し民には朕の想いに沿うように慈しみを与えよ」との詔を交付している。嵯峨天皇はこののちも地震についての詔を交付しているがそのなかでは前稿で紹介した紫香楽宮で聖武天皇が被災した地震にも触れ「過去の異変を忘れてはならず、教訓として活かせないほど昔の話でもない(75年前)」とも記している。

 このように嵯峨天皇は関東での大地震を自らの不徳として深く悩み、その分だけ被災者に慈しみを与え災害復興に尽力した、そして5年後に弟・淳和天皇に皇位を譲って上皇となるが、こののちは京都での地震が頻繁に発生するようになり天長4年7月12日(828年8月11日)京都でM7クラスとも推測される大地震が発生し多くの建物が倒壊するとともに長い余震(7月は毎日、翌年6月まで続く)に苦しむこととなってしまう。淳和天皇は兄と同じ悩みを抱えることとなるが震源地が畿内であったためにその苦しさはもっと深かったのではないだろうか? 2年後には追討ちをかけるように出羽国(山形県)でも大地震が発生、兄と同じように「出羽の地震は天の咎であり朕の不徳である」と自らを責める詔を交付して税の免除や民衆救済、災害復興を命じた。この年末には京都の内裏に記録に残る最初の「モノノケ」が現れ、天長9年(832)三宅島噴火。淳和天皇は失意のうちに甥・仁明天皇に皇位を譲り、崩御の際には自らの意思で火葬と歴代天皇で唯一の散骨による薄葬を命じている。


淳和天皇火葬塚(京都府向日市)
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