彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

大阪城 豊臣石垣館

2025年03月22日 | 史跡
4月1日から開館となる大阪城 豊臣石垣館の事前内覧に行ってきました

これは、大阪城の「太閤なにわの夢募金」で一万円以上の募金を行った人に案内が来ていたもので、恥ずかしながら管理人も2012年くらいに募金を行い天守前の広場にずっと名前が掲載されていました

…と言う訳で、年に何度か報告の郵便も届いていて公開を楽しみにしていました

豊臣石垣というのは、大坂城を築いた豊臣秀吉の時代に積まれた石垣のことです。
大坂城は大坂夏の陣で焼け落ちますが、その後は徳川幕府により再建されています。
この時、豊臣政権期の石垣を改修して建物が建てられたと考えられていたのですが、昭和になってから現在の城址地下に古い石垣が発見されました。
そして、昭和59年(1984)に発掘された石垣から地中の古い石垣が豊臣政権期の物と判明。
これにより、徳川幕府は豊臣政権期の石垣を全て埋めた上に改めて石垣を積み直して現在の城郭を築いたことがわかったのです。
豊臣色を消そうとした徳川幕府の執念ですが、だからこそ貴重な豊臣期の石垣が残ったとも言えます。
ちなみに、現在見る事ができる徳川期の石垣は他の追従を許さないほどの高石垣です。

これは豊臣期の石垣が、「下ノ段」「中ノ段」「詰ノ丸」と三段構えだった場所を一気に埋めたからでした(写真はパンフレットより)

そんな詰ノ丸南東部の石垣を見ることができます。
天守脇の金蔵裏へ

施設に入り、大坂夏の陣の様子を見てから奥へ

地下に入ると豊臣期らしい野面積み

そこに残る大坂夏の陣で焼けた痕跡

そして、高石垣には欠かせない算木積みの初期の形式

など、石垣のいろいろが学べばました
映像もあり、学習施設としての活用が期待できますね
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『べらぼう』の話(11)エレキテル

2025年03月16日 | 史跡

安永5年(1776)、平賀源内は深川でエレキテルの復元に成功しています。


エレキテルは平賀源内の発明であるとの誤解がありますが、本来はオランダで発明されたもので源内の復元より四半世紀前にはオランダから江戸幕府に贈られてもいたのです。

源内も存在は知っていて、長崎留学時に壊れたエレキテルに興味を持ち、江戸に持って帰ったとされています。


エレキテルは、静電気を発生させそれが人体の中を通ることで体の中の病原などを取り除くとの考えで作られた医療器具でした。

ガラス瓶の中に金属を入れ、ハンドルで回すことで電気が蓄電されて電気を発する構造(本来はもっと複雑)です。

帯電と放電という電気の性質は科学ですが、源内自身もここまでの知識は持ち合わせず、陰陽道や仏教の理屈で説明しようとしたため、だんだんとエレキテルは見せ物の扱いになってしまったのです。


ちなみに、ベンジャミン・フランクリが雷雲に向けて凧を上げた実験が1751年ですが、源内が電気の存在について知っていた可能性は低く、何かわからないものを復元するということは、未知の発明と同じくらいの挑戦であったと考えられるので、ただの復元ではない意味があり源内がもって深掘りできていたら江戸文化に別の一面ができていたのではないか?とも感じてしまいます。


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『べらぼう』の話(10)一橋治済

2025年03月09日 | 史跡
御三卿の一家である田安家唯一の男性であった田安賢丸(定信)が、田安家から奥州白河藩松平家に養子に出されました。

この時期、将軍徳川家治には家基という鷹狩りを好むくらい健康な世子がいて御三卿から将軍候補を迎える可能性は考えられていなかったため、定信が御三卿として部屋住同然の無意味な人生を送るくらいならば、譜代大名になり幕政にすら参画できる資格を得る方が温情であったと言えます。
『べらぼう』のなかでは、御三卿に十万石を与える無駄を嫌った田沼意次が描かれ、田沼意次も定信を白河藩に向かわせることを賛成し、むしろ積極的に進めた感がありますが、実際にこれを推進したのは一橋治済であったとされています。

史の中で黒幕と目される人物は数人挙げられますが、その中でも最大級の黒幕は本当の意味ではほとんど歴史に顔を出さない人物です。
そんな最大級の黒幕と言っていい人物の一人が一橋治済です。

治済の身分としては、御三卿の一家である一橋家の2代当主で、後に11代将軍徳川家斉の父親になります。
一橋家の初代である宗尹の四男として生まれながら、兄が他家へ養子に出たために一橋家当主となったのです。
当時、御三卿は実質的に江戸城に寄生するような存在で、幕府から見れば厄介者であり目に見えるところで将軍職を巡って争うような状態だったので、ここの子どもたちは何かと理由をつけて養子に出されてしまうのが当たり前でした。治済の兄たちが養子に行くのも珍しいことではなかったのです。
そして運命の巡り会わせで一橋家の当主になった治済は相当な野心家だったのです。

田沼意次の弟の意誠を一橋家家老に迎え入れ、意誠の死後はその子意致に続けて家老を任せ、そのパイプを活用して行くのです。この工作のひとつが定信の白河藩行きだったと考えられています。
このために、意次はギリギリまで治済を味方だと信じていた様子すら感じられます。
治済自身、定信を田安家から追い出したのは意次であると定信に信じ込ませたようで、のちに定信は田安家に治済の子を養子として迎え、田安家は一橋家に乗っ取られる形となるのです。

一橋徳川家屋敷跡
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『べらぼう』の話(9)五代目瀬川

2025年03月02日 | その他
『べらぼう』の話では、蔦屋重三郎と幼馴染で淡い恋心の相手として描かれている花の井が五代目瀬川を襲名し、鳥山検校に身請けされることになる。

身請けとは、遊女の借金やその後に受けるであろう収入プラスご祝儀を客が見世に支払って遊女を自由にする(ほとんどは、自らの妾にする)ことです。

吉原の松葉屋においての「瀬川」の名前は、享保年間(1716〜36)から天保年間(1781〜89)までの長くても73年の間に9人が名乗っていて、ドラマでも触れられている四代目は宝暦年間(1751〜64)に美貌と教養の高さで知名度を一気に上げたと言われています。
ドラマでは、四代目が自害したために遠慮される名前とされていますが、歴史的には御用商人江市屋宗助に身請けされたとも、江市屋を表に立ててある藩の家老が身請けしたとも伝わっていてその死が28歳であったこと以外は死因ははっきりしていません。
その後、五代目瀬川まで約20年の空白があったことは史実でした。

そんな五代目を見染めたのが、盲人である島山検校でした。
江戸幕府は、目が見えない人に対する優遇措置のひとつとして高利貸しを認めていて、盲人は按摩などの仕事で得たお金を高利で貸付けて身分を金で買っていたのです。「検校」は盲人の最高位で約千両で買えたとも言われています。
盲人の取り立ては激しく、しかも借り手が取り立てのキツさなどを幕府に訴え出てもほぼ盲人勝利の判決が下されたのです。
鳥山検校は、盲人たちのトップにいた人物ですのでお金には有り余っていたと考えられます。

安永4年(1775)、鳥山検校が五代目瀬川を身請けした時の金額は1400両とされています。現在の価値で1億から1億5千万円くらいでしょうか。

しかし、瀬川が身請けされてから3年後にある旗本が厳しい取立てに負けて出奔する事件が起こり、幕府により盲人一斉摘発が行われ鳥山検校も罪に問われ遠島となります。

瀬川は、飯沼という武家の妻になったあと夫の仕事大工の妻となり、尼になって生涯を終えたとの話もありますが、真相は不明です。

鳥居清長筆《雛形若菜の初模様・松葉屋瀬川 さゝの 竹の》
国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/
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べらぼうの時代(3)

2025年02月27日 | その他

 井伊直幸を大老に迎えた田沼意次だったが、御三家や御三卿などをはじめとする親藩や譜代大名らからの反発を受け、後ろ盾であった十代将軍徳川家治が急死したことから急激に権力を失ってゆく。また各地で起きた天変地異や打ち毀しの責任も意次が負わされた。こうして田沼時代は終わり、徳川吉宗の孫である松平定信が老中首座に就き「寛政の改革」が始まる。

 田沼意次失脚後の天明8年(1788)蔦屋重三郎の耕書堂から発刊された黄表紙である朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』では、定信が推奨する文武のどちらにもかからない「ぬらくら武士」のひとりとして井伊直幸と思われる人物も描かれていて(画像左上「伊」の紋を付けた人物、向かい合って七曜紋を付けているのが田沼意次)、重三郎らも直幸と意次の深い繋がりを理解しながら田沼時代の終焉を歓迎していた風潮も見受けられる。それと同時に定信の政治に対しても皮肉を込めた物語であった。この作品は江戸での評判が高くベストセラーとなる。翌年には喜三二の友でありライバルでもある恋川春町が『鸚鵡返文武二道』を発表。これにより定信の怒りが爆発した。秋田藩留守居役であった朋誠堂喜三二は断筆、駿河小島藩年寄本役であった恋川春町は幕府からの呼出に応じないまま急死(自害との説が有力)する。耕書堂の二枚看板であった二人を失った蔦屋の巻き返しは黄表紙ではなく浮世絵を中心に行われることとなり、ここから喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出すこととなるが、同時に幕府によって規制され罰も受けることとなる。

 このように、江戸幕府が庶民に考え方を押し付けて活気がなくなりつつある空気を明確に示した狂歌がある。
「白河の清きに魚も住みかねて 元の濁りの田沼恋しき」
 (白河藩主である松平定信の清い政治は暮らしにくい、黒い噂があったとしても田沼時代の濁りが懐かしい)
「世の中は蚊ほど煩きものはなし ぶんぶぶんぶというて夜も眠れず」
 (世の中にこれほど煩いものがあるだろうか? 文武文武と言ってこられては安心して眠ることもできない)

 田沼意次を汚れた賄賂政治家と決めつけて天変地異すらも意次の責任とし、意次の息子・意知を暗殺した佐野善左衛門を世直し大明神とまで崇めた江戸市民たちであったが、失ってから初めて田沼時代は自由な風が流れていて庶民の権利すらも認められていたことに気付いたのだった。意次は蝦夷地開拓からのロシアとの貿易、その航路として必要になる運河の役割も果たす印旛沼の開拓、金・銀・銭の三つの貨幣が入り乱れていた経済を統一した通貨を流通させて明朗化しようとした経済改革など日本が開国し近代化する礎を築く政策を行っていた、しかし現代にいたるまで田沼時代は賄賂に汚れた汚職政治の時代としか見られないのである。

『文武二道万石通』国立国会図書館デジタルコレクション
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『べらぼう』の話(8)『金々先生栄華夢』

2025年02月23日 | その他
盗作疑惑で幕府の罰を受けた鱗形屋孫兵衛ですが、これによって鱗形屋がなくなった訳ではありませんので釈放された鱗形屋は版元としての仕事を再開しました。

ちなみに、盗作や海賊版については上方では1世紀近く前から問題になっていて版元としては強い抗議があるのも当然だったようです。

さて安永4年(1775)、駿府小島藩士の倉橋格が恋川春町の名で描いた物語『金々先生栄華夢』を鱗形屋から発刊します。
これは、目黒不動尊にお詣りに来た金屋金兵衛という貧しい者が、門前で粟餅を食べようと店に入った時に眠ってしまい、その間に金持ちになり没落するまでの夢を見た話で、故事にもなっている『邯鄲の枕』を元ネタに吉原に詳しい者でしか描けない滑稽さがふんだんに含まれてしました。

(恋川春町作・画『金々先生栄花夢:2巻』国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2537596)






これは、各藩の外交役が接待として吉原を使っていたことから、武士たちが吉原の遊び方に詳しかったことが関わっています。
久保田藩(秋田藩)留守居役の平沢常富は自らを「宝暦の色男」と称して吉原通を自負し、平沢と交流が深かった倉橋も同様に吉原通であったと考えられるのです。

『金々先生栄華夢』は、その色から黄表紙との分類がされていますが当時は「青本」と呼ばれていました。
「青本」は子ども向けだった「赤本」より大人向けになった草双紙でしたが、若草色に近い本でした。
しかし、紫外線の影響で経年劣化すると青系の色が落ちて黄色になってしまうため、後年の研究者が「黄表紙」と呼ぶようになったのです。
ですので、歴史的分類として『金々先生栄華夢』が最初の黄表紙とされていますが、鱗形屋孫兵衛も恋川春町もその認識はなかったと考えられます。
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『べらぼう』の話(7)冷やかす

2025年02月16日 | 史跡


現在では山谷堀は埋め立てられて公園になっていますが、浅草から吉原に行く時にここを歩くと当時の気分に浸れるかも?

吉原に行くにはこの日本堤を歩くか、山谷堀を猪牙舟に乗って行くことになります、猪牙舟はスピードが早かったみたいですが、お金がある人の移動手段だったみたいですね。



今も橋柱を見ることができますが、その中でも注目したいのが「紙洗橋」です。


これは古紙を回収して熱して溶かして冷やして砕いて漉き直す、いわゆる安価なリサイクルの紙でした。

このため、職人たちは紙を溶かしてから冷めるまでの空いた時間に吉原見物に行っていたのです。

見物だけで、客になる訳ではないので、買う気持ちがないのに見に行くだけの行為を「冷やかす」と言うようになりました。

紙洗橋は、「冷やかす」語源の地なのです。




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『べらぼう』の話(6)佐野政言

2025年02月09日 | 史跡
佐野家は藤原秀郷の子孫基綱が源頼朝の御家人として下野国佐野荘地頭に任ぜられて佐野姓を称しました。その孫の実綱には多くの子がいて所領を子らに分割相続させます。その中の1人重綱が田沼の地を得て田沼姓を称し佐野家の家臣となったのです。
佐野善左衛門が田沼家が家来筋であったことを主張するのはここに起因します。
このままでしたら田沼意次は、姓名を「藤原意次」と記さねばなりませんが、史料では「源意次」と書いています。これは田沼重綱の五代後の田沼光房に男子がいなかったため娘の嫁ぎ先から孫を養子として迎えて家を継がせました、この養子は田沼重綱(初代と同じでややこしい)と名乗りますがその父は高瀬忠重という人物で清和源氏新田家の末だったのです。この時から田沼意次の田沼家は源姓を使うことになります。

つまり、厳密に両家に主従関係を求めるなら鎌倉時代の短い期間と考えねばなりません。
佐野善左衛門が名家佐野家の系図を田沼意知に渡したのは、当時の武士が出世の足掛かりに家格を重視した風潮から「名門佐野家を利用していいぞ」との意味を含めたとされています。





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『べらぼう』の話(5)須原屋

2025年02月02日 | その他
書物問屋須原屋市兵衛は、江戸で大きな商いを行っていた須原屋の店舗のひとつ
伊勢国北畠氏の子孫との伝承もあります。

前回も書いた通り、出版関連は上方が中心で江戸に下って行くのですが、五代将軍徳川綱吉の頃に江戸で出版事業を始めたのが須原屋茂兵衛でした。以降須原屋茂兵衛家は明治まで9代に渡って商売を行い、現在も続いています。

そんな須原屋は江戸時代を通して分家やのれん分けなどで店舗を増やして行き、そのなかでも田沼期から寛政の改革期に大きく活躍したのが須原屋市兵衛でした。
有名な出版としては杉田玄白らが記した『解体新書』。他にも平賀源内の著書も発行しています。
そして、林子平の『三国通覧図説』も発行していましたが、子平の著書が松平定信の怒りに触れたため『三国通覧図説』は版木の処分、須原屋市兵衛は重過料の罰を受けるのです。
須原屋市兵江衛は蔦屋重三郎とは違った形ではありますがこの時代の出版界をけん称される版元であることは間違いありません。

須原屋は『武鑑』も発刊しています
僕の手元には萬延元年(1860)の物がありますが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたあとの形もちゃんと反映されています



また文化年間の『孟子』には江戸に須原屋平助(日本橋通三丁目)、京都に須原屋平衛門(富小路通三条下る)もありました

他にも、須原屋茂兵衛と共に『江戸名所図会』を発刊した須原屋伊八
『一目千本』の絵を描いた北尾重政の父である須原屋三郎兵衛
北尾重政の墓の正面に墓がある荻生徂徠との交流が深かった嵩山房(小林新兵衛門)

などが歴史に業績を残しています。
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べらぼうの時代(2)

2025年01月26日 | ふることふみ(DADAjournal)

 田沼時代に彦根藩主であった井伊直幸は直弼の祖父となる人物であるが彦根藩主になるまでに大きな障害があった。
直幸の父・直惟は江戸時代を通して唯一二度の大老職を務めた井伊直興(直該)の子として生まれるが兄弟が多く彦根藩主に就く可能性は少なかった。しかし直興隠居後に彦根藩主を継いだ直通と直恒が次々と亡くなり直惟が彦根藩主になったのです。徳川家重の加冠役を務めますが病弱を理由に弟・直定に家督を譲って隠居しすぐに病没、直定は直惟の子である直禔が成長するまで待ち藩主の座を譲るが直禔は在任60日で亡くなってしまい直定が再び彦根藩主の責務を負うこととなった。

 井伊直幸は直惟の子であり直禔の弟でるため再任した直定の次に彦根藩主を任されるのは自分であると自負するようになっていたはずである。しかし直定は宇和島藩伊達家から伊達伊織を養子に迎えて井伊家を継がそうとした。直幸はこれに反発、そして幕府からも直幸に家督を継がせるように命が下り直幸は彦根藩主となった。直幸が彦根藩主になったのは宝暦5年(1755)であり、直幸と深い関わりを持つこととなる田沼意次が台頭するのは3年後である。こののち両者は与板藩井伊家を仲介として閨閥関係を築いてゆき、与板藩主であり意次の次女を正室に迎えていた井伊直朗は若年寄にまで出世している。歴史に「もし」は禁句であるが、もし田沼意次が失脚していなければ与板藩は加増され、直朗は老中になっていた可能性は高い。
 早い段階で田沼派に組み込まれていた直幸だったが、意次は早くから井伊家の権力を利用しようとはせず、直幸自身も彦根藩領での治政を行っていた。特に井伊家一門への教育に対して力を入れていて、世継ぎ以外の子弟たちにも教育が行き渡るように控屋敷の役割を改善している。この成果が井伊直弼を育てる一翼にもなったのだ。また直幸の嫡男であった直富は直幸が江戸に参勤しているときに国許をよく治めていた。直富の話はのちに譲りたいと思うが田沼時代の彦根藩では井伊直幸と直富父子による藩政改革が確実に進んでいた。それは幕府内において田沼意次と意知父子が幕政改革を進めていた形とよく似ている。

 田沼時代のキーパーソンは田沼意知である。意次の嫡男として期待され若年寄に就任したが、反田沼派の陰謀により江戸城内で暗殺された。その死から半年後に井伊直幸は大老になる。大老の意見は将軍すら変えることができないという絶対権力でありながら井伊直該から70年近く大老に就く者はいなかった。田沼政権もこの権力は欲していなかったが、意知という政治の担い手が暗殺されたため意次は井伊家の大老としての権力に縋ったのである。この結果、直幸は意次の傀儡と目されのちの歴史家から「江戸時代に唯一必要がなかった大老」や「田沼意次に利用された大老」との評価を受けることとなる。

井伊直幸の墓(世田谷区豪徳寺 2007年撮影)

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