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彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

横須賀城趾(掛川市)

2025年04月16日 | 史跡

天正6年(1578)、高天神城攻略中の徳川家康は家臣の高須賀康高に横須賀城築城を命じ2年後に完成しました。


その後も、遠江国の拠点のひとつとして重用された横須賀城は譜代大名の居城として江戸時代も横須賀藩の藩庁となりました。

五代将軍徳川綱吉の頃に西尾家が横須賀藩主になったのちは、西尾家が2万5千石(最終的には3万5千石)の領主として明治維新を迎えたのです。


横須賀城の特徴は、戦国時代の城攻めのための陣城が改築が行われて藩政期にも利用されていたことです。これは他にあまり例をみない形です。


ですので、地形を活かした平山城であることや、迫力ある縄張りは守るための実戦的な城であることが感じられます。



そして、丸い石を積んだ石垣

江戸時代から残る珍しい物で、天竜川の河原石を積んだものとされていて「玉石積み」と呼ばれています




櫓門から本丸をみると壮観です

大手門は東西に一門ずつありそれぞれに行ける石段があります




本丸も広い





今まで縁がなく寄れませんでしたが、横須賀藩西尾家四代藩主・西尾忠移の正室が田沼意次の三女・千賀姫であったことと、忠移が幕府の命で相良城破城を行い、大澤寺に残されている時太鼓を横須賀藩に持ち帰ったのちに同寺に寄進した縁を重視して相良からの帰りに寄ってみました。


珍しい城であり、無骨な姿は城らしい城として興奮しました

特に、西の丸から両大手門を見下ろす辺りがお気に入りスポットです。



そんな横須賀城趾から再び西に向かいました

続く

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黒田家代官屋敷(菊川市)

2025年04月15日 | 史跡

相良を出て、自宅を目指してひたすら西へ

大澤寺の時太鼓が一時期置かれていた横須賀城趾に寄ることを決めて一般道を走っていると、ナビに「黒田家代官屋敷」なる文字が目に入りましたので道草



黒田家代官屋敷は、戦国時代から代官屋敷があった地に住んだ国人領主で今川家に仕えたあと、徳川家康に降ったようです。

江戸時代になり四千石の旗本・本多日向守がこの辺りを領し、このうち二千石領の代官が黒田家に任せられたそうです。


黒田家代官屋敷は、単郭の平城だったであろう館を代官屋敷にしたと思える造りで今も屋敷の周りが濠で囲まれていました。



併設されている資料館と江戸時代末期辺りから残る建物が歴史を感じました。



しかし、代官として大きな問題が起きなかったのか?江戸時代の3から10代の当主8人の名前も業績も不明という不思議な一族でもありました。


この次は、横須賀城趾に向かいました

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相良へ(4)

2025年04月14日 | 史跡

石坂周造が行った明治6年の石油機械掘りについては改めて調べなくてはいけないとの思いを新たにして相良城下に戻りました。


向かった先は大澤寺


ここは、安土城の近く武佐(東山道の宿場もある場所で柴田勝家の甕割りで有名な長光寺山の麓)の武将・今井権七を開山とする浄土真宗のお寺です。

管理人は、安土町が近江八幡市と合併する前は、安土の観光に関わっていたので、ちょっとしたご縁にびっくりです。

その後、徳川家康の保護を受けて現在の地へ移転、相良城が破城となった後で資材を使って本堂が建て直されました。


本堂の床下などに相良城であった時の木材の溝の痕




礎石


などが残されています。

また、本堂内の竹材も相良城の資材とのことです。


ここには、相良城下に刻を報せていた時太鼓も残されています。廃城後、横須賀藩に移されていた物が、横須賀藩主西尾家から寄進されたそうです。


そして、浄土真宗では珍しく御朱印が受けられるお寺でもあるので、御朱印を受けるためにご住職に声を掛けました(御朱印は書置きを受けることができます)。


相良行きの道中、御歌頭さんの田沼意次公の絵をプリントしたTシャツを着ていたのですが、ご住職が気付いて下さり、持ってきていた原画をお見せすると、本堂でご本尊様と写真撮影となりました。



ご本尊様は、三方ヶ原の戦いで討死した成瀬正義(江戸時代の初代犬山城主成瀬正成の伯父)のために徳川家康が成瀬家に贈った仏様です。

相良と徳川家康と言えば相良御殿をイメージしていたので(般若寺の杉戸も相良御殿関連でしたし…)、意外な繋がりでした。


他にも見所があるお寺です。


訪問中に、牧之原市史料館の方がお越しになられ「意知さんが…」との話をすると、8月に話をしたことを思い出して下さいました。

意知さまをメインに話す人は他に居ないみたいです笑

ちなみに、前回平田寺の意知さんの位牌、供養碑、大江八幡宮の扁額をご紹介いただき、その日のうちに訪問しています。

しかし、意知さま自身は相良にも来ておられないのでなかなか調べるのは困難みたいですが、それでも史料館に字と絵が残っているだけでも価値があります。


このあと、牧之原市のPR動画の撮影をされていて、田沼意次の絵も少し映り込み

あと、ちょっとした話をして寺から出ました。


そしてまた牧之原市史料館へ

実は1階の史料は前日に見ていたので、2階の大河ドラマ関連の展示へ(2日続けて🤣)

お土産にランタンと南鐐二朱銀のお菓子



ここでもTシャツを気にしてくださり少し話をして「意知さんが…」と言うと、やはり8月に訪れたときに話したことを思い出して下さいました。


田沼意知さま推し、珍しすぎるのですね。


ここでお昼過ぎ

史料館近くにある壽亭さんの田沼蕎麦が気になっていたので注文(蕎麦は大盛りで)




ここ、映画『ガリレオ 沈黙のパレード』のロケ地でもあります。

マジか!ガリレオ好きには聖地ですよ

安土、田沼意次、ガリレオ

相良は聖地すぎませんか?


と、言うことで相良から帰路に向かいました

帰り道に寄った場所の話続きます。

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相良へ(3)

2025年04月13日 | 史跡

直近では2024年8月に相良を訪れているのですが、この時に気になりながらスルーしていたのが田沼街道でした。


田沼街道は、相良城築城時に田沼意次が藤枝から相良までの道を改修した道で相良港から東海道を利用した物流にも活用できる道でした。

今回、牧之原市史料館の『べらぼう』展示で田沼街道のことが少し触れられていて、冊子もあったので宿で一読。



大鐘家長屋門前の道がわかりやすいみたいでしたので、朝一に向かいました。

桜がキレイ

朝早すぎて大鐘家住宅には寄れなかったので次回に回し、田沼街道の道を見学

この道を行き来する人の数が相良の繁栄でもあったのでしょうね。



街道沿いの石垣は、相良城に使われていた物とのことです。




続いて牧之原市史料館で田沼意次公に今日も城下をお邪魔するご挨拶



城下を巡ると挨拶しながら、いっきに町を外れて山の方へ

菅ケ谷という地域は、太平洋岸で唯一と言われる相良油田があった地域です。

明治6年、相良で機械による石油掘りが成功した地に「わが国石油機械掘り発祥の地」の碑が建っています。


この地で機械掘りを行わせた石坂周造は、清河八郎の同志として活動を共にしていた維新志士で江戸滞在期に彦根藩脱藩士を自称していたので興味がありましたが、あまり調べられていない人物で30年前に本を一冊見つけた程度だったのですが、改めて相良藩の本を読んだ時にここの案内があったので行こうと思っていました。



石坂は、明治維新後に石油事業を始めていて相良で日本初の機械による石油発掘を行っていますがその事業を海江田信義に奪われてもいます。

海江田は大村益次郎暗殺の黒幕でもありますし、いろいろ黒い人物ですね…

ちなみに、石坂の妻は高橋泥舟の妹で、その姉は山岡鉄舟の妻です。


石碑の前で、幕末から明治に興奮しながら再び城下に戻りました。

次の目的地は、破城された相良城の資材を使ったお寺になります。


続く

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『べらぼう』の話(15)徳川家基の死

2025年04月13日 | その他

徳川将軍のなかで名前に「家」が付いていない人物が四人います。


・二代将軍秀忠は、豊臣秀吉に「秀」の字を与えられたことと、父家康がギリギリまで家督を譲るかを悩んでいたともされている

・五代将軍綱吉は、兄家綱の死によって館林藩主であった立場から宗家を継いだため

・八代将軍吉宗は、七代将軍家継が夭折したために紀州藩主から宗家を継いだため

・十五代将軍慶喜は、十四代将軍家茂の急死で一橋家当主から宗家を継いだため

と、元服時に徳川宗家を継ぐことが決まっていなかったからと考えられているためです。


逆説的に、無理にでも宗家を継がせたかった十四代将軍家茂は、紀州藩から宗家の養子に入った時に慶福から家茂に改名することで、権威付けを測ったとも考えられるのです。


徳川宗家にとって元服時に名前に「家」という字を付けることは将軍になる人物であることも示していたのですが、そんななかで江戸時代の徳川家で名前に「家」が付きながら将軍になれなかった唯一の人物が徳川家基でした。


徳川家基は十代将軍徳川家治の嫡男、母親は側室お知保の方。

家治は正室である五十宮倫子との仲が良く、側室を持つつもりがなかったのですが、後継ぎが生まれなかったために周囲から側室を持つことを勧められていました。

幕閣や大奥の意見を受けて田沼意次が家治に進言した時、家治は「意次が側室を持つならば自分も側室を持つ」と言ったとの逸話があります

意次は、楊弓場(射的を使った風俗)の女性を蘭方医千賀道隆の養女として妾にします。この道隆の息子が『べらぼう』で時々名前が出てくる(平賀源内がエレキテルを披露する時に屋敷を貸していた)千賀道有です。


話を戻して…

お知保の方は期待に応えて男子を生み、徳川宗家の幼名である竹千代と名付けられました。

幼い頃の竹千代は、病弱であったとの説がありこれが元服した後のイメージに重ねようとする動きもあるが、十歳をすぎた辺りから鷹狩を楽しむようになり、体が鍛えられていくのです。

元服してからも家基は何度も鷹狩に出掛け特に弓術に秀でた青年として成長しました。

安永6年(1777)、16歳になった家基は年に10回以上の鷹狩を行う。それは翌年にもある変わることはなかったのですが、安永8年、18歳の家基は3回の鷹狩を楽しみ、4度目の2月21日に急死するのです。


この日、早朝と言える時間に江戸城を出た家基一行は御殿山近くの東海寺を休憩地点にするための準備の使者を派遣して、鷹狩のために新井宿に向かいました。

新井宿は、歴代将軍が利用した狩場のひとつですが、家基は浅草や千住を好んで利用していて新井宿は2年ぶり2回目でした。

しかし、東海寺の記録によると寺に入った家基は御殿山の桜がキレイだったことから新井宿に向かわずに御殿山に出掛け、昼餉に東海寺に戻ったあと再び御殿山に向かったのです。

つまり、花見をして鷹狩はしていない…


しかし、他の記録では新井宿、御殿山、目黒など個々に違う場所を記して鷹狩を行ったことになっています(公式記録の『徳川実記』は新井宿)。

そして『徳川実記』などでは東海寺で食事中に急に倒れたとされ、別の記録では鷹狩中に具合が悪くなり東海寺に運ばれたとあります。

何にしても、いったん東海寺にて手当が行われ、その後に急いで駕籠で江戸城に運ばれ西の丸大奥に入ったのでした。

そして、3日後の2月24日に家基は18歳で亡くなったのです。

不思議なのは、家基が倒れた翌日に東海寺住職が家基を見舞いに行くと元気な姿を見せてくれたとの記録を残していて、裏工作の匂いもします。


鷹狩好きの健康な青年が、自らが企画した大好きなイベントの最中に急死する。

この様な普通では想像できない出来事のため、当時から毒殺説が囁かれていました、そして黒幕として挙げられたのが田沼意次であり、意次が犯人であるかのような噂が作られた流布してゆきます。

しかし、徳川家重・家治からの信任によって幕閣に食い込んでいた意次が家治を暗殺しても利益はなく、意次黒幕説は考え難いのです。そして家基鷹狩の日は田沼意次は非番、何かが起こっても簡単に動ける日ではなかったので逆にこの日が狙われたようにも感じられるのです。


徳川家基急死については、現代においても真相は判明していません。

そもそも、鷹狩が行われたのか花見であったのか?

本来ならば一番近い現場である東海寺の記録に沿うべきですが、他の記録との違いもあり改竄された可能性も否めないのです。


ただ、この事件により田沼政権の土台が崩れ始めるのです。

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相良へ(2)

2025年04月12日 | 史跡

平田寺から田沼街道起点を経て城下に戻り、次は浄心寺に向かいました


田沼家が雨を祈願していた寺とのことで、山門には龍の彫刻があります


そして、ここを訪れた理由は平賀源内の墓と伝えられる物があること

安永8年に江戸で獄死したされる源内が実は田沼意次によって密かに相良藩領に匿われたという話が古くから伝わっています


お寺の方の話では、源内を保護した家の菩提寺の墓所から移されたそうですが、その時に壷が見つかっていて、それが源内の骨壷だと信じている人もいらっしゃるとのことでした


墓石を見ると「享和三年(1803)」と刻まれているので意次や蔦屋重三郎よりも長生きして、相良で20年以上暮らしたのかもしれません

ロマンがありますね

御朱印も受けました



続いて、般若寺に


徳川家康が利用した相良御殿に使われた杉戸


田沼意次公の相良城の杉戸


相良の陣太鼓

などが本堂で見る事ができます

御朱印は書置きを受ける事ができます



この後、再び牧之原市史料館に戻り車を停めてから

二の丸の松


相良城築城時に、仙台藩主伊達重村が石材を贈ったとさせる仙台河岸の石垣



を見学して、宿に入りました

流石に疲れました😅


2日目に続く


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相良へ(1)

2025年04月11日 | 史跡

やはり、今年は相良に行きたくなりますよね


4月9日、夜勤明けなのにそのまま牧之原市まで車を走らせました

2日前にあの女優さんが走っていた辺りも通りながら…

この女優さん、僕の世代が若い頃は不動のアイドルでしたし彦根藩士を主人公にした映画の撮影と舞台挨拶の時に生で見れた感激は今でも忘れないので、ちょっと残念なんて気持ちもあったりします


さて、静岡県に入ればまずは浜名湖SAで休憩

まだ桜が綺麗でした


うなぎいものモンブランソフト、美味っ!

そして、相良に向かい牧之原市史料館へ

大河ドラマ『べらぼう』関連の展示をしています

当然、田沼意次公と意知さまメイン


撮影に関わった南鐐二朱銀が展示されていました

意次公と若き鬼平の衣装

また、意知さまを主人公にした短編小説とマンガも読めます

個人的な熱で、御歌頭さんに描いていただいた田沼意次公の墨絵を持って行っていましたので、相良城跡で撮影


御歌頭さんの作品や御墨印を関連地に持って行って撮影するのは、個人的な道楽ですが楽しいです


さて、海無し県民は海が近いとワクワクするので、まずは相良港へ



続いては平田寺へ

ここの本堂の玄関は田沼家専用だったと言われています

御朱印を受けて

ここには、意次公が建立した意知さまを供養する石碑がありますが、安政地震で倒壊し現在は明治期に再建されたものです


再び城下方面へ向かって

まずは田沼街道起点を確認しました



続く

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『べらぼう』の話(14)吉原の耕書堂

2025年04月06日 | 史跡

安永7年(1778)、蔦屋重三郎は義兄・蔦屋次郎兵衛が経営する引手茶屋で間借りしていた版元業を四軒隣の店舗に移転しました。


現在の吉原大門跡


吉原大門脇の耕書堂の案内板


蔦屋重三郎が運営する「耕書堂」が書店として独立したことになるのです。


鱗形屋の騒動による実質的な『吉原細見』の独占や、当時流行していた富本節の正本と稽古本の販売など他の版元が対応できない出版を行うことで安定した収入を見込めたことが独立の気運になったのではないか?と考えられます。


そして、蔦屋重三郎にとっても自信で自由に使える建物があることは強味にもなりました。

こののち、吉原大門近くの地の利を活かして、店舗からすぐに大門を潜って文化人を接待できる特異性は唯一のものとも言えますし、この場所で喜多川歌麿を住わせたからこそ歌麿は様々な女性を目にして描くことができたとも言えるのです。


この後、約15年間蔦屋繁栄の拠点として吉原大門前の耕書堂は重三郎の活動拠点となって行くのです。


『吉原細見 籬の花』に記された間借り時期の蔦屋重三郎(江戸新吉原耕書堂にて展示中のレプリカ)



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『べらぼう』の話(13)鱗形屋孫兵衛

2025年03月30日 | その他

鱗形屋は、田沼時代には三代目を数える江戸の地本問屋でした。

もともとは京都の八文字屋の江戸店を引き継いで開いた店であるために上方の版元との繋がりが強く、出版後進地域であった江戸において出版を牽引した版元でもあったのです。

また、地本問屋であり書物問屋でもある大店でした。


しかし、安永4年(1775) 、『新増説用集』という本が『早引説用集』(上方の柏原屋与左衛門・村上伊兵衛が版権を持っている)を盗作したものであるとの訴えがあり、鱗形屋の板木などは没収されました。

そして同年末には『新増説用集』の責任を追っていた手代である徳兵衛が家財欠所及び江戸から十里四方追放、主人の孫兵衛が急度叱及び過料鳥目廿貫文などの処罰が下されたのです。

ちなみに『説用集』とは、単語の最初の読み方で「いろは」順に分類し、それを部門毎に分けて漢字や読み方を紹介した今の国語辞典の元祖になるような物です。

また上方では半世紀以上前から盗作については問題視されていて、書物問屋たちが京都や大坂の町奉行に禁令を依頼して何度も禁令が発布されていますが、守られていないのが実情でした。

このことからも、わざわざ江戸の鱗形屋を上方の版元が訴えることについての疑問も感じざるを得ません。


しかし、同年に鱗形屋から恋川春町の『金々先生栄華夢』も刊行され、黄表紙という新ジャンルの開拓(ただし当時の人々は黄表紙との認識はなく青本の一種としている)した鱗形屋は家業を保たせていました。

そんな中、旗本某家の用人が遊ぶ金欲しさに主の物を盗んで売るという事件が起こり、この用人と盗品購入業者の仲介を行った罪で孫兵衛は江戸所払いの罰を受けました。

安永10年には江戸に戻り、寛政年間まで家業は続けたようですが、再び登り目になることはなく廃業し、その後の記録は残っていません。


ただ、孫兵衛の次男は西村屋与八の養子となり、二代目西村屋与八として活躍、戯作者としての名も残していますし、二代目の跡を継いだ三代目西村屋与八は葛飾北斎『富嶽三十六景』の版元にもなっています。

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『べらぼう』の話(12)吉原俄

2025年03月23日 | その他

安永4年(1775)吉原では8月に九郎助稲荷の俄(にわか)が行われるようになりました。


俄は正式には「俄狂言」と呼ばれるイベント

路上や宴席で素人が急に歌舞伎や狂言を始める即興芝居を言います。

ですので「茶番」とも呼ばれたりして、予定なしににわかに始まることから「にわか」と呼ばれるようになったとの説があります。


吉原や京都の島原などの遊郭では遊女や芸者もしくは客や幇間(太鼓持ち)などが俄を行っていました、吉原ではそれを大々的なイベントに昇華させ、8月の30日間で晴天の日に芸者などの関係者が役者などに仮装して芸を披露したのです。

この時は吉原が女性や子どもも含めて一般開放され、普段以上の賑わいとなりました。


安永5年に耕書堂から出版された『明月余情』は、朋誠堂喜三二が序文を書いていて、蔦屋重三郎と朋誠堂喜三二が共同で行った最初の出版物として注目されています。


九郎助稲荷の案内板


俄は吉原だけではなく全国的に盛り上がったイベントでしたが、吉原俄は関東大震災によって資料が失われてしまいます。

しかし、大阪俄の系譜は今の吉本新喜劇になどに引き継がれるのです。

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