WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

チェット・ベイカーの傷心

2006年09月07日 | 今日の一枚(C-D)

●今日の一枚 41●

Chet Baker     Heartbreak

Scan10012_5  しっとりとしたものを聴きたいな、と思って取り出した一枚である。企画盤である。最晩年のチェットの演奏にストリングスをオーバーダブした作品だ。チェットの演奏は1986~1988年、ストリングスは1991年の録音である。

 と、ここまで書いてみたが、チェットの人生とその死について考えると、あまりにむなしく悲しくなってきた。

 若い頃のチェットの演奏は瑞々しい。1950年代中ごろには、トランペッターとしてあのマイルス・デイビスをも凌ぐ人気があったという。しかし、ドラッグで身を持ち崩し、喧嘩でトランペッターの命でもある歯も折られてしまい、長い活動休止を余儀なくされた。そのため、生活できずに、生活保護を受けたりガソリンスタンドでアルバイトしたりしたこともあったらしい。

 1970年代になって、ディジー・ガレスピーの手助けでやっと復活を果たし、その活動の拠点をヨーロッパに移し、いくつかのアルバムを発表した。活動再開後のチェットの演奏には、もう若い頃のイノセントな瑞々しさはない。しかし、そこには人生の辛酸を嘗め尽くした男の深い陰影がある。その意味ではこのアルバムのタイトル「傷心」(Heartbreak)も示唆的である。チェットはどの曲もゆっくりと噛み締めるように歌っていく。失ってしまった人生への鎮魂歌のようだ。チェットの視線は失われた過去へと向けられている。

 1988年5月13日、チェットはオランダのアムステルダムでホテルの窓から転落して死亡した。原因は定かではない。


スタン・ゲッツのボサ&バラード~ロスト・セッション

2006年09月07日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 40●

Stan Getz   

Bossas And Ballads : The Lost Sessions

Scan10007_9  晩年のゲッツの演奏だ。親友ハーブ・アルバートのプロデュースのもと、ゲッツの亡くなる2年前の1989年にA&Mレーベルに吹き込んだ幻の音源といわれる作品だ。

 ゲッツのテナーは、抑制された内省的な音だ。けれども決して小難しい演奏ではない。音はスムーズにつながり、アドリブはまるでひとつの曲のようにメロディアスだ。ケニー・バロンのピアノもぴったりと彼に寄り添い、美しい旋律を奏でる。ジョージ・ムラーツのベースも時に重厚な音を出し、時にまるで歌うように飛び跳ねながら、きちんとゲッツをサポートする。選曲も良い。録音も良い。未発表音源にこのような素晴らしいものが残っているとは驚きだ。

 ゲッツが肝臓癌という病に侵され、その痛みと戦いながら演奏していることが信じられないほど、素晴らしい演奏だ。とはいえ、このころのゲッツはようやく酒を止め、中毒から立ち直りつつあった時期のようだ。かつてズート・シムズが「スタンは素敵な奴らさ」といったような、移り気で二重人格的な部分は影をひそめ、誠実な人柄が前面にでていたことが当時のゲッツを知る人々によって証言されている。ゲッツは、化学療法も放射線治療も拒否して、有機野菜や漢方薬による自然療法によって生き抜き、音楽に取り組む意思を持っていたようだ。そのことを示すかのように、ゲッツの音はやさしく、そして深い。

 プロデューサーのハープ・アルバートは次のように語っている。

彼はその生涯を通じて、プロとしての目標に到達したけれど、人生の終わりには、精神面での目標にも到達した。彼は心の平静を味わっていたからね。彼の音楽と同様、彼の精神もまた、天空に舞い上がっていたんだ。」