太田裕美サイン入りLPである。「82,9,1」と日付も記されているが、私がサインしてもらったわけではない。たまたま買った中古レコードにサインがあったのだ。私は田舎の静かで控えめなファンだったので、サイン会はおろか、コンサートにさえいったことがない。生きて動く本物の太田裕美には、現在にいたるまで会ったことがない。それは、恐らくは、今後も変わらないだろう。それで不足ないと考えている。太田裕美的世界にこそ関心があるのだから……。
このベスト・アルバムの帯には「今、まぶしい青春。ヒロミフィーリングを経験してみませんか!」と記されている。今という地点から見ると、ちょっと恥ずかしい宣伝文句だが、当時太田裕美はそのようなイメージでPRされていたのだ。しかし、多くのファンにはもう少し異なるイメージで受容されてきたように思われる。少なくとも太田裕美的青春とは「まぶしい青春」ではないだろう。また「ヒロミ・フィーリング」という表現にも違和感がある。太田裕美は、もっと内向的で感傷的な何ものかにかかわるイメージで受容されてきたように思う。それが現在にいたるまで根強いファンをもち、アイドルを脱皮して生き残っている理由であろう。
ところで「木綿のハンカチーフ」である。いわずと知れた大ヒット曲であり、一般的には太田裕美の代名詞といっても過言ではあるまい。しかし、あれ程の大ヒットでありながら、この曲はチャートの1位にはなれなかった。同時期に、まったく同時期にあの「およげたいやきくん」が存在したからだ。1位にはなれなかったが、「木綿のハンカチーフ」はその後も青春の歌として歌い継がれ、人々の記憶に残る歌となったわけだ。
「木綿のハンカチーフ」が、人々の記憶に残る歌となったのは、メロディアスで受け入れ易い旋律であることとともにやはり歌詞の力が大きいのであろう。ストーリー形式で展開する歌詞は、1番、2番、3番と男女の対話で構成され、その心の変容が語られるとともに、最後の4番まで聴かなければ「木綿のハンカチーフ」というタイトルの意味がわからないしくみになっている。このことこそが他の凡百のヒット曲と異なり、オーディエンスが曲全体の歌詞をきちんとふまえて感情移入することができる秘密であろう。そのことによって、この曲は単なる一過性のヒット曲ではなく、人々に歌い継がれる曲となったといえはしまいか。
ところで、このブログの他の記事のところで「くま田なおみ」様から、「『木綿のハンカチーフ』の女の子は何故彼のもとにいかなかったのか。何故帰ってこない男の子を咎めなかったのか。不思議に思ったものでした」というコメントをいただいた。そういわれてみれば、その通りだ。くま田様の疑問はもっともだと思う。もっとも、この女の子が彼のもとへいってしまったら、この曲特有のセンチメンタルな雰囲気は成立しないわけだが……。
ただ、思い返すに、全体としてみればそういう時代だったのではないか。つまり、女の子というものが、文化として今よりずっと「内気」で「奥ゆかしく」(フェミニストに糾弾されそうな表現だが……)、いい意味でも悪い意味でも自分を解放できないあるいはしない時代だったのだろう。積極的であることは排され、消極的で受身であることが、女性として「かわいく」「けなげ」だとみなされたわけだ。以前このブログのほかの記事でも述べたことがあるが、その後80年代に入って以降、女性はどんどん自分を解放し、自己主張をするようになっていった。『木綿のハンカチーフ』で「ハンカチーフください」と哀願した女の子は、例えば、あみんの『待つわ』では、「待つ」という行為によって自己主張を行い、石川ひとみの「まちぶせ」ではまちぶせて「あなたをふりむかせる」という積極的な行動をとるようになるのである。その後、80年代後半のバブルの時代をへて90年代に入ると、女性はどんどん積極的になり、「木綿のハンカチーフ」的メンタリティーはほとんど失われてしまった。現代では、男女関係において女性が主導権をとることはまったくめずらしいことではないのは周知の通りである。
興味深いのは、女性性の解体とともに男性性も急激に解体したということである。「女らしさ」とともに「男らしさ」も急激に消え去ったということだ。男女の文化的性が相対的なものであることを考えれば当然のことなのかもしれないが、私は女性解放に際して「物語」という「形」があたえられずに、ただアナーキーに行われていったことが大きな原因であると考えている。自らを「どのように解放してどのような素敵な女性になるのか」というお手本になるべき物語が欠落していたのではないか。私は、女性解放に否定的なわけではまったくないが、フェミニストの糾弾をおそれずに思い切っていえば、アナーキーで無節操な「物語」なき女性解放によって、世間はますますつまらないものになってしまったような気がする。もはや、現代では男も女も入り乱れてしまった。CMの大滝秀治にならって、「つまらん」と叫びたいところだ。
こう考えるのはやはり、「男性中心主義」なのだろうか。