WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

南風-South Wind……青春の太田裕美⑦

2006年09月17日 | 青春の太田裕美

Scan10015_2  1980年の作品だ。何かのコマーシャルで使われていたと思う。それまでの「ノスタルジー」を基調にした太田裕美から一転、明るく、溌剌とした太田裕美だ。ジャケットにもスポーティーな服装に身を包んだ太田裕美がいる。歌詞からも真夏のきらきらした風景と開放的なイメージが想起され、これまでと異なる路線を目指したことがわかる。爽快だ。 

 以前にも書いたことがあるが、1980年代とはそういう時代なのだ。1970年代が自己に閉じこもる自閉と内省の時代であるとするなら、80年代はそれからの解放の時代だったのだ。70年代的な価値感は「暗い」「根暗」として糾弾され、「明るい」ことが善しとされるようになったのだ。しかし、その「明るさ」は、政治的文化的挫折に起因する70年代的「暗さ」の本質を解決・克服したものではなく、いくら内向・内省してもその先に本当に知りたいものや欲しいものが見出せないという焦燥とジレンマからくるものであった。以後、人々は自己の内部を掘り下げることなく、外部の世界の快楽に身をゆだねる生活を選んでいくことになる。 

 それは基本的に正しい選択であったろう。自己の内面にものごとの本質などはありはしないのだから……。例えば、『二十歳の原点』の高野悦子は80年代に青春をおくれば自殺などせずにすんだであろう。彼女は自己の内部になどありはしない人生や世界の本質を捜し求めてしまったのだ。 

 しかし、その明るさはやはり空虚だった。いくら明るく振舞っても心の空白は埋めることはできない。それが80~90年代の新興宗教ブームにつながっていくのであろうが、このシングル『南風』のB面に「想いでの赤毛のアン」と題する70年代的な曲が収録されているのは興味深い。このレコードが70年代的なものから80年代的なものへの過度期の作品であることをあらわすと同時に、80年代的な「明るさ」が埋めきれない70年代的「内向」を表現したものであると考えるのは、うがった見方であろうか。 

 ところで、「南風」のなかのオレンジ・ギャルという語が、小麦色に日焼けした女性を表すことにやっと最近気づいた。「ギャル」という語は、当時はもっと違った「さわやかな」語感があったはずだが、今となっては、怠惰でおちゃらけた女性たちをイメージしてしまい、わが太田裕美には、まったく合わない。 

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秋吉敏子のブルーノート東京'97

2006年09月17日 | 今日の一枚(A-B)

●今日の一枚 51●

Toshiko Akiyoshi    

Live At Blue Note Tokyo '97

Scan10014_3  秋吉敏子のコンサートにはもう十数回いっている(いやもっとか)。このCDも数年前、東北地方のある寺の本堂でのライブの時買ったものであり、敏子のサインも入っている。この時の寺のLiveは環境的に最悪であった。観客のほとんどが、寺の檀家の老人たちであったことは、まだ仕方ないとして、ピアノがどこかの結婚式場から借りてきたという自動演奏機能付の代物であった。音がこもっておかしいなと思っていたら、ピアノのしたから電源コードがぶら下がっていた。世界の敏子にこんなピアノを使わせるとは……。主催者である住職(近所では評判の生臭坊主だ)も何とかできなかったのかと思ったものだった。

 この作品は、1997年のブルーノート東京でのLiveの模様がおさめられている。日野元彦(ds)、鈴木良雄(b)というメンバーだ。もともとLive盤録音用に録られたものではないのではないだろうか。録音はけっして良くない。バスドラムの音がやたら大きく、全体にこもった感じの音だ。にもかかわらず、演奏は全体的にダイナミックで、元気の良いものだ。今は亡き、日野元彦のドラムがあおるようにたたみかけ、敏子や鈴木がそれに敏感にレスポンスしていく。

 日野元彦を生で聴くチャンスは何度もあったが、そのうちにと思って後回しにしていたら、亡くなってしまった。本当にくやまれる。Liveを見たことのある友人たちは、口をそろえたように、その驚異的なドラミングを語るのだ。

 日野元彦が亡くなったのは、1999年5月13日。すい臓ガンによる肝不全だった。


ジェリー・マリガン・カルテット

2006年09月17日 | 今日の一枚(G-H)

●今日の一枚 50●

Gerry Mulligan Quartet

Scan10012_8  久々の完全オフ2日目。昨日からずっと本を読みながら、何枚かのCDやレコードを聴いている。今、聴いているのがこのオリジナル・ジェリー・マリガン・カルテットだ。ジャズ決定版1500シリーズで最近購入したものだ。

 1952~53年に録音されたこのアルバムは、ジェリー・マリガンの最も初期の姿を伝えるものといわれるが、そこで感じられるのは、彼がずっと昔から(そのキャリアのはじめから)、あの優しく人を包む込むような柔らかな音色をもっていたのだ、ということだ。後藤雅洋さんは「マリガンの演奏はやはりバリトン・サックスでしか表現できない特性をもっている。それはこの楽器の当たり前の機能である低音の魅力にとどまらず、テナー・サックスより強くて深い音色が、あたかもテナーを吹いているかのようにスムーズに出てくるところである。」と述べている(『新ジャズの名演・名盤』講談社現代新書) 。バリトン・サックスというのは、大きいだけに、音をコントロールするのが大変なのだそうだ。そのバリトンをマリガンほど自由に操れる奴はいないというわけだ。

 このアルバムは、チェット・ベイカーが参加しており、トランペットとバリトン・サックスのかけ合いが聴きものとなっているが、爽快だ。購入したばかりで、昨日初めて聞いたのだが、なかなか気に入っている。あの寺島靖国さんも『辛口! JAZZ名盤1001』(講談社+α文庫)のなかで、「ジェリー・マリガンを最初に買うならこれだ」と絶賛している。


サラ・ヴォーンのアフター・アワーズ

2006年09月17日 | 今日の一枚(S-T)

●今日の一枚 49●

Sarah Vaughan    

After Hours (Roulette盤)

Scan10008_11  サラ・ヴォーンにはAfter Hoursという名のアルバムが2枚ある。一つはコロムビア・レーベルのもので、1949年~1952年に録音したものからセレクトした企画物であり、もう一つは1961年に録音されたこのルーレット盤である。

 伴奏はギターとベースのみであり、それゆえ、全体がリラックスした雰囲気で、サラの情感豊かなボーカルもより際立って聴こえる。オーケストラをバックにした演奏も迫力があって素晴らしいが、こうしたシンプルな編成は、歌が本当にうまいのかどうかがわかってしまう恐ろしさがある。こんなことは周知のことだが、サラ・ヴォーンはブルース・フィーリングだけの歌手では決してない。

 エラ・フッツジェラルドとジョー・パスのやつもそうだが、ボーカルとギターの組み合わせは不思議な暖かさがある。一杯やりながら(いつもだが……)、リラックスして聴きたい一枚である。