葉っぱのフレディ -いのちの旅-
作: レオ・バスカーリア
絵: 島田 光雄
訳: みらい なな
出版社: 童話屋
税込価格: \1,575
(本体価格:\1,500)
発行日: 1988年10月22日
http://www.ehonnavi.net/ehon00.asp?no=433
これは大きな木の枝に、葉っぱとして生まれたフレディの一生を描いた絵本です。
春に生まれたフレディは、夏になって立派な体に成長しました。
人間は、フレディが生まれたこの木のことを「プラタナス」と呼ぶのでしょう。(注:私の付け足しです)
フレディは沢山の葉っぱにとりまかれていて、どの葉も自分と同じ形と思っていましたが、やがて葉っぱのひとつひとつに違いがあるのに気が付きました。
葉っぱたちは、風に誘われてくるくると踊る練習をし、日光浴の時はじっとしていました。
また、夕立がくれば体を洗ってもらいます。
フレディは、同じ葉っぱのダニエルから色々なことを教えてもらいました。
例えば、フレディが木の葉っぱであること。
木の根っこは地面の下にあって、見えないけれど四方に張っていて木を支えていること。
目の下にあるのは公園で、小鳥たちが朝の挨拶をしにくること。
月や太陽や星が秩序正しく空を回っていること。
そしてめぐる季節のことなどです。
*フレディは「葉っぱに生まれて よかったな」と思うようになりました。
*友達はいるし 見はらしはよいし 枝はしなやかだし その上 風通しも日当たりも申し分なく お月さまは銀色の光を照らしてくれるからです。
夏になるとフレディはますます嬉しくなります。
日が長くなって沢山遊べるし、かんかん照りの暑さは気持ちが良いのです。
公園に木陰を求めて大勢の人がやってくるとダニエルはみんなに呼びかけます。
*「さあ 体を寄せて みんなでかげを作ろう。」
フレディたちが作った木陰に集まった老人たちは、昔話をしています。
子どもたちは木にいたずらをしますが、笑ったり走ったりして生き生きとしています。
ダニエルは涼しい木陰を作ってあげれば、人間が喜ぶのだとフレディに教えてくれました。
フレディは、木の下の人間たちに涼しい木陰を提供することも葉っぱの役目だと知るのです。
フレディはそれでますますうれしくなりました。
夏が通り過ぎるのはあっと言う間でした。
たちまち秋になって、十月の終わりのある晩に寒さがおそって来てきました。
フレディも仲間の葉っぱたちもぶるぶる震えています。
みんなの顔に白く冷たい粉のようなものがついて、朝になるとそれが融けて雫が光りました。
ダニエルがそれを霜だと教えてくれました。冬が来る知らせなのです。
緑色だった葉っぱたちは一気に紅葉しましたが、その色合いは葉っぱの一枚一枚で違いがありました。
*いっしょに生まれた 同じ木の 同じ枝の どれも同じ葉っぱなのに どうして違う色になるのか フレディにはふしぎでした。
フレディの疑問には、ダニエルが答えてくれました。
生まれた時はみんな同じ色でも、いる場所が違えば太陽に向く角度が違うし、風の通り具合も違うのだと。
それに月の光や星明かり、一日の気温の違いもあってみんなが同じ経験ではないから、紅葉する時はそれぞれに違う色に変ってしまうのだと。
風も変わりました。
夏の間は親しみを感じた風は、別人のように怖い顔をしながら葉っぱたちに襲いかかり、多くの葉っぱたちはこらえ切れずに、次々と落ちていきました。
残されて怯える葉っぱたちにダニエルが声をかけます。
*「みんな 引っこしをする時がきたんだよ。 とうとう冬が来たんだ。 僕たちは ひとり残らず ここからいなくなるんだ。」
そう言われてフレディは悲しい気持になりましたが、ダニエルは自分自身ことも含めて、役目を終えた葉っぱには当然のことなのだと続けます。
しかしフレディはそれが納得できませんでした。ずっとここにいるつもりなんだと大きく叫びます。
しかし、フレディの仲良しだった葉っぱも一枚一枚落ちていきます。
見ていれば、風に逆らって木にしがみつくようなものもあり、一方であっさり離れるものもいました。
そしてついに残っているのは、フレディとダニエルだけになってしまいました。
*「引っこしをするとか ここからいなくなるとか きみは言っていたけどそれは― 」とフレディは胸がいっぱいになりました。
*「死ぬ ということでしょ?」
*ダニエルは口をかたくむすんでいます。
*「ぼくは 死ぬのがこわいよ。」とフレディが言いました。
*「そのとおりだね。」とダニエルが答えました。
ダニエルは続けます。
まだ経験したことは怖いと思うものであること。
また変化していないものはこの世界になく、自分たち葉っぱの紅葉から散るまでも変化だが、その変化の時に自分たちは怖いと思っただろうかと。
つまりは、自分たちの変化とは自然なことであって、「死ぬこと」も変化の一つであって自然なことなのだと。
それを聞いてフレディは少し安心しましたが、ふと疑問が湧いてきました。
*「この木も死ぬの?」
*「いつかは死ぬさ。でも “いのち”は永遠に生きているのだよ。」とダニエルは答えました。
それを聞いてフレディは思います。自分の一生にどのような意味があるのかと。
*「ねえ ダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか?」とフレディはたずねました。
ダニエルはフレディの言葉に深くうなずきながら語りました。
自分たちの一生の間で、誰かの役に立ったりよく遊んだりしたことや、自分たちの世界を知ることが出来たことを。
そして、それは自分たちにとってどんなに楽しく、またどんなに幸せであったことだろうかと。
その日の夕暮に、ダニエルはフレディに挨拶をしながら枝を離れていきました。
微笑みながら静かにいなくなったのです。
*フレディは ひとりになりました。
次の朝は雪でした。
フレディは自分が色褪せて枯れてきたのを感じ、冷たい雪も重く感じられました。
明け方になってフレディはそっと枝を離れましたが、怖くはありませんでした。
地面に降りたフレディは、初めて木の全体を見てダニエルの言った「永遠に生きている“いのち”」の意味を理解しました。
雪の上に降りたフレディは、雪の上の居心地の良さを感じながら、目を閉じて眠りに入りました。
春になれば雪は融けて水になり、フレディは土に溶け込んで木を育てる力になるでしょう。
そうして“いのち”は、誰の目にも触れないところで次の芽ぶきの準備をします。
*大自然の設計図は 寸分の狂いもなく “いのち”を変化させ続けているのです。
*また 春がめぐってきました。
ビッグバンから始まる世界の全ては変遷し、私たちは生まれる前もそして生まれてからもずっと変化の中にいました。
変化は認識出来るものも、また無意識下のうちに起きるものもあり、生きるものにとっては感じ取る変化の中でも生き続けなければならない、もしくは存在し続けなければならないという命題がありました。
この作品にもあるように個体の死もまた変化のひとつであり、死を意識している場合においてはその死(変化)を受け入れることも命題となるのでしょう。
フレディはダニエルから自分が何であるかということと、自分たちが何をなすべかを教えてもらい、更には自分の死までも受け入れることが出来ました。
ダニエルがいなければ、フレディは自分が何ものであるかも知らぬ間に、そしてまた自分の死も納得できぬままに朽ち果てたことでしょう。
さて、フレディは葉っぱでしたが私たちは何でしょう?
長い時間が経っても自分が誰であるか、また自分が何をなすべきか分からぬままにそこにいることはないでしょうか?
死を受け入れることが出来ないのは、自分が誰であるかを分からぬまま死を迎えることに耐えられないからではないでしょうか?
そしてフレディが葉っぱなら私たちも葉っぱです。
フレディにとっての木は、私たちにとっての会社であり、家庭であるかも知れません。
しかし私たちが悩み苦しむ時、私たちの傍らにダニエルはいるでしょうか?
もしダニエルがいなかったとしても、この本を手にすることであなたにとってのダニエルを感じることはできないでしょうか?
この作品には、作者のそのような思いも込められていたことと思います。
今私は、世界が悲鳴で満ち溢れているのを感じます。
困難な状況の下で自分を見失ったり、受け入れ難いものを抱え込んで苦しんでいる人が沢山いるのを感じます。
実は私もまたそれを受け入れられない一人なのです。
誰かが思い悩み、苦しむことに。そしてまた受け入れられない思いを抱えている人が何処かにいることに。
今日もそんな思いを抱きながら私は山に入りました。
いつものことですが、目的は畑で使うための林床に積もった落ち葉の採集です。
林の中はいつも静かです。
その中にいると私が落ち葉を踏む足音や、枯れ枝を踏み拉いた音だけしか聞こえません。
生きているものに囲まれているのに、落ち着きはらったような静けさだけを感じます。
誰もいない建物の中とはまた違った静けさを感じるのです。
しかし今日の私は包み込む木々の静寂さの理由を知っていました。
何故ならば、そこで沢山のフレディとダニエルに会えたからです。
落ち葉を握りしめながら、私も一枚の葉っぱでありフレディであることを感じました。