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河合継之助の記念館(福島県)

2017-02-01 | 歴史街・史料館・名所

奥只見にある「河合継之助・記念館」(山塩史料館)

我々が行った日は、秋の時雨か?急に大雨になった。
「え~!!この雨の中を ざわざわ歩いて、捜しながら行く必要があるの?」
と夫に尋ねた覚えがある。

「河合継之助・記念館」(山塩史料館)は、只見川沿いにあった。

川沿いの幹線道路に案内表示が出ていた。

そして、同じ道路沿いで川とは反対側にある鉄道踏切を渡って行く。
踏切に「塩沢(しおざわ)踏切」とあった。
ここ只見町「塩沢」は「河合継之助の終焉の地」なのだ。

「塩沢(しおざわ)踏切」を渡るとすぐ「河合継之助・記念館」の表示が再び出ている。

「記念館」は すぐ近くで、
道路からみたら、少し小高い丘の上にあるとわかった。

「河合継之助・記念館」の建物

「八十里 腰抜け武士の 越す峠」
河合継之助は、終焉の地「塩沢」で、この時世の句を残した。

そもそも「八十里」って何のこと?
「八十里峠」(地名)のことらしい。

新潟から会津に抜ける険しい峠の名が「八十里峠」だった。
継之助が越えた八十里は、古来より会津と越後を結ぶ交通の要衝で、
現在は一部が登山道として残っているが、大部分は深いブナ原生林の下に眠っている。

「河合継之助・記念館」の中









1- 河井継之助の生涯
幕末の英雄河井継之助は幼少より学問を好み、江戸や西国への遊学を通じて様々な師に出会い
黒船来航に揺れ動く全国の情勢について知見を広めた。

2- 長岡の戊辰戦争
戊辰戦争に当たっては武装中立を主張した継之助。
河合は交渉相手として長州代表・山県有朋か薩摩代表・黒田清隆を希望していたが
出てきたのは土佐藩の若輩・岩村精一郎であったため、
「調停役」という高度な政治交渉が出来るはずもなく決裂。

その後は、長岡の人びとを守るため、当時日本に3門しかなかったガトリング砲で応戦。
河合は軍事総督として藩軍を指揮。
当初は新政府軍と互角に渡り合うが、作戦中に河合が負傷。
これ以後、長岡藩は総崩れとなる。
河合は負傷がもとで、命を落とすことになる。
負傷後、同盟藩の会津に逃れる途中に越えたのが「八十里峠」
険しい「八十里峠」を必死に越えた後に、
あと一歩で会津という只見町「塩沢」の地で亡くなった。

会津藩領であった「只見」も戊辰戦争に巻き込まれ、郷兵隊を組織して西軍と戦う一方、
長岡から落ちのびてきた継之助一行を温かく迎え入れ、必死の看護を行った。

只見の人びとの尽力も空しく、継之助はここ只見町塩沢で息を引き取った。
この記念館(終えんの家)は、継之助か亡くなった村医矢沢宗益の家を移築したもの。
                        ~記念館に展示されていた資料より~

記念館を出て、只見川沿いの道を車で走りながら

戊辰戦争で武装中立を主張した継之助なのに・・

長岡の交渉に来たのが、土佐藩の若輩・岩村精一郎でなく
もっと年配の度量の大きい人物だったら・・

「河合継之助」は無駄に命を失わなくて済んだのでは・・
残念な・・無念な気持ちになった。

コメント (4)
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