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地元誌が苦言を呈する「福島からの原発事故風化」

2013-06-11 23:52:14 | 原発問題/一般
巻頭言-"無関心"への違和感(政経東北6月号)

「政経東北」誌の社説に当たる「巻頭言」は以前も当ブログでご紹介したことがある。率直に言ってこれだけ歯切れの良い雑誌は珍しい。この雑誌の面白いところは、福島県民を読者として想定しているにもかかわらず福島県民に対しても、臆せずおかしいことはおかしいと言うことだ。歯に衣着せず苦言を呈するスタンスなのに企業からの広告出稿が減らないことも「政経東北」誌の不思議のひとつである。過去に掲載された編集部の座談会によれば、「情報提供は毎月のようにある」そうだ。

この巻頭言に記載されている内容は、私が福島時代に抱えていたモヤモヤ、不満を代弁してくれたようで溜飲を下げる思いだ。福島に住み続けたい、そのためにも福島が安全「ということにしておきたい」心理は理解できなくはない。しかし「安全ということにしておく」のと「実際に安全である」ことは当然ながら別である。

原発事故から2年を経て、非常事態と日々の生活との折り合いをつけることを迫られる中で、福島県民が根拠なき「安全物語」に飲み込まれ、冷静な理解力・判断力を喪失しつつあるように私には見える。初めは自分たちが扱っている「化け物」の怖さを理解し、おそらくは畏敬の念をもって接していたであろう原子力ムラの人々が、原発といえば「安全」と脊髄反射的に反応する生活を続けているうち、次第に自分自身によって洗脳され、本当に安全だと信じるようになっていったように。このまま時が経てば、数年後か数十年後かはわからないが、『深刻なトラブルや事故が発生した後に「こんなに原発が危険な状況だとは思わなかった」と後悔』するという「政経東北」誌の懸念が現実のものになりかねない。

今、進んでいるのは「県内からの原発事故の風化」である。意識的か無意識的かは問わない。住み慣れた福島に今後も住み続けたいという結論が先にあり、そのために福島県民が自分自身を洗脳していくという流れの中で、福島原発事故の「有無それ自体」が議論される事態があと数年のうちに訪れるのではないか。そんな懸念が1年ほど前からずっと私を支配して離れないのだ。

そんなバカな、そんなことが起こりうるわけがない、という人がいるなら、今の従軍慰安婦、南京虐殺、集団自決を巡る議論を思い出してみるとよい。初めは歴然たる歴史的事実とされていたものが、「都合の悪いことはなかったことにしたい」勢力によって執拗に攻撃され続けた結果、とうとう「存在の有無それ自体」が議論されるところまで来てしまった。公職にある者が白昼公然と事実を否定し、「慰安婦をしていた韓国人女性」が証人として現れると、事実自体は否定できないから右翼どもが彼女たちを「売春ババア」と罵る…日本で、決してあってはならないが現実に起きている悲しいできごとだ。

「ウソも百回言えば本当になる」というヒトラーの言葉は、ある意味では正しい。そのヒトラーはこうも言っている――「大衆を信じ込ませる秘訣は嘘の大きさにある。大衆は小さな嘘よりも大きな嘘を信用する。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は恥ずかしくてつけないからである」。

福島では、おそらく今日、この瞬間にも「ウソをつくのはいけないことなのでやめましょう」と、大人が子どもたちに説教を垂れているだろう。だがそのすぐそばで「恥ずかしくて誰もついたことがなく、それ故に誰も免疫を持っていない」巨大なウソが、あたかも事実であるかのように流布されている。「福島で、原発事故など初めからなかった」――県内世論がこの方向で統一されるまで、今の状況なら数年もあれば十分だろう。

福島県民の「忘れっぽさ」にあえて苦言を呈した「政経東北」誌を孤立させるわけにいかない。当ブログもまた福島県民にあえて苦言を呈する――原発が生命そのものの存在と価値とを否定する絶対悪であることは今さら言うまでもないが、決して妥協してはならないその「絶対悪」に対し、無原則な妥協を繰り返してきた結果が今日のこの事態ではないのか。自分たちの上に降りかかる災難を嘆くばかりではく、なぜその根源に踏み込まないのか。

「子どもを守ろう」という声が、首都圏では毎週金曜日、とぎれることなく続いている。危険な原発を福島に押しつけて繁栄を享受してきた東京が、みずからの加害者性、そして取り返しのつかない罪に気付いて声を上げ続けるのはもちろんよいことだ。しかし、真に反省、謝罪をすべき者にきちんとそれを強制できない「1億総懺悔」路線ではまた同じ過ちが繰り返される。日本人は社会的強者(国・企業など)に対し、もっと他罰的で物わかりが悪い国民になるべきだ。自分の反省より「政府に反省させる」ことを優先させるべきである。それがなければ、福島のどんな「復興」も虚構に終わるだろう。

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