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トランプ当選、英国EU離脱の背景にある「ポスト真実」 トップランナーの日本はどう抗うのか?

2017-02-25 11:31:36 | その他社会・時事
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2017年3月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 昨年――2016年は、政治、経済、社会、あらゆる意味で世界史の転機となった年だった。とりわけそれは、英国の国民投票によるEU(欧州連合)からの離脱決定と、米大統領選におけるドナルド・トランプの当選として明瞭に現れた。際限のない「自由競争」に死ぬまで駆り立てられ続けるグローバリズムによって疲弊した人々の怒りが既存政治をなぎ倒した瞬間だった。

 同時にそれは、テレビや新聞などの既存メディアの敗北として語られた。英国のEU離脱もトランプ当選も、既存メディアに誰ひとりそれを予想できた者はいなかった。否、「そんな予想なんてしたくもなかった」というのが本当のところだろうと本稿筆者は想像しているし、メディア人におそらくは共通のものであろうと思われるそうした心情には筆者も大いに共感できる。何しろ筆者自身、「軍産複合体の代弁者であるヒラリー・クリントンでも、差別排外主義者のトランプよりはましだ」として、クリントン当選に「仕方なく期待をかけていた」自分がいたことに、選挙後、気づかされたからである。

 しかし、当たり前のことだが「自分がこうなってほしいと願っていること」と「現実にこうなるであろうということ」とは本来、別問題である。予想屋の仕事が後者を正確に言い当てることだとすれば、大半の既存メディアが敗北したのは後者ではなく前者をあたかも自分の予想であるかのごとく語ったことにその原因を求められる。

 従来の常識を覆すような出来事に連続的に遭遇すると、人はしばしば正常な判断ができなくなる。トランプの当選以降、欧米諸国で広く使われるようになった言葉のひとつに“Post truth”(ポスト真実)がある。ポストとは直訳すれば「~後」を意味する英語の接頭語であり、「真実の後に来るもの」を象徴的に表現するものとなっている。

 大統領就任式に詰めかけた人々の数は、オバマ政権発足時の方がはるかに多かったにもかかわらず、「自分の就任時が史上最高だ」とウソを垂れ流すトランプ氏。客観的真実はまったく異なるのに、自分にとって心地のよいだけの真実ではない言説をあたかも真実のように信じ切り、真実として流通させていく政治家の軽い言動が、ポスト真実として批判的検証にさらされるようになったことは暗闇に差した一筋の光明というべきだろう。

 しかし、筆者はこうした欧米諸国での動きについて「何を今さら」とでもいうべき奇妙な既視感を覚える。日本ではこうした光景は「ネトウヨ現象」として、10年前からすっかりおなじみのものだ。その心地良さに最高指導者、安倍首相までがとりつかれている。いつの間にかネトウヨの攻撃によって従軍慰安婦も南京虐殺も集団自決も教科書から消え、「なかったこと」にされてしまった。このままでは、いずれ福島第1原発事故もなかったことにされてしまうであろう。

 政権、権力にとって都合の悪い出来事は、たとえそれが客観的事実であっても白昼堂々と消されてしまう――社会の隅々にまで浸透した「ウソと偽りの大量生産」は、徐々に日本の政治、経済、社会のあらゆる領域をむしばみ始めている。この分野では、恥ずかしいことに日本こそが他の追随を許さないほどの圧倒的大差で世界のトップを走っている。

 日本より10年遅れて世界を席巻し始めた「気分を悪くさせる真実よりも心地よいウソの時代」はなぜ生まれてきたのか。その背景にいかなる思想的、文化的、社会的背景があるのか。他の分野ではことごとく国際社会に立ち遅れている日本が、この恥ずかしい分野でだけ他の追随を許さないほどの「トップ独走」状態になっている背景に何があるのか。それを検証・分析し、「ウソの時代」に抗う方法を考察することが本稿のテーマである。

 ●ウソを言える者ほど出世する?

 『大衆の支持を得ようとするなら、彼らを欺かなければならない。……大衆は、小さなウソよりも大きなウソのほうを信用する。なぜなら彼らは、小さなウソは自分でもつくが、大きなウソは恥ずかしくてつけないからである』『大衆は冷めやすく、すぐに忘れてしまう。ポイントを絞り、ひたすら繰り返すべきである』。

 これはヒトラーの言葉である。また、1980~90年代にかけて当時の若者に人気を博したTHE BLUE HEARTS(ザ・ブルーハーツ)の1993年のヒット曲「うそつき」の歌詞の中にこんな一節がある。

 『100億もの嘘をついたら今よりも/立派になれるかな 今までよりずっと/100億もの嘘をついたら今よりも/楽しくなれるかな 今までよりずっと/嘘がホントになる ホントが嘘になる/歴史のその中でホントが言えるかな/下手な嘘ならすぐばれて寂しくなっちゃうよ/せめて100年はばれないたいした嘘をつく』。

 ウソをたくさん言う者ほど社会的地位を獲得する。ウソを一度つき始めると、楽しくてやめられなくなる。本当のこと、事実を主張することには、時として危険や困難が伴う。大きなウソのほうが検証する方法がないから、長い期間にわたって信用される――。ウソというものの本質を鋭く突いている。この歌詞を書いたザ・ブルーハーツの真島昌利さんはなかなかの慧眼、そしてロック精神の持ち主だと思う。

 何が真実かが歴史の中で流転することもある。その歴史は強者、支配者が作り出す。弱者、「小さき者」の声はかき消され、歴史の中に埋もれてゆく。市民運動・社会運動が、しばしば歴史の中に埋もれてしまった支配者にとって「不都合な真実」を掘り起こし、告発する闘いの様相を呈するのはこのためだ。暗く苦しいものだが、それでも誰かが取り組まなければならない闘いであることも事実である。

 そうした小さな闘いが日夜、日本のあちこちで繰り広げられている。ウソと偽りに覆われ尽くした日本社会に差すわずかな光明というべきだろう。この光を決して絶やすことがあってはならない。

 ●東浩紀の「予言」

 それにしても、なぜこんなことになってしまったのだろうか。

 実は、こうした時代がいずれ来ることを、2001年の段階で早くも予言している人物がいた。東浩紀だ。「自由な言論好きの人々が集う喫茶店」である「ゲンロンカフェ」(東京・五反田)の主宰者。批評家・思想家として紹介されることが多い。筆者と同じ1971年生まれで今年46歳になる。

 東の代表的著作に「動物化するポスト・モダン」(2001年、講談社現代新書)がある。漫画・アニメ・ゲームなどのオタク文化に造詣の深い東が、オタク文化を通した社会評論を展開しているものだが、その論評の対象はオタク文化にとどまらず、思想、政治、文化など幅広い領域に及んでいる。

 東は、思想・哲学・イデオロギーのように、広範な大衆の動員を可能とする価値体系を「大きな物語」と呼び、この物語が社会のあらゆる領域を支配していた20世紀初頭から中盤にかけての時代を近代社会とする前提条件の下で評論を始めている。資本主義陣営と社会主義陣営が世界を二分して対峙した東西冷戦は「大きな物語」同士の正面衝突であり、東の認識に従えば近代社会のピークであった。日本でも、この冷戦を反映し、55年体制が成立。社会党がプロレタリアート独裁を掲げる一方、自民党の党歌「われら」は『我らの国に我らは生きて/我らはつくる 我らの自由』と、一党独裁への対抗意識を歌い上げている。

 しかし、社会主義陣営の停滞などを契機として、「大きな物語」が次第に大きく揺らぎ始める。スロベニア(当時は旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する共和国のひとつだった)出身の社会学者、スラヴォイ・ジジェクは、連邦がまさに崩壊につながる血みどろの内戦に入ろうとしていた89年、「イデオロギーの崇高な対象」を著した。ジジェクはそこで、社会主義イデオロギーの虚構性について次のように記している。

 『私たちはみな、舞台裏では荒々しい党派闘争が続いていることを知っている。にもかかわらず、党の統一という見かけは、どんな代価を払ってでも保たれねばならない。本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。だれもがそこからシニカルな距離を保ち、また、そのイデオロギーをだれも信じていないということをだれもが知っている。それでもなお、人民が情熱的に社会主義を建設し、党を支持し、云々という見かけは、何が何でも維持されなければならないのだ』。

 ジジェクがこのように観察していた祖国の支配政党、ユーゴスラビア共産主義者同盟は、血で血を洗う凄惨な内戦の末に解体したユーゴスラビア社会主義連邦共和国と運命を共にした。ナチスに抵抗してパルチザン戦を戦い抜き、ソ連軍突入を待たず自力で祖国をファシズムから解放した偉大な党。ソ連の干渉を排除し、コミンフォルム(欧州共産党・労働者党会議)から除名処分を受けながらも、労働者自主管理社会主義という新たな試みにチャレンジした党。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、そして1人のチトー大統領によって成り立っている」といわれたモザイク国家、ガラス細工のように脆弱な連邦国家を、チトー亡き後は連邦の執行機関である連邦幹部会の議長職に輪番制(6つの共和国が1年交替で連邦幹部会議長を担当し、6年で一巡)を導入するなどの絶妙な知恵とバランス感覚で束ねてきた党とは思えない末路だった。

 社会主義陣営がイデオロギーという「大きな物語」を見かけ上、維持するために、党の結束を演出していた時代は、また大きな物語を維持する勢力とそれを打倒しようとする勢力のせめぎ合いの時代でもあった。だが、ジジェクが「虚構」と表した体制は長くは続かなかった。東欧の社会主義陣営が崩壊し、社会主義国家が次々と姿を消した1989年は、「大きな物語」の敗北の年でもあった。

 東は、大きな物語なき後の時代を「ポスト・モダニズム」と呼んだ。直訳すれば「近代後」の社会ということになる。そこでは人々を束ね、政治的に動員できるものがなくなった。新たに訪れたアングロ・サクソン的新自由主義を前に、市民は個人単位に解体され、ばらばらになった。際限なき競争社会に投げ込まれ展望を失った市民は、何が真実で何がウソかを見極める能力も失い始めた。

 ポスト・モダニズムの時代には、真実もフェイク(虚構、創作)も一緒くたにされ、あたかもレストランのメニューのように同じテーブルの上に並べられる。そして、人々はその中から最も自分に合うものを選んで消費するようになる、と東は指摘し、そうした情報の「消費行動」をデータベース消費と名付けた。「動物化するポスト・モダン」の中で行われたこの「予言」を、当時の私はあまりに荒唐無稽だと笑い飛ばしたが、今思えばこの予言は身震いするほど正確だった。

 それからまもなくしてネトウヨ連中がこの予言を実行に移し始めた。彼らにとって、日本がアジア諸国に対して行った過去の侵略、植民地支配という重苦しい真実よりも、「そんなものはない」というウソがもたらす快楽に浸っているほうがよい。彼らに罪悪感などというものはもとよりひとかけらも存在していない。なぜなら彼らは、出されているメニューを選んで消費しているだけに過ぎないからである。コンビニで好みのお菓子を選ぶのと同じ感覚で、彼らは、自分の一番好きな「自分にとっての真実」を選び、レジに持って行く。「ただそれだけのことが、何でこれほど左翼に叩かれなければならないのか」と、彼らは本気で思っているに違いない。

 昨年末、大手インターネット企業「DeNA」が運営する健康情報サイト“WELQ”(ウェルク)の記事が医学的正当性を欠くとして騒ぎになった。結局、南場智子DeNA会長が謝罪会見を開き、WELQの全記事を削除、サイトも閉鎖とすることで決着を見たが、なぜこうしたことが起きたのかを考えるにも、東の優れた「予言」が役に立つ。味噌もクソも一緒に並べられ、並行的存在として選択されるデータベース消費型社会では、「最も多く売れる情報を提供した者が勝者」なのである。何のことはない。単なる資本主義的弱肉強食の法則が発動されているだけのことだ。

 そもそも、人間は自分の信じたいものを信じる習性を持っている。そうでなければ、なぜ宗教があんなに大きなビジネスになるのか。食品偽装問題も数年おきに世間を賑わしているが、食品ひとつとってみても真偽をろくに判定できない人間が、情報についてだけいつでも真偽を正確に判定できると考えるのはあまりに楽観的すぎる。いい加減な「キュレーションサイト」対策をどんなに講じても、資本主義が資本主義である限り、そして人間が自分の信じたいものを信じる習性を持っている限り、「第2のウェルク」は必ず現れ、また世間を騒がせるだろう。

 ●日本が「ポスト真実」のトップランナーである理由とは?

 ところで、ここまでの考察でもまだ筆者が答えていない読者の疑問がひとつある。「ポスト真実」の背景に「大きな物語」消失によるポスト・モダニズム時代の到来と、データベース消費型社会があることは理解できたとしても、日本がそのトップランナーであることはどんな理由によっているのか、という疑問である。

 これに対しては、東も具体的には言及していないため推測の域を出ないが、次のような理由で説明が可能と思われる。(1)大半が無宗教で、「会社や学校では政治と宗教の話をするな」と言われるように、日本人はもともとイデオロギー嫌いで「大きな物語」との親和性が低い、(2)アニメ・漫画などのサブカルチャーとの親和性が高い、(3)これら2つの要素との関連で、共同体の崩壊が起きやすく、また政治的組織化の度合いも諸外国に比べて低いため、各個人がばらばらになりやすく新自由主義が浸透しやすい、(4)新自由主義浸透の結果として、「消費者であること」以外のアイデンティティが市民の間に芽生えにくい。

 このうち、(1)については日本人ならだれでも皮膚感覚で理解でき、説明は不要だろう。(2)は他者との協調や共同作業を必要としない趣味で、個人でも実行可能である上、データベース消費との親和性が高いことを指摘する必要がある。(3)について言えば、日本は「大きな物語」が諸外国に比べて機能しにくい分、会社、学校、労働組合、業界団体、地域社会(自治会や地域の祭りなど)といった村落共同体、利益共同体がその機能を代替していたが、近年、こうした組織の機能が低下している一方、これに代わって新たに「共同体」機能を担う存在が姿を現していないこと、政党や政治的団体による組織化が諸外国ほど進んでいないことを指摘しておきたい(注)。(4)はこれら(1)~(3)の結果として立ち現れている現象である。

 日本人が共同体から切り離され、孤立を深めていることは、各種の社会現象からも見て取れる。例えば、かつて日本のオリンピックにおけるメダルの獲得は団体種目(バレーボールなど)が多かったが、最近は団体種目よりも個人種目(スキーなど)にメダル獲得が偏る傾向がはっきりしている。最も新自由主義化、個人化が進んでいる東京で、ハロウィンのたびに多くの若者が町へ繰り出し、警察官と小競り合いを起こしてまでも騒ごうとしている姿は、日本の若者たちがいかに孤立をおそれ、名前も知らない「誰か」とであってもひとときのつながりを渇望しているかをよく表している。「共同体から個人化」の時代に最適化しようとする日本の社会システムと、それに抗ってつながりを求めようとする若者との間に、やや大げさに言えば「文明の衝突」とでも呼ぶべき現象が起きているように思われる。そこでは、データベース消費社会の下で「心地のよいウソ」をいくら消費しても、少しも満たされないことに気づいた若者が、昭和的「共同体」に居場所を求めるかのような興味深い動きも見られる。

 この動きが一時的なものか、継続的なものになるかはもう少し推移を見守る必要があるものの、継続的なトレンドになりそうな予兆はあちこちに見られる。英国のEU離脱や、米国におけるトランプ当選も、グローバリズムより自国「共同体」優先という意味で、そうした予兆のひとつである。

 ●結論――「ポスト真実」とどう闘うか

 ここまで、ポスト真実の持つ意味と、それが生まれてきた思想的・社会的背景、そして日本がそのトップランナーである理由について考察してきた。そろそろ結論に入らなければならないが、私たちは、日本が先導し、10年遅れて国際的潮流になりつつある「ポスト真実」の時代に、どのようにして抗うべきだろうか。

 「ポスト真実」が大きな物語の喪失とデータベース消費を軸とした、客観的真実と「自分にとっての心地よいもう1つの真実」(別の単語でウソとも言う)との間の「消費合戦」として立ち現れているという本稿での考察・分析が正しいなら、私たちにとって最も大切なことは、情報の消費者に選んでもらえるような「本物のメニュー」を提供することである。安倍政権の支持率が高いのは、「偽物であっても心地よいメニュー」を切れ目なく提供しているからだ。だが、一見盤石に見える安倍政権にも「偽物のメニューしかない」という、レストランとしては致命的な弱点がある。これに対抗するには私たちの運営するレストランで「本物のメニュー」を提供しなければならない。市民にとって本物のメニューとは、命が最優先される社会、戦争ではなく平和な社会、格差・貧困ができる限り解消される社会、競争より協調と共生を重視する社会、女性が男性と同等の権利を持つことが紙の上だけでなく現実の行動レベルで証明される社会、そして原発のない社会のことである。

 これに関連して、2つ目に大切なことは「大きな物語」の再建である。リベラル層が中心となり、今すぐ日本に社会民主主義の旗を立てることが必要だ。

 3つ目に大切なことは、私たちの運営するレストランには「本物のメニューがある」と怠りなく宣伝することである。どんなに本物の、おいしいメニューがあるレストランも、宣伝しなければ客が訪れることはない。この点では、私たちは敵より何歩も立ち遅れている。自分たちのメディアを作り、ヒトラーがそうしたように「ポイントを絞って、ひたすら繰り返す」努力をしなければならない。同時に、敵のメニューがいかに偽物だらけであるかを徹底的に宣伝しなければならない。米国では、ライバル社の商品を貶す「比較広告」は珍しくない。政治的対案の出せない人でも、敵のウソを暴くだけなら比較的たやすくできるだろう。

 4つ目は、ばらばらにされ、孤立の中で絶望を深めている無党派層を政治的に組織化することである。どんな逆境でも、人間は仲間がいれば乗り越えられる。労働組合を再建し、学校や企業を民主化するとともに再び労働者・学生・市民に粘り強く働きかけ、組織化することが、ウソを侵入しやすくしている心の隙を埋めることにつながる。

 5つ目は、「ポスト真実」のあり方を批判的に検証しようと動き始めた諸外国の市民と連帯することである。欧米諸国でこれ以上極右の台頭を防ぐためにも、私たちは、国際連帯の構築を急がなければならない。

 以上、ポスト真実の時代、そしてそれとの対抗策を私なりに整理した。この考察が、読者諸氏の役に立つことを願っている。

(注)近年の各級選挙における投票率の低下は、いわゆる「無党派層」が依拠すべき政治的共同体を持たないことによっても引き起こされている。この点に関しては、政党・政治的団体のみならず、趣味のサークルなど非政治的なものであっても、所属団体がある人とない人とでは、ある人のほうが政治的有効性感覚(「自分の力で政治を変えることができる」とする感覚)が高いとする安野智子、池田謙一による調査結果がある(「JGSS-2000に見る有権者の政治意識」2002年3月)。この調査も、孤立を防ぐ上で組織化が有効であることを示している。

(黒鉄好・2017年2月19日)

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