気軽に茶道をしてます。

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太安万侶の墓を訪れて

2017-11-23 18:24:00 | 散策
昨夕から雨が朝までに止み、朝日が昇る日に。
この雨の降りだしが遅れたため、昨日参加予定していた
「田原やま里散策ウォーク」も晴れ間も覗く中、名残の
紅葉を眺めながら、映画「殯の森」のロケ地等の茶畑、
太安万侶の墓そしてリンゴ狩りと盛り沢山の内容でした。
お世話頂いた田原公民館の館長はじめ皆様に感謝します。
 
奈良市田原地区は市街からバスで東南東へ30分の静かな
山里、標高400~500mで茶畑や水田が広がっており、
奈良市で二番目に高い「国見山680m」もあり、

古くは奈良から伊勢へ抜ける交通の要地とされており、
この里が大騒ぎになったのは昭和54年(1979)1月、
古事記を編纂した太安万侶(おおのやすまろ)の墓が
発見されたときのこと。

この当時の話を、案内人の窪田さんのお話によると、
竹西英夫(当時61歳)さんが通称トンボ山の丘陵南斜面の
茶の木を植え替えるために、鍬で掘り返していると炭が
出てきて、この炭を掘り返すと直径40㎝の穴が空き、
小さな骨、真珠に銅板が出てきた。板に「…太朝臣…」の
文字が読まれ、もしやと思い専門家の手にゆだねられ、
銅板には41文字で書かれた太安萬侶の歿年月日が・・・
墓誌で、奈良時代の墓の状況が明瞭になった少ない例に。
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
       年七月六日卒之書養老七年十二月乙巳


現在は橿原考古学博物館に所蔵で重要文化財に指定され、
調査にて墳墓は墓壙を設け、木櫃をおき周囲を木炭で
覆ったもので、現在史跡に指定されています。
なお、小さな骨は、近くにある「十輪寺」に祀られており、
十輪寺
太安万侶の一族とされる田原本町の多(おお)氏の多神社、
多坐弥志理都比古神社の宮司さんとの間で、古事記編さん
1300年に合わせ勝手に分骨し、太安万侶の墓とうわさ
された塚に納められ、後に問題となったとの後日談も。
なぜ「もしや」と思われたかと云うと
100年ほど前にこの山の反対側の山で、稗田と記された

甕?が見つかり、調査しようとしたところ、嵐になり
恐れて元に戻すと収まったことが二回繰り返されたそうで
この山は稗田阿礼さんのお墓と地元では噂されていました。

現実に調査してほしいものですが、いつかは?
古代への思いが深まります。
そして古代中国に従い、東側の三角点の頂点にも誰かが、
この地に眠る方だれなんでしょう。
古事記や日本書紀の編さんにかかわりのある方かも
でもなぜこの地にお墓が造られたのでしょうか?
平城京から見て、東から太陽が昇る地だからとの説明
近くに、春日宮天皇陵、光仁天皇陵もありますが?
中級官僚の埋葬地であったかもしれません。

また万葉歌人・志貴皇子(しきのみこ)の墓もあります。
文化人であり、現在の皇室の祖先にあたるとか・・・
葦辺ゆく鴨の羽交に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ
                   万葉集1-64
訳)葦のほとりを漂って行く鴨の羽がいに霜が降って、
身にしむほど寒い夕暮は、故郷の大和がしきりと思われる。

ウォークも終わり、田原ふる里ほっとステーション内の
田原やま里市場で買い物を済ますと夕方の3時を過ぎ、
陽も傾くと、急に寒くなり、早々に帰宅することに。