
本書は、(1)池田勇人の人となり、(2)彼の活動を支えた人材、(3)「所得倍増」という政治理念の生成と構造を追跡する。
ここでは、沢木の描く人物像を追ってみる。
池田勇人は、大蔵省で「赤切符組」と位置づけられ、出世が遅れた。天疱瘡にかかり、闘病すること5年間、同期に決定的に差をつけられた。だが、生死の境をさまよった結果、腹が据わったらしい。
池田が復職し、主税局国税課長の任にあった1942年、関東地方を大きな風水害が襲った。政府は、甚大な被害があった地域を免税することとした。記者たちは、免税地域と総額を知るべくシノギを削った。常日頃、「三等官僚」と目されていた池田のもとに記者は寄りつかなかったが、松本幸輝久記者だけはよく机の前でおしゃべりしていた。被害地域の調査から帰ってきた池田と省内の廊下でたまたま出くわした松本は、すれちがいざまに、これくらいだろうと思われる金額だけ指を立ててみた。池田は、「そんなところだ」とうなずいた。その金額が新聞に載った。スクープにはなったものの、時の内閣総理大臣、東条英機の逆鱗に触れた。情報を漏らした者の首を取れ、と。
松本は、池田は関係ないと大蔵省の上司に弁明しようとしたが、池田は達観したように言った。教えたことは事実だし、いま辞めさせられてもかまわない、辞めさせられたら家に戻って酒でも造りながらのんびりするよ、と。松本は、池田の意外な肝の据わり方に驚いた。
後に側近となった宮沢喜一によれば、池田は「むしろ弱いところのある人だった」が、その底に「依怙地」とも「気骨」ともつかない「激しさ」を潜ませていたのだ。
池田は病気で多くのものを失ったが、逆に得たものもあった。一つは、深い信仰心だ。特定の信仰を持ったわけではないが、大病後、朝起床すると東方へ向かって柏手を打つことを日課とした。
宮沢喜一は、訊ねたことがある。「どうもあなたの正直は、ただの正直とは思えない。札所を廻ったとき、もし治ったら自分は一生嘘をつかないという願をかけたんじゃありませんか」
「その通りだ」と、池田はボソッと答えた。
沢木は書いていないが、本音しか言えない池田というイメージを逆手にとった「私はウソは申しません」(自民党のテレビCM)は、1960年の流行語にもなった。
一癖も二癖もありそうな人材が、池田の周囲に多数集まってきたのはなぜか。
その秘密、池田勇人という人物の全体像がくっきり浮かびあがってくるのは、盟友、前尾繁三郎の銀婚式におけるスピーチだ。その速記録が宏池会に残っている。沢木耕太郎は、あえて全文を引用している。ここではスピーチは引用しないが、スピーチに対する沢木の評を引用する。
「ここで前尾との付き合いの詳細が述べられているのは当然としても、自分の来歴や当時の心境もさりげなく語られている。病気のこと、赤切符組だったこと、再婚のこと、復職のこと。そして、印象的なのは、前尾との付き合いが、二人にとってどこか『第二の青春』とでも言うべきものではなかったかと感じられるほど生き生きとしていることだ。/またこの挨拶の中には、池田の数字に対する嗜好といったものとは別に、思いがけないユーモアの存在が見て取れる。話は決して上手ではないが、聞いている者の気持ちを明るくさせるものがある。そしてなにより儀礼を超えた情の存在が見てとれる。/ここには、池田の人心収攬術の核心が秘められているのかもしれない。いや、当人には人心を『収攬』しようなどという思いはないのだろうが、巧まずして人の心を捉えることになる能力の存在が示されている。おそらく、将たる者は人に好かれるだけでは足りない。人を好きになる能力が必要なのだ。この挨拶の中には、池田の人を好きになる能力といったものがはっきりと映し出されている」
人に好かれる、という点では、次のようなエピソードが興味深い。
官僚から政治家に転身したばかりの頃、池田は新聞記者にまたく人気がなかった。しかし、時の経過とともに、池田の率直な人柄が記者にも理解できるようになった。すると、今度は逆に根強い池田人気が生まれた。雑誌論文やエッセイなどのゴーストライターを引き受けるまでに至った。
【参考】沢木耕太郎『危機の宰相』(魁星社、2006)
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