語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>電力会社と族議員、守旧派官僚に潰されてきた「発送電分離」

2011年07月02日 | 震災・原発事故
 80年代後半以降の世界的な規制緩和・市場化の流れのなか、93年の総務庁(当時)の「エネルギーに関する規制緩和への提言」を契機に、95年に電気事業法が改正された。これにより、発電の新規参入が認められ、自家発電の技術をもつ鉄鋼会社や化学会社が次々に参入した。
 このとき動いたのが、村田成二・資源エネルギー庁公益事業部長(94年着任、後の経済産業省事務次官)だ。電気事業法は、64年の制定以来、誰も手をつけることができなかった法律だ。
 97年、佐藤信二通産相が年始の記者会見で、発送電事業の分離はタブーとされてきたが、大いに研究すべき分野だ、と発言し、大騒ぎになった。村田に近い官僚が入れ知恵した、と言われているが、定かではない。
 1月4日付け読売新聞に「OECDが規制改革指針 電力の発電と送電は分離」と大きく報じている。この仕掛け人は、経産省の現役官僚、古賀茂明だった。
 古賀は、96年からパリのOECD事務局に派遣されていた。OECDでは電力の規制改革の議論が盛んだった。日本でも電力自由化を進めるべきだ、と考えていた古賀は、外圧に弱い日本にOECDが勧告する、という作戦を練った。古賀は、知り合いの読売新聞記者に連絡を取り、記事にしてもらった。ニュースが少ない正月というタイミングで、紙面での扱いは大きくなり、狙いは成功した。

 この騒動をきっかけに、電力の規制改革の議論は大きく動きだした。
 97年5月、「01年までに国際的に遜色ないコスト水準を目指し、わが国の電気事業のあり方全般について見直しを行う」と閣議決定された。99年の電気事業法改正により、00年3月から小売りの部分自由化が始まった。
 97年に官房長になった村田が陰で動き、米国の対日規制緩和要望書に「電力自由化」を盛りこませようと、ワシントンに部下を派遣するなどしている。

 01年11月、総合資源エネルギー調査会(経産省の諮問機関)の電気事業分科会で、家庭まで含めた小売り自由化の議論が始まった。南直哉・東電社長は、02年4月、家庭まで含めた自由化の受け入れを表明したものの、発送電一体堅持の姿勢は崩さなかった。
 電力業界は、01年のカルフォニア大停電を引き合いに出し、電力自由化の弊害を喧伝した。

 大きな山場は、村田が02年7月に事務次官に就任してから訪れた。当時、村田のもと発送電分離をめざす経産省のバックには、高い電気料金に不満をもつ財界の意向があった。
 これに抵抗する電力会社側は、自民党の族議員にすがって分離を阻止しようとした。

 村田が就任直後の8月、東電が長年にわたり原発トラブルを隠蔽していたことが発覚。南社長らトップ5人が辞任に追いこまれた。
 東電側には「原発トラブルは経産省に相談してきたが、すべて責任を取らされた」という憤懣があった。電力業界は巻き返しに出る。
 自民党エネルギー総合政策小委員会の委員長は、電力族として有名な甘利明、事務局長は東電副社長から参議院議員になった加納時男だった。発送電分離の議論は、ことごとくはね返された。
 さらに、東電、自民党は、温室効果ガス抑制のために経産省が導入を進めていた新たな石炭課税制度を「人質」に取り、村田らに取引を迫った。
 村田は、石炭課税制度を選択をした。12月、総合資源エネルギー調査会の分科会でまとめられた答申書に「発電から小売りまで一貫した体制の存続」が明記された。

 この頃、経産省の改革派が動いていた事件が起きた。04年春、「19兆円の請求書 ~止まらない核燃料サイクル」と題する文書が複数の国会議員に配布された。六ケ所村の核燃料再処理工場を動かすと19兆円かかり、その分のコストは電気料の値上げになる・・・・。そんな内容で、匿名だが、経産省官僚が作成したのは間違いない。
 村田次官黙認だったと言われているが、同省内にも核燃料サイクルの実現を危ぶむ声も強かった、ということだ。

 村田は、04年夏に役所を離れた。日本生命保険特別顧問を経て、現在は新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の理事長を務める。
 マスコミの取材には、ひたすら口を閉ざして語らない。

 村田が取引して降りたので、梯子を外された若い部下たちが大怪我して終わった。主流から外れたり、省の外へ出された人もいる。今出世しているのは、発送電分離から降りて、うまく折り合いをつけた人たちだ。【政府関係者】
 このときの影響が大きく、改革派と呼べる若手は今も育っていない。

 以上、横山渉(ジャーナリスト)「電力会社と族議員、守旧派官僚に潰されてきた『発送電分離』」(「週刊エコノミスト」2011年7月11日臨時増刊号)に拠る。     ↓クリック、プリーズ。↓
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【読書余滴】「もののけ姫」再考 ~素戔嗚尊~

2011年07月02日 | 神話・民話・伝説
 出雲をめぐる神話には2つの流れがある。
 (1)「記紀」(『古事記』と『日本書紀』)の出雲系神話
 (2)『出雲国風土記』や「出雲国造神賀詞」の地元の出雲神話

 両者には、例えば次のような違いがある。
 (1)では、高天原から使者として地上へ降りたアメノホヒは3年間高天原へ奏上しなかった。しかし、(2)では、アメノホヒはしっかり任務を果たしている。
 (1)では、スサノオは八岐大蛇を退治するが、この話は(2)にはまったく登場しない。
 他方、(2)には八束水臣津野命による雄渾な出雲創成譚(国引き神話)が展開されるが、(1)にはこれは載っていない。

 余談ながら、パンタグリュエル的巨人、八束水臣津野(ヤツカミズオミツヌ)命が国引きを終えたとき「おゑ」と言ったが、これが意宇郡の地名の起源だ。
 もう一つ余談ながら、(1)の国生み神話は、垂直型だ。これに対し、(2)の国引き神話は水平型だ。(2)こそ、地方分権の時代にふさわしい神話ではないか。

 さて、スサノオだが、(1)では荒ぶる神だ。父親のイザナギから海の支配を命じられても従わず、姉のアマテラスがまします高天原では乱暴狼藉を尽くし、追放される途中でオオゲツヒメを殺害したりもする悪神だ。地上に降り立ってから、不思議なことに善神に変貌するのだが、八岐大蛇を殺したり、荒ぶる性格は変わっていない。
 他方、(2)では荒ぶる性格は見られない。逆に、木の葉を頭に刺して舞い踊ったり、妙に愛嬌のある神だ。

 『出雲国風土記』にスサノオが登場するのは4ヵ所で、ごく簡単な記述だ。そのうち最も詳しいのが飯石郡の須佐郷【注1】のくだりだ。郷名に神名が使われていることもあって、須佐郷がスサノオの本貫地だろう。他の3ヵ所は、大原郡佐世郷【注2】、同御室山、意宇郡安来郷だ。飯石郡をはじめ、奥出雲のたたら製鉄集団(「もののけ姫」のたたら場は奥出雲がモデルの一つ)が、須佐郷→佐世郷→御室山→安来郷へと地図上は直線的に、山間部から海浜部へ進出していった、とも読める。
 須佐郷の西北部のほうが近いことは近いのだが、こちら神門郡にはオオナモチを奉じる集団が盤踞していて、抵抗が激しかったらしい。
 スサノオの御子神7神のうち、2神は女神だ。いずれも神門郡に登場している。八野郷にはヤノノワカヒメがオオナモチと婚姻しようとして神殿を造った、という伝承がある。滑狭郷にはワカスセリヒメがいて、この神に対してもオオナモチは婚姻しようとしている。スサノオを奉じるたたら製鉄集団が、オオナモチを奉じる集団に対して懐柔策をとったのだろう。
 ちなみに、オオナモチは、「天の下造らしし大神」大穴持命/大己貴命。(1)の大国主だ。

 【注1】今の出雲市佐田町須佐、反辺、原田、大呂、大川、雲南市掛合町穴見のあたり。
 【注2】今の雲南市大東町飯田、養賀、上佐世、下佐世、大ヶ谷のあたり。

【参考】瀧音能之『「出雲」からたどる古代日本の謎』(青春出版社、2003)
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