ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2020-111 秋深い文化の日、偉人の学習

2020年11月03日 | 日記
文化の日、先人記念館にて学習会があった。
ボランテイアの会は、2月の定期会がらずーとコロナで休会。
なんと八ヶ月ぶりに足を運んだ。

今回のテーマは渋沢栄一の師といわれる尾高惇忠についてであった。
明治10年から10年間、第一国立銀行の支店長として着任。
岩手の財界の近代化に努めた人物である。11年から5年間は仙台に赴任。
東北の、経済・財界のパイオニアと称されている人物である。

その尾高は1830年埼玉深谷市に生まれる。
渋沢栄一のいとこで渋沢の10才、年上である。
栄一は尾高の「論語塾」に通い論語を学んだ
29才、藍の商人として19才の栄一を伴い信州にて商いを教える。
出藍の誉れ。尾高と渋沢は 「青は藍より出でて藍より青し」の関係ともいわれる。
尾高の幕末は過激で義憤に走った。明治維新は37才だった。
明治に入って、渡欧していた渋沢は大蔵省入り。
尾高は明治3年1870年群馬県富岡製糸工場の工場長となる。
自信の娘を第一号工女として娘達に安心させ働く場と学ぶ場を与えた。
明治6年渋沢は初の国立銀行を設立。
明治10年、尾高は東北開発の一環としてこの地に赴任するのだった。
そのご
銀行だけでなく、経済クラブなどつくり、地元有志の人とつながり地域貢献を果たしていくのだった。
明治の10年間だけの滞在であったが、
当時の資料などから河南大火での町の全滅の様子などそれに対する支援などや
交通といえば陸路より水上。
北上川を使った船でのコメの運搬など往来が盛んな当時を思い知ることができた。
久しぶりの歴史の学習で知的好奇心が満たされた。

文化の日。
年に一度の文化施設無料開放の日でもあった。
そこで先人から隣の美術館を巡って半日を終えた。


コメント
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