ある退職教師のつれづれなるままに

38年間の教職26.3.31退職
4月1日再任用。自分の目でみたこと感じた事など
つれづれなるままに記します。

2019-85 紅葉満喫、八甲田山

2019年09月29日 | 日記
29日、市民登山で青森の八甲田山登山。

八甲田山はいくつかの山の名称。
今回は大岳(1584m)をめざした。

早朝4時30分に出発。各地から参加者が乗り合い
結局インターは6時。酸ヶ湯温泉着が8時30分。

小さな鳥居のある登山口に8時45分。それから約6時間の行程だ。

始めの30分の階段上りで汗だく。しかしその後仙人岱まで調子がよくなってきた。

硫黄の匂いがついてきた。10時30分過ぎあたりで小雨、そして頂上近くが風が強い。
11時15分、ようやく到着。これまで2時間30分。
360度の展望のはずがあいにくのガス。
残念だったが頂上で記念集合写真を撮って5分ぐらいいただろうか。とにかく強風で寒い。

頂上は広くて、晴れたらおいしい昼食の予定が降りて山小屋で昼食に変更。

山小屋の部屋で登山靴を脱いでようやく待ち望んでいた昼食に。
なにしろ朝が早かったのだ。しかし休憩は30分。思ったより短い。
半分近くの人は立って食事をしていた。座るスペースはあるのに。
聞いたら、靴を脱いでくつろぐとその後の動きがしにくいからと。
・・・
急いで食事をして出発。毛無タイの約1時間
絵に描いたような見事な紅葉。

頂上がガスで見えなかったこともこの景色で帳消し。
赤や黄色や緑が混合して、素晴らしい絵巻物の世界。
15時前にバスに乗り18時過ぎに到着した。
紅葉の世界を満喫した1日だった。
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2019-84 白寿を迎えた母

2019年09月28日 | 日記
大正9年9月生まれの母
西暦1920年
白寿を迎えた。

先日、親族が集まって
ささやかな「白寿を祝う会」を開いた。

略歴で99年の歩みを振り返ってみた。
ちょうど「おしん」の再放送をしているが
そのおしんより比較すると17歳ぐらい若いようだ。

1923年(大正12年)関東大震災 母3歳
1931年(昭和6年)満州事変   11歳
      日中15年戦争
     (父は38年から40年頃、満州へ出兵し帰国)
1940年         父23歳 母20歳で結婚
1941年 太平洋戦争 この間、子どもを3人もうけたが2人を栄養失調で亡くしたと。
1945年 終戦
   戦後に3人生まれ 4人。

若い時代、戦時中を生き抜き、99歳に到達。
97歳の誕生日に「焼き走り」を闊歩。
あの日から比べて、年々足腰が弱くなり杖を使うようになってきた。

来年は100歳。
母が社会の中でどういきてきたのか、母や亡き父の人生を振り返って調べてみたい気になった。




       


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2019-83 ある対応

2019年09月22日 | 日記
9月15日のことだ。
某公民館で県内のうたごえ発表会および地区予選があった。

所属する合唱団の一員として参加。

午前中はリハーサル。

昼食休憩中だった。

車の中で片付けをしていて、うっかり中指を切ってしまった。

あわてて
施設の事務室にいって
「手を切ったのでカットバン一枚ください」とお願いしたら

カットバンはありません。と

コンビニにいって買うことも考えられたが
1時から本番の発表。時間が無い。

病院に行っったほうがいいじゃないですかといってくれた。

しかし、それほどでもない切り傷でだったのでなにかありませんかといったら

小さなガーゼを渡してくれたのだった。

それで止血するためセロテープをお願いして

傷口にガーゼを切ってその上からぐるぐると巻いたら

それを見ていた高齢の男性職員が

「ガーゼを無駄に切って」
「セロテープがなくなってしまう」と。

怪我を心配していっているとは思えない言葉に!。

午後の発表は上手くいったが心ない言葉にがっかり。

帰宅したら指の血は止まっていた。

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2019-82 秋の収穫

2019年09月21日 | 日記
秋祭り直後から始まった。

栗の収穫だ。

例年より5日遅かった。

その分、一斉に落ちだした。

いつもなら毎日3,4キロぐらいの収穫が

その倍の量になった。

その分時間がかかる

夕方収穫すると一晩水につける。

翌日、取り出して天日干し

そして選別。

翌日出荷の作業。

この繰り返しで一週間が過ぎた。

台風がこの連休直撃の模様。

通過直後、いが栗の山?



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2019-81 歴史探訪

2019年09月11日 | 日記
前号の続き

雨が久しぶりに降ったのでしばしの休息タイム
 
通院などに当てた貴重な1日。

さて旧松尾鉱山跡地。

明治15年 1882年 近くの兄弟が赤川を発見。
その後 大正3年、1914年松尾工業設立
硫黄の本格採掘。
大正末には国内需要の半分を生産。

昭和10年代は国内の8割。
東洋1の硫黄鉱山に成長。
雲上の楽園と呼ばれ従業員4500人、山の人口は13000人に達した。


最盛期の昭和20年~30年代は病院、小、中、高校、郵便局 文化会館など設置された。
なぜここまで発展したかというと
火薬、肥料、ゴム、マッチなどの原料となったからであった。

しかし、その後石油精製でできる回収硫黄に押され、昭和47年、1972年に廃山となってしまう。

60年の発展の歴史とその後の大量の酸性水。
北上川の中和処理の歴史。

今回は研修ということで
観光では入れない敷地に入って詳しく説明を伺った。

貴重な研修であった。
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