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樺太アイヌ 遺族会設立 「遺骨は末裔が慰霊・供養」 /北海道

2018-06-04 | アイヌ民族関連
毎日新聞2018年6月4日 地方版
 旧樺太(サハリン)に暮らしていた樺太アイヌ(エンチウ)の子孫らが3日、大学や研究機関などに、研究材料として保管されているアイヌ遺骨の返還を目的とする「エンチウ遺族会」を設立した。
 遺族会は、政府による遺骨の集約に反対し、樺太アイヌの遺骨はその子孫が引き取るべきだとして、団体として遺骨返還を求めていく。返還された場合は適切に慰霊、供養し、旧樺太で再埋葬することも含め検討する。当面は樺太アイヌ(エンチウ)協会の会員ら20人が中心となって活動し、会長には同協会の田沢守会長が就いた。
 政府は今年5月、北海道大など全国の大学が保管するアイヌ遺骨について、これまで遺族のみとしていた返還の対象を、出土した地域に縁のあるアイヌ団体にも広げる方針を決めた。一方、身元不明や引き取り手がない遺骨は、2019年秋にも白老町に完成予定の慰霊施設に集約するとしている。
 田沢会長は「国の政策では樺太アイヌについては触れられてもいない。エンチウ(樺太アイヌ)の遺骨はエンチウの末裔(まつえい)が引き取って慰霊・供養すべきで、当事者として意思を表明し行動しないといけない」と話した。【安達恒太郎】
https://mainichi.jp/articles/20180604/ddl/k01/040/123000c

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身のまわりにある自然物を生かし極寒にも耐える アイヌの伝統的住居

2018-06-04 | アイヌ民族関連
ニュースウォーカー2018/06/02 20:00
北海道・平取町の二風谷エリアなどで見ることのできるアイヌの伝統的住居。効率よく屋内を暖める機能を備え、囲炉裏を中心とした空間は、祈りの場であり休息の場であり、作業の場でもありました。どんなふうに建て、どんなふうに使っていたのかを見ていくと当時のアイヌの暮らしが見えてきます。
北海道の寒~い冬。カヤやササの家で凍えないの?
伝統的住居は大きめのワンルーム。17世紀中ごろからはセムという前室が玄関前につく形が増えました。セムは冬の冷たい外気が部屋にダイレクトに流れ込むのを防ぐためもので、農具や生活に必要な道具を置く物置としても使われました。現在の北海道でも、玄関の扉の外側にガラスなどで囲いをした「玄関フード」という小さな部屋を設けることがあります。
そう、北海道での暮らしは今も昔も最高気温がマイナスという寒ーい冬をどう生き抜くかを考えるところからはじまります。家づくりの材料には日高エリアはカヤ、旭川エリアはササを利用していましたが、その家でアイヌの人たちはどうやって寒い冬をしのいでいたのでしょうか。
「土間に直接切った囲炉裏が床暖房のような効果をもたらしており、実はそこまで寒くなかったようです」と言うのは平取町立二風谷アイヌ文化博物館館長の森岡健治さん。囲炉裏の火はほとんど絶やすことがなかったので、土間に蓄熱され下から暖められていたのです。土間にゴザを敷いて暮らしていたので、まさに床暖房ですね。
また壁や屋根に使われているカヤやササが断熱材のような働きをしていたので、暖気が逃げづらく冬も凍えることなく過ごすことができました。「明治に入って板張りの家に移された旭川のアイヌの人たちは寒さに耐えきれずササの家に戻ったという話もあります」。
囲炉裏で火を焚くことは家を長持ちさせることにもつながっていました。「煙でいぶすことでカヤに虫がつきにくく、また屋根の内側に付いたヤニが膜のようになり雨漏りを防いでいたんです」。シンプルでなんと無駄のないシステム! そして作り方もまたシンプルです。 
建築用重機のない時代の家づくり
通常、子どもが成人し結婚して新しい所帯を持つときに新しい家を建てました。「柱はものすごく太いと思っていませんか? それじゃあ運べないですよね」。確かに、人力のみで建てることを考えると…。「通常は成人男性がひとりで持てる、直径12、13㎝ほどのものが使われていました」。
平取町二風谷には地域の人たちが協力して建てたチセ(家)群があります。明治のころのつくり方を参考にしたというそのマニュアルを元に森岡さんにつくり方を教えていただきました。まず最初につくるのは屋根。その屋根を柱で持ち上げ、壁をつくっていきます。柱は「屋根の重みで自然に安定するように」と、ハの字に地面に差します。地面に土を盛って少しだけ高さを出しておけば、雨水にカヤが浸って腐るのを防げました。材料さえあれば、数日でつくることができ、寿命は30~50年です。
暮らしの中心は囲炉裏
間取りはどの地域もほぼ同じです。南側に玄関があり、東側にカムイ(神のような人知の及ばぬ存在)のための窓を設けます。この窓は儀式のための道具の出し入れに使用し、ここから家の中をのぞくのは非常に失礼な行為とされていました。ほか南側に採光のための窓と汚れた水を捨てる窓がある、というのがスタンダード。ただ、道路が次第に整備されていくと、道に沿って家が建っていったため、向きも時代と共に変容していったと思われます。
家財道具の配置、住人の座る場所も決まっていました。北海道博物館の伝統的住居を再現した展示を見てみましょう。住空間に入ると正面に囲炉裏あり、左手には奥から夫、妻。右手に子どもたち。正面のカムイのための窓に背を向ける席には大事なお客さんが座ります。
住居内は無地のゴザが敷かれていますが、カムイのための窓の左側は柄のついたゴザで飾られています。ここには本州との交易で手に入れた漆塗りの容器が置かれて、神具や大事なものを置いていました。
一家が日常を過ごしていたのは囲炉裏のまわりです。煮炊きはもちろん、祈りを捧げる場でもあり、女の子は囲炉裏の灰に絵を描いて伝統的な文様を身に付けていきました。
夫の席には灯をともすためのホタテの殻があり、妻の席には赤ちゃん用の寝床や糸を紡ぐ道具があります。
囲炉裏の上からぶら下げられたオレンジ色の袋はシカの膀胱です。「サメやクマの油を入れていました。動物や魚の油は燃料ではなく、調味料としても使っていたんです」と同館の大坂拓さん。一度火を通すと固まりづらいものはその性質を生かして、袋で保管していました。これなら調理の際にも使いやすい!
限られたスペースを最大限に活用
内部は白老地方の秋~冬にかけてのようすを再現しており囲炉裏の上部にはサケが燻されています。囲炉裏の上は物を燻すだけの場所ではありませんでした。「囲炉裏の上に棚のようになっている場所がありますよね」と大坂さんの言うところを見ると確かに平らになっています。「ヒエやアワを脱穀する際ここに置いて乾燥させるときれいにむけるんです」。本当に効率よく囲炉裏のまわりを使っていたんですね!
アイヌの人はこの広いワンルームを無駄なく使って暮らしていたんだなぁと思っていたら大坂さんが「実は区切って使うことも多かったんですよ」と。着物をかけた棒を梁に渡して個室を作っていたそう。手持ちのものを何通りにも使い分けて暮らすようすが、だんだんミニマリストのお手本のように感じてきました。
狩りの際に連れ帰った子熊を入れるオリや食糧庫は主人の席から窓を通して見える場所につくられ、火事になっても延焼しないよう隣の家とは離して建てるなど、もしもの備えも万全。アイヌの伝統的住居を見学する機会があったら、ここで自分が暮らしていたら?と一度囲炉裏のそばに座った目線を想像してみてください。
※文中のセムの「ム」はアイヌ語表記では小文字になります。
平取町立二風谷アイヌ文化博物館■住所:沙流郡平取町二風谷55 ■電話:01457・2・2892 ■時間:9:00~16:30 ■料金:高校生以上400円 小・中学生150円 ■休み:4/16~11/15はなし。11/16~12/15、1/16~4/15は月曜、12/16~1/15は休館 
アイヌ文化の森伝承のコタン(旭川市博物館分館) ■住所:上川郡鷹栖町字近文9線西4号 ■電話:0166・55・9779 ■時間:9:00~17:00(最終入園は16:30) ■料金:無料 ■休み:第二、第四月曜、施設点検日、12/30~1/4 ※4~10月は無休
北海道博物館■住所:札幌市厚別区厚別町小野幌53-2 ■電話:011・898・0466 ■時間:9:30~17:00(10~4月は16:30閉館。最終入館はともに閉館時間の30分前まで) ■料金:大人600円 大学生・高校生300円(高校生は土曜、こどもの日、文化の日は無料) ■休み:月曜(休日の場合は直後の平日) ほか臨時休館あり
市村雅代
https://news.walkerplus.com/article/137421/

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安らかに先祖を供養 新ひだかチセでイチャルパ

2018-06-04 | アイヌ民族関連
北海道新聞06/04 05:00
 【新ひだか】町内の無縁仏納骨堂に眠る2695体のアイヌ民族の先祖を供養する恒例の儀式「イチャルパ」が3日、新ひだかアイヌ協会所有の伝統家屋チセ(町静内真歌)で厳かに営まれ、同協会の会員や関係者ら約120人が祈りをささげた。
 アイヌ民族の墓地はかつて町内に点在し、長い年月を経て荒廃が進んだため、1989年から10年ほど掛けて町静内花園の静内霊園の無縁仏納骨堂に改葬された。イチャルパは先祖の霊を慰めるため、89年から毎年6月上旬に行っている。
 民族衣装を身にまとった参加者は、チセ内で神への祈りカムイノミを行った後、屋外の祭壇ヌサに供物を供え先祖を弔った。
◆イチャルパの「ル」は小さい字
残り:85文字/全文:379文字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/195920

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『ヘイト・クライムと植民地主義』 他人事でない差別と憎悪

2018-06-04 | ウチナー・沖縄
琉球新報2018年6月3日 10:53
『ヘイト・クライムと植民地主義』木村朗、前田朗共編 三一書房・2484円
 本書によれば、ヘイト・クライム/ヘイト・スピーチとは「人種・民族等の属性に着目した差別とその煽動(せんどう)による犯罪」を指し、「前者はその暴力的側面、後者は言動による側面に着目した概念」である。歴史的な植民地主義をルーツとし、近年、世界的現象として、その激化が見られる。現代のグローバリゼーションのなかで貧富の格差が増大し、それによる「挫折感や挫折への恐怖」が下からのヘイトを生み、それが政府の上からのヘイトと呼応し合っているという。
 本書ではその日本的状況を取り上げる。執筆者の属性や立場性の問題の検証を前提に、「大和民族(和人、やまとんちゅ)と総称されることになる人々が植民地主義の主要な担い手」だとして、まず日本人自ら己と日本社会を問う。次に「在日朝鮮人、アイヌ、琉球に対する差別とヘイト」とそれへの抵抗を各当事者が報告する。
 私は本書を読みながら、被植民者側の在日朝鮮、アイヌ、琉球がつながるにはどうすればよいかを考えていた。なぜなら、1903年の人類館事件以来、琉球人は、共に差別・陳列された者達に対し、差別者・植民者に同化した眼差しを向け、「私はこの者達とはちがう」として、差別から逃れようとしてきた歴史があり、それはまだ克服されていないからである。
 本書において、この点から注目すべきは辛淑玉(しんすご)氏の「『ニュース女子』問題とは何か」である。在日朝鮮人女性である辛氏は、基地問題で琉球人に連帯し、日本人との橋渡し役も担おうとしたため、沖縄ヘイトを撒き散らすテレビ番組で個人名をあげられヘイト攻撃の的にされた。それ以後、日常生活もままならなくなるようなヘイトにさらされ、現在はドイツに亡命中だそうだ。身を守るために、生まれ育った土地を離れなければならなくなるほどに、辛氏を追いつめたものが植民地主義とジェンダーによる差別と憎悪である。この事態は他人事などでは決してない。辛氏が受けた侮辱は私達にも向けられている。
 (知念ウシ むぬかちゃー)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-731432.html

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『地名』露口啓二 つながっていない風景

2018-06-04 | アイヌ民族関連
産経ニュース2018.6.2 11:30
 北海道にはアイヌ語が元になった地名が多い。写真家は各地で地名の由来になったと思われる風景を探して歩く。作品には地名(漢字)と音(ローマ字)、アイヌ語の意味が付記され、写真家の解釈と行動を追うことができる。たとえば掲載写真なら「札比内/Sappinai/sat-pi-nay(乾く・小石の・川)」。
 特徴は、同じ場所から視点をずらして撮影した組み写真になっていること。見開きページの左右2枚でパノラマ風になるのだが、じつは左右で撮られた時期が違っている。この写真も、左の画面には残雪と枯れ木、でも右の茂みは青々。わざわざ同じ場所を再訪していて、この写真では1年以上が過ぎているのだ。
 つながっているようでつながっていない風景、表意文字の漢字と文字表記のなかったアイヌ語とのズレ…。言葉や歴史、文化について、思索のきっかけを与えてくれる。(赤々舎・5000円+税)
 篠原知存
https://www.sankei.com/life/news/180602/lif1806020016-n1.html

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独特の世界観に引き込まれる 音威子府村の砂澤ビッキ記念館

2018-06-04 | アイヌ民族関連
ニュースウォーカー2018/06/03 11:00
木と対話するようにして多くの木彫作品を作り上げた現代彫刻家・砂澤ビッキ氏。生前アトリエとして使っていた北海道の音威子府村の旧筬島小学校が2004年からは彼の作品を収めた記念館「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」となっています。アイヌ文様をオリジナルのデザインへと発展させた作品の数々に出会え、豪快で多くの人に愛された彼の人となりも感じることができます。
7つのエリアにわかれた「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」。足を踏み入れると最初に迎えてくれるのが「風の回廊」です。左には「木材」を組み合わせた壁、右には「鉄」の壁。そして床は「木のくず」が。その空間にひゅーひゅーという風の音が響きます。
廊下に使われている「木材」「鉄」「木のくず」は、それぞれビッキ氏の作品の材料、それを削る鉄製のノミ、そして作業の工程で出る木のくずを表現しています。風の音は、ビッキ氏が大好きだったという「ビッキの木」のある村内の北海道大学中川研究林で録音されたもの。のっけからビッキワールドにぐっと引き込まれます。
「ビッキは、『木というのは人間より長い年月かけて育っているもの。そのため力強くむだがない』と話していたそうです。作品も木の自然の姿を生かし、木の中にあったものを彫り出すようにして作っています。いい意味で遊びがあって、楽しい作品も多いですね」と同館の学芸員の川﨑映さんはビッキ氏の作品の特徴を話します。
廊下の右に並ぶのはすべて「きめん」と読めるタイトルのついたお面。1975年から76年にかけて約120点作られたもののうちの一部が展示されています。すべて「木」でできた「面」ではありますが、表現は全く別。タイトルから何を表現しているのか想像してみてください。
アイヌの血を受け継いだビッキ氏は、渦巻の形など伝統のアイヌ文様を「ビッキ文様」と呼ばれるものに発展させていきました。館内ではこのビッキ文様を施した作品を見ることもできます。木に文様を彫り込んだ後、ブロンズの緑青に見立てて緑の顔料を練り込んだ作品は、特にそのオリジナルの文様が際立ちます。
胴部分の2か所と尾が動かせるようになっており、サケが尾を振りながら泳ぐ姿も再現できるようになっています。ほか関節を動かせるイセエビを表現した作品もあり、ビッキ氏の観察眼の素晴らしさと遊び心を感じます。
次の展示スペースは「トーテムポールの木霊」。旧校舎の床をはがし、土がむき出しになった場所にかつて音威子府駅前にあった15mの高さのトーテムポール「オトイネップタワー」が分割されて横たわっています。1980年に建てられたこのトーテムポールは90年に風で折れてしまいましたが、「作品は自然の手が加わってはじめて完成する」というビッキ氏の考えのもと土に帰るまでを作品とし、直接土に横たえています。
当時の姿は議会に提出されたミニチュアサイズの試作品で見ることができます。当時の村の産業=林業、酪農、農業を表すキツツキ、ウシ、砂糖大根(ビート)をかたどったもので構成されています。
次は暗い小部屋「ビッキからのメッセージ」。足を踏み入れるとあかりが灯り、正面のビッキ氏の写真とデスマスク、生前身に着けていた指輪を照らします。床にはビッキ氏が詠んだ詩が投影され、タイトな空間ということもあり、一対一でじっくりビッキ氏と向き合えます。
その後、暗い部屋から一気に広い空間へ。ビッキ氏のアトリエを再現した「アトリエ:午前3時の部屋」です。実際に使用されていた道具類も展示されています。中央にある作品は「樹華」。来館者が自由にヤナギの枝を差し、形を変えることができます。
この部屋にはビッキ氏の代表作「午前3時の玩具」も展示。1987年の作品です。夜作業をしていると午前3時ころに音威子府を夜行列車が通過し、その汽笛を聞くのが好きだった、というビッキ氏。灯りに集まるガなど、夜の空気からインスピレーションを受けて完成させた作品です。ほか、初期の作品もあり、彼の作風の変化を感じながらの鑑賞もおすすめです。
次のスペースはギャラリー。現代の作家による企画展などを行うスペースです。この一画にトンボを表現した作品が。スミソニアン博物館でも展示されたものです。上記のサケ同様、木製ですが、緑の顔料が使われており、近くで目を凝らしても木製とは思えない質感です。羽や腹部の細かいビッキ文様も見どころです。
いろいろな土地に出かけることでビッキ氏も様々な影響を受けていました。カナダの先住民族との交流を経て、作品作りにおいて木の「気」との対話を求めるようになったそう。その影響が見られるのがTOH(1984年)です。「樹気との対話」のコーナーにあり、水を張った暗い空間にくっきりと浮かび上がります。十字架にも女性にも見えるこの作品。館内で一番大きな作品ですが、細かいノミの跡にビッキ氏が木の心を掬い取ろうとした思いが伺えます。
最後はビッキ氏が内装を手掛けた札幌のバー「いないいないばぁー」を移設した空間へ。思わずニヤリとしてしまうようなユーモラスな作品が多く、お酒好きだったビッキ氏がお酒の飲める場所も大事にしていたことがわかります。
ビッキ氏の両親の作品も展示。アイヌ文様に触れながら育ち、木彫りが身近にある環境だったことがわかります。オトイネップタワーをデザインした手ぬぐいなど、手ごろなお土産も販売しています。
「北海道一人口の少ない村」と紹介されることの多い音威子府村ですが、ビッキ氏の残したものが木彫作品以上の大きな財産となり、道北エリアで独特の個性を放っています。
エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア ■住所:音威子府村字物満内55 ■電話:01656・5・3980 ■時間:9:30~16:30 ■料金:高校生以上200円 ■休み:月曜、11/1~4/25
市村雅代
https://news.walkerplus.com/article/142385/

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北海道の名付け親・三重出身の松浦武四郎の生涯を小説に 河治和香さん執筆

2018-06-04 | アイヌ民族関連
産経ニュース 2018.6.4 07:00
 歴史小説家の河治和香さんが、北海道の名付け親とされる三重出身の探検家、松浦武四郎(1818~88年)の生涯を描いた「がいなもん 松浦武四郎一代」(小学館)を執筆した。今年は蝦夷地が北海道と改称されてから150年目で、武四郎にも注目が集まっている。小説は数々の型破りなエピソードに触れており、河治さんは「今までと違う視点で、武四郎の面白さを書いてみた」と話す。
 「がいなもん」は武四郎の出身地、伊勢の方言で「途方もない、とんでもない」との意味。武四郎は、数え年16歳で中国やインドへ行くと家を飛び出し、国内を放浪。後にアイヌ民族と蝦夷地を探検し、行政にも携わった。小説では幕末の志士、文化人との交流や、古物収集に熱中する様子、自身の死に備える「終活」に没頭する姿などを描いた。
 河治さんは主に江戸時代の歴史小説を書いており、前作の取材で武四郎の故郷を訪れて着想を得た。武四郎と親しかった絵師の娘が晩年の武四郎の昔話を聞く形になっており、「近所のおじいさんの昔話を聞くつもりで、子供にも気軽に読んでほしい」と語った。8日発売予定で320ページ、1836円。
http://www.sankei.com/region/news/180604/rgn1806040047-n1.html

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3万年前の航海再現プロジェクト再び 改良版の竹いかだで沖縄目指す

2018-06-04 | 先住民族関連
中央フォーカス台湾2018/06/02 16:33

1日に台湾東部の海辺に運ばれた竹のいかだ
(台東 2日 中央社)約3万年前に人類が台湾から沖縄に渡った航海ルートと手段を考察する日台共同の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の研究チームが9日、昨年に引き続き台湾東部の海で、竹で作ったいかだによるテスト航海を実施する。
日本の国立科学博物館(科博)と台湾の国立台湾史前文化博物館(史前館)が行う同プロジェクト。沖縄では約3万年以上前の遺跡が発見されており、台湾から海を越えて移民してきた人々が暮らしていた可能性が指摘されている。ただ、航海の詳細はまだ解明されていない。
研究チームは今年、台湾原住民(先住民)アミ族に残る竹のいかだを参考に試作した昨年の「イラ号」に改良を加えた「イラ2号」を製作。イラ2号は1日に出発点となる東部・台東県長浜の海岸に運び込まれ、2日に進水式が行われた。日本、台湾、ニュージーランドから集まった漕ぎ手たちが、数日間のウオーミングアップを経て、9日のテスト航海に臨む。来年には沖縄県与那国島までの本番航海が予定されており、今回はあくまでも本番前のトレーニングとして地形を覚えたり、黒潮上での長時間航行などを体験し、途中で伴走船に曳航されて戻る予定。
(盧太城/編集:塚越西穂)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201806020002.aspx


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<書評>混血列島論

2018-06-04 | アイヌ民族関連
北海道新聞06/03 05:00
金子遊著
広範な多民族の衝突と結合
評 山村基毅(ルポライター)
 本書のいくつかの章でアイヌ民族が取り上げられている。ただ、著者の関心は、アイヌの習俗そのものを論じることではなく、別の方向にある。たとえばイザベラ・バード、ジョン・ミルンといった西欧の紀行作家、探検家、文化人類学者たちが、なぜ、明治時代に渡航さえままならない北の地にわざわざ赴いたのか。そして、なぜ、アイヌの風俗に惹(ひ)かれたのか。
 彼らの克明な記録は、私たちにとっても貴重な資料である。そこに帝国主義風の、コレクター的な動機があったことは確かだろう。
 しかし、それだけではない。アイヌ民族に「ヨーロッパからシベリアを移動」(宮本常一の指摘)してきた遺伝子の存在を感じ取ったからではないか、そういう推測も成り立つのだ。
 この推測が、本書の背骨となっている。小さな弓形の日本列島。その弧を南北に引き伸ばしていけば太平洋の西側に点在する島々と結びつく。島は決して孤立した地ではなく、海という交通路により、しっかりと繋(つな)がっているのである。
 日本人のルーツを縄文人と弥生人といった大ざっぱな二元論で解釈するのではなく、もっと広範で複雑な多民族の衝突と結合と捉えるべきではないか、ということだ。まさに「混血列島」なのである。
 本書では、とくにインドシナ半島の、タイ北部とミャンマー国境近くに暮らす山岳民族アカ族の風習から、文化の「混血」具合を論じている章が興味深い。彼(か)の地にも鳥居や注連縄(しめなわ)があり、やはり呪術的意味合いをまとっている。どちらが先かは問題ではない。こうした文化が、日本も含めた太平洋西部の島々に残っていることが肝心なのである。あたかも接ぎ木としてあてがわれた木が初めからそこに生えていたかのように。
 他民族の文化と接触するのは、北海道や沖縄といった、日本の中の「辺境」である。しかし、文化の豊饒(ほうじょう)さを推し量るなら、一転して辺境こそが中心軸になっていると気づかされる。(フィルムアート社 3240円)
<略歴>
かねこ・ゆう 批評家、映像作家。「映像の境域」でサントリー学芸賞。他の著書に「辺境のフォークロア」など
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/196039

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台湾LGBTQ映画から見る多様性という未来

2018-06-04 | 先住民族関連
nippon.com[2018.06.03]
『阿莉芙』が投げ掛けたもの
2017年公開の『阿莉芙(アリフ)』という台湾映画がある。英語のタイトルは『Alifu, the Prince/ss』。「プリン(セ)ス」という言葉が示す通り、台湾先住民族のパイワン族の村の王子として生まれた「阿利夫」が、性適合手術を受けた後「阿莉芙」という名の王女として村の長を引き継ぐ話だ。異性愛に基づく夫婦形態や先住民族社会の古典的規範を通してLGBTQ(※1)の当事者たちが葛藤するストーリーだが、とくにラストに驚いた。レズビアンである親友が阿莉芙に恋をしたことから、「友人=レズビアン」と「阿莉芙=身体性が男性のトランスジェンダー(性適合手術前)」の偶発的なセックスによって子供が生まれる。誕生した子供が産みの母と共に、もう一人の「ママ=阿莉芙」に会いに行くところで映画は終わる。ジェンダー/セクシュアル・アイデンティティーを軸に現象を対称的に二転三転させることで、ステレオタイプから登場人物を逸脱させ、ない交ぜになった「揺らぎ」の中に個々人の夢をすくい取ろうとする。トランスジェンダーの当事者でない俳優がトランスジェンダーを演じることで生じる固定観念、および作中で出てくる性暴力への無批判さなどいくつかの問題点が指摘されているとはいえ、ジェンダー問題や先住民というエスニックマイノリティーについて意欲的に取り組んだ作品として、数々の国際映画祭でも上映された。
来台中の知人との間でも、この映画が話題に上った。知人は、日本で在日外国人やLGBTQなど社会的マイノリティー問題に取り組んでいる弁護士だが、台湾への飛行機の中で何気なく選んだ映画が『阿莉芙』で、この映画に見られる多様性の受容という面で、台湾は世界でもまれにみる先進性を持っているのではないかと感嘆した様子だった。
(※1)^ レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(心と体の性が一致しない人)、心の性や好きになる性が定まらない人(クエスチョニング)の英語の頭文字をとって、こう呼ぶ
台湾社会の現実を描く
2017年に出された「同性婚を認めないのは違憲」とする台湾の大法官の憲法解釈は、国連に加盟できずとも台湾が「立憲民主」に支えられた先進的な独立国家であるという印象を強烈に国際社会にアピールした。しかしそれ以前より、LGBTQをテーマとした映画は、台湾で数多く製作されてきた。
LGBTQを題材にした台湾映画がなぜ多いのか。それは1960年代にアメリカのフェミニズム運動の中で生まれた、個人の問題を拡大すればそのまま社会の問題へつながる「Personal is Political」(個人的なことは政治的なこと)という言葉と無関係ではないだろう。人の営みの中で最もパーソナルな事柄である性、とりわけセクシュアルマイノリティー(性的少数者)の悩みやアイデンティティーを通して台湾社会の現実やひずみを描きだそうとしたのが、台湾のLGBTQ映画であるといえそうだ。
日本では、同じようなアプローチをしている映画監督に『ハッシュ!』(2001年)『恋人たち』(15年)を撮り、自身もゲイであることをカミングアウトしている橋口亮輔監督が挙げられるが、日本でセクシュアルアイデンティティーの要素を扱った作品は少なくないにも関わらず、それを通して大きく社会を捉えたものは多くないように思う。現在、よくメディアに取り上げられるようになったLGBTQの人権問題についても「そっとしておいてほしい」という当事者の声さえ聞かれる日本では、「性的なことはあくまでも個人的なこと」としてあえて問題化しない傾向がある。
名作誕生の背景には性とアイデンティティーが存在
台湾出身で世界的で活躍するアン・リー(李安)監督も、『ウェディング・バンケット』(1993年)『ブロークバック・マウンテン』(2005年)など、性的多様性を扱った名作を世に送り出している。
『ウェディング・バンケット』は、LGBTQ映画の古典ともいえる作品だが、アメリカに移住した台湾出身のゲイの青年が、保守的な華人社会とアメリカ社会との間で惑うという、コメディータッチながらもシリアスな人間ドラマだ。また映画『ラスト・コーション』(07年)は、LGBTQ映画枠とは言えないが、第二次世界大戦中の香港と上海を舞台に、国と国とのパワーバランスや暴力を最もパーソナルな行為である「セックス」に投影し、個人と国家の間に横たわる「愛情」と「ゆがみ」を描き出したという意味で、まさに「Personal is Political」の構造を持った作品といえるだろう。
アン・リー自身はインタビューで「現実の世界では、私は生涯よそ者である。どこが家なのか、私は他の人のようにはっきりとどこかに帰属することができない。台湾では私は外省人であり、アメリカでは外国人、中国では台湾同胞である。自分では致し方ないものであるが、また自己の選択でもあり、運命が決めたことでもある。私は一生よそ者であるしかないのだ」と語っているが(※2)、「故郷がない」と感じるアイデンティティーの問題は、歴史に翻弄(ほんろう)されてきた台湾社会がさまざまな形で向き合ってきたものともいえ、その複雑な心情が台湾で生まれた「湾生」日本人へ投影されたのが、『湾生回家』(15年)というドキュメンタリー映画でもあった。
台湾を代表する文学者の白先勇も、アン・リーと同じく戦後に中国から移民してきたエスニシティに属しているが、代表作の一つである『孽子(Crystal Boys)』は2003年にテレビドラマ化され、性とアイデンティティーの間に揺れる青年と、1970年代の台湾戒厳令下におけるゲイ社会の模様を緻密に描写した。マレーシア出身のツァイ・ミンリャン(蔡明亮)監督もゲイであることを公言しているが、作品にセクシュアルアイデンティティーの問題を盛り込みつつ、都会に暮らす人々の孤独を描いて国際的な評価が高い。
(※2)^ 張小虹「愛の不可能な任務について~映画『ラスト・コーション』に描かれた性・政治・歴史」/台湾文化表象の現在(2010年/あるむ)の中の参考文献:張靚蓓『十年一覚電影夢―李安伝』より
映画界が衰退するも、新たな作品が続々誕生
2000年前後には製作される作品数が大幅に減り、台湾映画界は一度、大きく力を失った時期もあった。しかしその後、民主化の浸透と中台関係への危機感から急速に盛り上がった「台湾アイデンティティー(台湾本土意識)」に呼応するかのように、日本時代を台湾の歴史の一部として描いた『海角七号 君想う、国境の南』(08年)が誕生。これを大きな転機として、以後作られた台湾ローカル色の強い作品の中には、優れたLGBTQ作品も多く存在する。
12年に公開された『GF*BF』は、1990年の民主運動・野百合学生運動を背景に1人の女性と2人の男性の友情と恋愛を描き大きなヒットとなった。また、『醉・生夢死』(15年)や『満月酒』(15年)『日常対話』(17年)『自画像』(17年)など話題作が次々と登場する中、冒頭に挙げた『阿莉芙』はLGBTQ×アイデンティティーをテーマにした台湾映画が、またひとつ新たな局面に入ったことを世界に示したと言えるだろう。
しかし一方では、伝統的・保守的な考え方が堅固に存在する台湾社会において、宗教的な理由や保守派層による同性婚反対の声も高まっており、同性婚合法化に反対する「公投」(日本でいう国民投票)の開催が呼び掛けられるなど、社会的な分断が進んでいることも注視していく必要がある。
多様性と寛容の共存が描く未来的美しさ
国家アイデンティティーとは多くの場合、突き詰めるほど排他的になっていく。日本の場合も国学の発達から、明治期には日本アイデンティティーを持つ国民が形成されたが、後には他民族への同化の働き掛けを強め、その波は朝鮮・台湾まで及んだ。近年では再び右傾化により、在日外国人へのヘイトスピーチが社会問題にもなっている。
しかし台湾における台湾アイデンティティーの深まりを見ていると、日本とは真逆の現象が起きているように感じる。それは先住民、スペイン・オランダ、清朝、日本、中華民国という、台湾の今日までの歴史の内在化であり、台湾が台湾らしくあろうとするほど、玉手箱のようにさまざまなエスニシティの共存する多様性をはらんでいること、それが映画『阿莉芙』や同性婚合憲解釈が生まれる土壌になっていると言えそうだ。台湾が内包するのは、多様性と寛容とが共存することで描き得る未来的な美しさである。それが今日本人をはじめ、多くの外国人を引き付けるゆえんではないかと思う。
バナー写真=里山珈琲(提供:栖来 ひかり)
https://www.nippon.com/ja/column/g00537/

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地元の貴重な資料を展示する旭川市博物館 アイヌのグローバルな交易手腕にも着目

2018-06-04 | アイヌ民族関連
東京ウォーカー2018/06/02 15:00

北海道・旭川市博物館のキャッチコピーは「アイヌの歴史と文化に出会う」。1階ではアイヌの生活様式や他地域の先住民族の衣服などを紹介しています。13世紀ころから大陸方面でアイヌ民族が活動範囲を拡大していった様子などほかではあまり見られない展示内容にも注目。地階では旭川周辺の自然について触れています。嵐山にある分館では伝統的家屋を屋外展示。自然に囲まれた家はかつてのアイヌの暮らしを彷彿とさせます。
他地域の先住民族の人形や像を展示
アイヌ文化が確立したのは13世紀ごろと言われていますが、アイヌ民族は11世紀ごろからサハリン、千島方面にも進出。15世紀ころにはカムチャツカ半島にまで勢力を拡大していました。日本にはその当時の記録がほとんどありませんが、中国の史料「元史」にはアイヌがどんどん活動範囲を拡大していく様子が記されています。その史料を元にした展示ではサハリンから大陸に渡ったアイヌの人々が元軍と戦ったことがわかります。
博物館の一画には江戸時代の画家、蠣崎波響(かきざきはきょう)が描いた「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」の中のひとりをモデルにしたアイヌのリーダー像が。威風堂々と立つその像は中国の服と毛皮のついたロシアのコートを着用。本州との交易で手に入れた刀を持っています。
アイヌを含む北方民族の衣装や民具が並べられているコーナーでは、それぞれの類似点と相違点を探すこともできます。
ほかの民族と比べ、アイヌ民族はヒト型の人形を作ることがあまりなかったそう。こうして他民族のものと並べてみると、そういえば、と気付かされます。
旭川市博物館ではほかにも個性的な展示が目を引きます。入口を入ってすぐに目に入るのが、こちら。鮮やかな赤ちゃん用のベッドメリーと動物の骨のようなもの。
なんとも奇妙な組み合わせに見えますが、これはアイヌの世界観を象徴するものとして設置されています。アイヌの人々はカムイ(人知の及ばないもの。神のようなもの)が人間に肉や毛皮を与えるために動物の姿となって人間の世界にやってくると考えていました。そのため動物を手に入れると、魂を丁重にカムイモシリ(神の世界)に返していました。
そうした考えは動物に対してだけではありません。ものにも魂が宿っていると考えていたので、使わなくなったものは所定の送り場に置き、自然に返しました。1968年に、博物館から車で20分ほどのところでそうした送り場の跡が見つかりましたが、そこには家紋を彫った椀などアイヌ民具のほか、ベッドメリーも置かれていたとか。入口のこのオブジェはすべてのものがカムイからもたらされたものである、というアイヌ民族の考え方を象徴しています。
入口から少し進むとササでできた家が見えてきます。旭川エリアのアイヌのチセ(家)です。伝統的な様式で作られたチセは前室ありの広めのワンルームで、中央に囲炉裏を置き、儀式の道具を出し入れするためのカムイ専用の窓があるなど構造はどのエリアもほぼ同じです。しかし、作る材料はエリアごとに異なり、カヤで作られる地域もあります。
チセは土間に直接囲炉裏がきってあるため、床暖房的な効果もあり、想像以上に暖かったようです。明治期になると、政府から板張りの住居が与えられますが、あまりの寒さにササのチセに戻る人もいたとか。また、囲炉裏の火を通じてカムイに祈りを捧げるアイヌの人にとっては、火の姿が見えないストーブの暮らしも落ち着かなかったようです。
明治のアイヌ女性、知里幸恵さんがまとめた「アイヌ神謡集」は、現在も出版されており、アイヌの文化を語り継ぎたい、という彼女の思いは世代を超えて共感を得ています。知里さんは旭川に住んでいた時期もあり、博物館では、彼女が知人の依頼に応じて、アイヌ神謡集とは別の神謡を執筆した際の手書きのノート(複写)を展示。カムイユカラ(神謡)のアイヌ語をまずローマ字にし、それから日本語に翻訳していったことがわかります。
旭川市博物館には車で20分ほどの嵐山に分館、「アイヌ文化の森 伝承のコタン」もあります。
北海道ならではの植物が一面に生えている中、ササで作られたチセが3棟、屋外展示されています。
北邦野草園内の「嵐山公園センター」では、特にアイヌの植物利用に関する展示を行っています。
北邦野草園では約600種の植物を見ることができ、その中にはアイヌの人が生活の中で良く利用していた植物も。
アイヌの暮らし・歴史を知ることのできる屋内展示、そして感じることのできる屋外展示。ゆっくり時間をとって両方楽しんでください。
※文中のカムイモシリの「リ」、カムイユカラの「ラ」、アットウシの「ウシ」は実際のアイヌ語表記では、小文字となります。
旭川市博物館 ■住所:旭川市神楽3-7(旭川市大雪クリスタルホール内) ■電話:0166・69・2004 ■時間:9:00~17:00(最終入館は16:30) ■料金:大人300円 高校生200円 中学生以下無料 ■休み:第二、第四月曜、施設点検日、12/30~1/4 ※6~9月は無休
アイヌ文化の森伝承のコタン ■住所:鷹栖町字近文9線西4号 ■電話:0166・55・9779 ■時間:9:00~17:00(最終入園は16:30) ■料金:無料 ■休み:第二、第四月曜、施設点検日、12/30~1/4 ※4~10月は無休
北邦野草園 ■住所:鷹栖町嵐山 ■電話:0166・55・9779 ■時間:9:00~17:00(最終入園は16:30) ■料金:無料 ■休み:10/16~4月下旬。開園期間中は無休(北海道ウォーカー・市村雅代)
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3564568

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