北米の狩猟採集民は驚くほど大きく複雑な社会を築いていた
ナショナルジオグラフィック2018.06.18

ギャラリー:カルーサ王国の巨大住居跡を発見、写真7点(写真クリックでギャラリーページへ)
フロリダのマウンドキー遺跡で、かつてカルーサ族の王の住居があった場所を発掘する考古学者たち。近くにはスペイン人が築いた砦がある。(PHOTOGRAPH BY AMANDA THOMPSON)
1566年2月、玉座に腰掛けていたアメリカ先住民カルーサ族の王カーラスは、奇妙な人々の行列が自分の住居に向かってくるのを見た。
スペイン人の提督ペドロ・メネンデス・デ・アビレスは、200人の兵士、太鼓や笛の奏者、歌い踊る道化師を集め、銃の火縄に火をつけ、聖書の文字を掲げながら、フロリダの人工島マウンドキーを登っていった。当時、南フロリダの広い範囲を統治していたカーラス王を威圧するためだ。
このほど考古学者たちは、スペイン人とカーラス王の会見が開かれた建物の痕跡を初めて発見した。王の住居の復元図は、それがスペイン人の宣教師たちが残した記録どおり、2000人を収容できる目をみはるような建物だったことを示している。
考古学の学術誌『Journal of Anthropological Archaeology』オンライン版で6月1日に報告された王の住居の発見は、カルーサ族の暮らしについて新たな洞察をもたらすものだ。カルーサ族は、人類学の通説に反して、農業を基盤とせずに複雑な社会を形成したことで知られる。(参考記事:「ミシシッピ文化、カホキアは洪水で衰退」)
論文の共著者で、米フロリダ自然史博物館の南フロリダ考古学・民族誌学の学芸員であるウィリアム・マーカート氏は、「カルーサ族のように漁労・採集・狩猟生活を送り、複雑な社会を形成した例は非常に珍しく、以前から魅力的な研究対象でした」と言う。
海辺の強大な王国
かつて、複雑な社会をもつ集団は、ほとんどが農業を基礎にしていた。人口と労働力を維持できるだけの食料を生産するためだ。しかしカルーサ族を支えていたのは、沿岸、河口、マングローブでの、ボラ、サメ、ウミガメ、貝などの漁だった(つい最近も、フロリダ沿岸で7000年前のアメリカ先住民の埋葬地が発見されている)。(参考記事:「1500年前の捕鯨の岩絵、チリのアタカマ砂漠で」)
彼らは主に海産物を食べ、不足分はシカや鳥などで補っていた。野生の植物も採集したが、小さな家庭菜園でチリペッパー、パパイヤ、ヒョウタンを育てる以外の畑作をすることはなかった。(参考記事:「先住民が重宝した、クランベリーの歴史」)
それにもかかわらず、16世紀のカルーサ族の文化は、聖職者、軍隊、網の目のように張りめぐらされた運河、広がる通商路、各地の村に住む2万人以上から貢物を集める王など、農耕社会に近い特徴を備えていた。マウンドキーはカルーサ族の人々がカキとハマグリの貝殻を積み上げて作った巨大な人工島で、いちばん高い場所には王の立派な住居があった。
カルーサ族は植民地化とキリスト教への改宗に激しく抵抗したことで知られる。1521年、ヨーロッパ人として初めてフロリダに到達したフアン・ポンセ・デ・レオンを矢で射て致命傷を負わせたのもカルーサ族の戦士だった。
メネンデスは、南フロリダを植民地化する任務を負ってこの地にやって来た。しかし、カルーサ族の敵意が高まってきたり、暗殺計画が不首尾に終わるなどした結果、着任から3年で撤退を余儀なくされた。その後スペイン人は100年以上カルーサ族に接触することはなかった。1697年にフランシスコ会士がやって来たが、すぐに追い出され、のちにフロリダキーズ諸島で、カヌーの中で、裸で死にかけているところを発見された。
その後もカルーサ族は独立を保ち続けたが、スペインの植民地政策による被害は非常に大きかった。ヨーロッパ人がフロリダに持ち込んだ病気の蔓延により、カルーサ族の人口は17世紀末には約2000人まで減少し、銃によって武装したほかの先住民による攻撃にさらされるようになった。(参考記事:「アステカ人の大量死、原因はサルモネラ菌か」)
18世紀末までにカルーサ族の王国は崩壊し、生き残った人々はフロリダキーズ諸島やキューバに逃れた。
大規模な労働力
米ジョージア大学のビクター・トンプソン氏らは、カルーサ族についての謎を解くため、フロリダ州エステロ湾にある島、マウンドキーで発掘調査を進めている。
今回の新たな研究は、カルーサ族の人々が「大きな構造物を建築したり、その指示をしたりする能力と、膨大な労働力」をもっていたことを示している。
発掘チームは、マウンドキーに残された柱穴と基礎溝に基づいて王の住居の構造を推測した。彼らは、この住居がマウンドキーの頂上にあたる「マウンド1」と呼ばれる場所いっぱいに広がっていたと考えている。やや卵形をした構造物の奥行は約25メートル、幅は約20メートルで、約150本の木の柱によって支えられていたという。
すり減ったハマグリの貝殻もいくつか見つかった。これは、柱が長持ちするように樹皮をはぐ道具だったと考えられる。発掘の際に見つかった小さな木片からは、この建物が、フロリダ本土から舟で運ばれてきたマツの木で造られていたことがわかる。
「彼らは大きな材料を運んできて、大きな建物を造りました。つまり大規模な労働力をもっていたことを意味しています」と、トンプソン氏は言う。
さらにトンプソン氏によると、この構造物は、長い歳月の間に少なくとも3つの段階を経て造られたという。放射性炭素年代測定の結果、最も古い段階ができたのは西暦1000年頃で、この建物に住んでいた家系がスペイン人の到着より500年以上前から栄えていたことを示唆している。(参考記事:「4千年前の「高貴な族長一家」、リアルに復元」)
ありえない王国
米ウェストフロリダ大学の考古学者で、長年カルーサ族について研究してきたジョン・ワース氏によると、マウンド1は以前からカルーサ族の族長の住居があったのではないかと考えられていたという。
「スペイン人はカルーサ族の首都の様子についてリアルに描写しています。トンプソン氏らは、この構造物がスペイン人の記録にある王の住居と同じものであることを、しっかりした証拠によって示したのです」
米カリフォルニア大学サンタバーバラ校の人類学教授リン・ギャンブル氏によると、スペイン人はカルーサ族について説明する際に「王国」という言葉を用いていたが、人類学者たちは長い間、主として漁労によって食料を得ていた狩猟採集民の社会が王国の定義に当てはまるはずがないと考えていたという。
学者たちは最近になってようやく、複雑な社会に関する自分たちの考え方が時代遅れになっている可能性に気づきはじめた。「カルーサ族に関する今回の研究は、私たちをそうした思い込みから解き放ってくれるものです」とギャンブル氏は言う。
「研究チームは巨大な住居を丹念に調べ、長い年月にわたって使用されていたことを示しました。この場所で王国が形成されたことについて、説得力ある証拠を示したのです」
トンプソン氏はほかにも、スペイン人とカルーサ族との関係についてより詳しく教えてくれそうな場所を発掘している。メネンデスらが築いた砦はその1つだ。砦は短期間しか使用されなかったが、かなり大規模で、イエズス会が今日の米国にあたる地域で最初に展開した布教活動「サン・アントン・デ・カルロス」の拠点となった。(参考記事:「先住民と入植者の協力示す壁画を発見、カリブの島」)
トンプソン氏のチームはつい最近も、マウンドキーで2番目に高い場所で、スペイン人が建設した構造物の場所をいくつか確認することができた。今後の発掘調査が待ち遠しい。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/061500193/