「シャイ」という言葉に隠れた恐れ
東洋経済2018年06月17日バイエ・マクニール : 作家
最近、私が日本での人種問題について書いた記事について、日本人の友人と話していたときのこと。彼女はきっぱりと、「悪いけど、あなたは間違っている。日本に人種差別はないわ」と私に言った。
私にそのようなことを言った日本人は彼女が最初ではない。実質的には日本のスローガンのようなもので「日本へようこそ! 人種差別がないこの国なら、きっと楽しい滞在になりますよ!」という確信が心に埋め込まれているのだろう。これに反する意見にはいつだって失望させられてしまう。それもわからなくはない、現代の国際風潮では、人種差別がないというのは国の自慢であり、またそうであるべきだからだ。
日本には人種差別がないという「確信」の理由
しかしこの確信は、ある視点から見た場合だけ本当だといえる。その視点を成立させる考えは2つあり、まず1つ目は、人種差別が日本では事実上ありえないのは、大多数が日本人として識別されるから、とする考え(人種差別は米国のような多人種、多文化国家でしか起こらない)だ。
もう1つは、本の文化や歴史――中には日本人の「天性」を持ち出す人もいる――が寛容な国民性を育んできたため、日本人は非日本人とは違い、人種を理由に嫌ったり、ひどい仕打ちをしたりするようなことはない(テレビのニュースなどで見る、激しい人種差別がはびこるアメリカのようなことは起こらない)という考えである。確かに、この2つの視点だけで見れば、日本には人種差別は存在しないことになるだろう。
が、どの集団においても多数派によって何かの主張が示されるとき、意見が合わない声――特に表面上は同調しようとしている少数派の声――は、多数派の声に合わせるか、不協和音を起こすかのどちらかになるのだが、日本における少数派は、かなり違った声で歌っているようだ。
まず1つ目に、人種差別には全世界共通の定義がないことがある。これは日本に限ったことではない。2つ目は、人種差別はつくりあげられたもの、だということ。当たり前の話だが、繰り返し伝えるべきことだ。それも声を大にして!
では1つずつ、詳しく見てみよう。まず、人種差別には定義がないということについて。
ある行為や態度が差別主義的とみなされるかどうかは、その社会の感覚や文化によるが、日本における人種差別は、人によって異なる定義があるのではないか、という疑念を私は持っている。2つ目は「人種差別はつくりあげられたもの」だということ。当たり前の話だが、繰り返し伝えるべきことだ。
私の経験からいえば、日本だけでなく米国でも多くの人々が、人種問題は主に特定集団への憎悪から生じると思っている。さらにその憎悪は暴力でしか伝えられないと考えることがセットになる。そのため、日本人に外国人を憎んでいるかと尋ねれば、ほとんどの人が「そんなわけがない! ばかなことを言うものじゃない」と言うだろう。
憎悪ゼロ+暴力ゼロ=だからこの国には差別ゼロ、と考えるというわけだ。
日本人は「外国人」を恐れてはいないか
しかし、種差別は嫌悪や暴力だけの問題ではない。実は少し恐れいている、もしくは単なる理解不足ということもある。もし、前述と同じ日本人に「外国人が恐いか」と尋ねれば、純粋な気持ちで認めることもあるだろう。
「外見の違う人々を恐れるのは、自然なこと」「外国人と接したことがないし、彼らは怖いかもしれない」「外国人は英語で話すが、自分は話せないのでコミュニケーションの問題がある。もし話せば恥ずかしい状況に陥る」「外国人は、異質の価値観やモラルを持つ知らない土地から来た人たちである」「外国人は犯罪行為をし、病気を持っているし、銃を好む」――。これらは日本在住の外国人たちが何度も聞いたことがある、外国人を恐れる気持ちの言い訳の一部だ。
そして外国人への恐怖心を理由づけるように使われる表現は「シャイだから」ということ。確かに、シャイは悪い言葉には聞こえないが、「シャイであること」に人種的な要素が加われば、それは差別とほとんど変わらない態度になってしまうのだ。シャイであることが身体的な危害を加えることはないにしても、結果としてこの国の非日本人の心を傷つけている。一例を挙げれば、避ける、疎外する、犯罪者扱いをする、無視する、よそ者扱いをする、などだ。
たとえば、日本ではいまだに「外国人お断り」という店が少なからずある。「英語が話せるスタッフがいない」「ほかの客への配慮」など理由はいろいろあるだろうが、こうした店のオーナーは必ずしも外国人を憎悪しているわけではなく、単に外国人という存在をよく知らない、怖いと感じるだけのことが多い。
もちろん断られる側にとっては納得がいかない。「よそ者」として見られたことに怒りを示せば自分の責任だろうと言われる一方で、「よそ者」ととらえる人たちの恐怖心は自然なものとして許されるのか。「外国人お断り」という張り紙が、憎悪や暴力ではなく単なる恐怖の表れだと言い訳にできるのだろうか。
ここ何カ月にもわたり、外国人に対する恐れ――特に日本にいる黒人に対する恐れ――をヘイトスピーチに近いレベルで配信している日本人の人気ユーチューバーが何人かいる。彼らに対する外国人コミュニティの反応は、糾弾するものから逆に支持するものまで、いずれも激しい。動画の1つを不適切かつ攻撃的であるとして、ユーチューブ側が部分的に遮断するほどの激しさである。
ここで2つ目に挙げた、人種差別はつくりあげられたものだという点に話を進めよう。
人種は単に作られたもの、つまりフィクションなのだ。みんながよく知るフィクションであり、人々を分類するのに使われるべきものではない。皮膚の色によって人を分類したりレッテルを貼ったりする試みは攻撃的で人種差別になる。
西洋人に対して日本で最もよく使われるレッテル――具体的には、外人、白人、黒人、そしてその人物が見るからに非日本人的であれば、ハーフなど――は、政治的な表明であり、社会的な概念である。こうしたレッテルは大多数の人が、正しい分類であると仮定し、認めた場合に限ってのみ有効である。
「ブランディング」に拘束されてしまうワケ
揺るがない真実を考えれば、私たちは誰もがすべて人間である、それだけだ。それだけが絶対的に正しい唯一のレッテルであり、これこそがきちんと「事実」となるまで教えられるべきことだ。しかし、残念なことに日本では米国と同じように、レッテルが変わることはなく、人々はこのレッテルに拘束される。
私の場合も、個人的によく知る間柄でないかぎり、このレッテルは私の先を歩く。ほぼコントロールできない人種に基づいたブランディングになすがままにされるしかない。人目を引く少数派として私は、きちんとしたスーツを着てネクタイを締め、眼鏡をかけ、にっこりと笑顔を作ることはできるが、それでもまだ日本人に与える私の印象は、このブランディングから離れることはない。
なぜ、こうしたブランディングは問題なのだろうか。
たとえば、オーストラリア先住民、タンザニア人、アフリカ系アメリカ人、フィジー人、コンゴ人、ジャマイカ人を同じ分類に含め、「黒人」とラベルを貼ったこぎれいな小さな箱に入れるのが、なにが悪いというのだろう?
それは、日本人、沖縄人、中国人、韓国人、フィリピン人、台湾人、中国系アメリカ人、日系アメリカ人、ブラジル系日本人、ベトナム人を、「黄色人」または「アジア人」とラベルを貼ったこぎれいな小さな箱に突っ込むのが悪い理由と同じことだ。考えればわかることだが、これらの人々には何も共通点がない可能性が大きい。言語、文化、政治、歴史、宗教などほとんどが異なっている。
すべての多様性を、1つのラベルを貼った小さな箱にまとめてしまうことは、物事をシンプルにするかもしれないが、思考過程を単純化してしまうという副作用もある。複雑な問題に対して適切な言葉を使わなければ、単純思考だけが集まる場ができてしまう。
しかし世界はつねに複雑であり、人類は今も昔もケースバイケースで物事に対処した歴史がある。それをなかったことにようとしたり、多様性を最小限化しようとすることは結果的に人種差別につながるのだ。
日本人であろうとなかろうと、この事実を受け入れられたら、日本での平安な暮らしに成功するはずだ。受け入れられない人は、未来への恐れから前進への障害を作ったり、単純な思考で誰かにラベル付けを繰り返してしまうのだろう。かのアインシュタインも、「問題が起きた時と違う発想をしない限り、問題は解決できない」と言っているのに。
日本にはまだやるべきことがある
日本に住む外国人の多くは、いくつかの理由から日本の将来に対して期待を抱いている。日本国憲法の精神、そして、オリンピック憲章にのっとって、日本では人権意識が高まっていると同時に、人種や民族性などに基づいた差別是正に力を入れているからだ。が、さらにできることはある。
たとえば、日本は2016年に「ヘイトスピーチ対策法」を施行したが、この法律ではヘイトスピーチを禁止してないし、罰することもしない。禁止も罰することもない法律に何の意味があるのだろうか。
人種問題についても同じだ。2016年、法務省が行った人種差別に関する調査によると、調査対象となった外国人で過去5年以内に家を探したことがある人の39.9%が「外国人であることを理由に入居を断られた」と回答しているほか、過去5年以内に仕事を探したり、働いたことがある人の25.0%が、「外国人であることを理由に就職を断られた」という。また、29.8%が過去5年間に外国人であることを理由に侮辱されるなどの差別的なことを言われている。人種あるいは外国人に対する差別を是正する法律が、効力のある形で施行されないかぎり、状況が改善するとは当然思えない。
ほかの多くの社会同様、日本の将来は子どもたちにかかっている。人権意識を育むには、テレビ番組やパソコン、あるいはスマホアプリなどの教育的なリソースが必要だろう。さらに、外国人に対する恐怖心をなくすようにする政府主導の啓蒙活動や、恐怖心や差別意識をあらわにする人に対する批判を強めるキャンペーンが必要だ。
究極的には、政府や官庁、そして日本人と日本に住む外国人が一体となって外国人恐怖症や人種差別に取り組まないかぎり、改善の余地は見込めない。そして、差別をなくすには、「恐怖心」という差別の根源をなくすような取り組みが必要不可欠だ。
真の国際化に近道はない。多様性の実現に”新幹線”も”特急”もない。ひと駅ずつ到着し、ケースバイケースに対応しながらたどり着くべき目的地だからだ。目的達成と同じくらい、その過程が大切なのだ。横着して飛ばしてしまおうものなら、何か大切なものを得られないことになる。はびこる無知に対処するための、大切な何かを。無知こそが恐れを生み、恐れは必ず差別につながる。差別によって社会の発展も阻まれるだろう。外国人に対する恐れは、すなわち未来に対する恐れなのである。
https://toyokeizai.net/articles/-/225393
東洋経済2018年06月17日バイエ・マクニール : 作家
最近、私が日本での人種問題について書いた記事について、日本人の友人と話していたときのこと。彼女はきっぱりと、「悪いけど、あなたは間違っている。日本に人種差別はないわ」と私に言った。
私にそのようなことを言った日本人は彼女が最初ではない。実質的には日本のスローガンのようなもので「日本へようこそ! 人種差別がないこの国なら、きっと楽しい滞在になりますよ!」という確信が心に埋め込まれているのだろう。これに反する意見にはいつだって失望させられてしまう。それもわからなくはない、現代の国際風潮では、人種差別がないというのは国の自慢であり、またそうであるべきだからだ。
日本には人種差別がないという「確信」の理由
しかしこの確信は、ある視点から見た場合だけ本当だといえる。その視点を成立させる考えは2つあり、まず1つ目は、人種差別が日本では事実上ありえないのは、大多数が日本人として識別されるから、とする考え(人種差別は米国のような多人種、多文化国家でしか起こらない)だ。
もう1つは、本の文化や歴史――中には日本人の「天性」を持ち出す人もいる――が寛容な国民性を育んできたため、日本人は非日本人とは違い、人種を理由に嫌ったり、ひどい仕打ちをしたりするようなことはない(テレビのニュースなどで見る、激しい人種差別がはびこるアメリカのようなことは起こらない)という考えである。確かに、この2つの視点だけで見れば、日本には人種差別は存在しないことになるだろう。
が、どの集団においても多数派によって何かの主張が示されるとき、意見が合わない声――特に表面上は同調しようとしている少数派の声――は、多数派の声に合わせるか、不協和音を起こすかのどちらかになるのだが、日本における少数派は、かなり違った声で歌っているようだ。
まず1つ目に、人種差別には全世界共通の定義がないことがある。これは日本に限ったことではない。2つ目は、人種差別はつくりあげられたもの、だということ。当たり前の話だが、繰り返し伝えるべきことだ。それも声を大にして!
では1つずつ、詳しく見てみよう。まず、人種差別には定義がないということについて。
ある行為や態度が差別主義的とみなされるかどうかは、その社会の感覚や文化によるが、日本における人種差別は、人によって異なる定義があるのではないか、という疑念を私は持っている。2つ目は「人種差別はつくりあげられたもの」だということ。当たり前の話だが、繰り返し伝えるべきことだ。
私の経験からいえば、日本だけでなく米国でも多くの人々が、人種問題は主に特定集団への憎悪から生じると思っている。さらにその憎悪は暴力でしか伝えられないと考えることがセットになる。そのため、日本人に外国人を憎んでいるかと尋ねれば、ほとんどの人が「そんなわけがない! ばかなことを言うものじゃない」と言うだろう。
憎悪ゼロ+暴力ゼロ=だからこの国には差別ゼロ、と考えるというわけだ。
日本人は「外国人」を恐れてはいないか
しかし、種差別は嫌悪や暴力だけの問題ではない。実は少し恐れいている、もしくは単なる理解不足ということもある。もし、前述と同じ日本人に「外国人が恐いか」と尋ねれば、純粋な気持ちで認めることもあるだろう。
「外見の違う人々を恐れるのは、自然なこと」「外国人と接したことがないし、彼らは怖いかもしれない」「外国人は英語で話すが、自分は話せないのでコミュニケーションの問題がある。もし話せば恥ずかしい状況に陥る」「外国人は、異質の価値観やモラルを持つ知らない土地から来た人たちである」「外国人は犯罪行為をし、病気を持っているし、銃を好む」――。これらは日本在住の外国人たちが何度も聞いたことがある、外国人を恐れる気持ちの言い訳の一部だ。
そして外国人への恐怖心を理由づけるように使われる表現は「シャイだから」ということ。確かに、シャイは悪い言葉には聞こえないが、「シャイであること」に人種的な要素が加われば、それは差別とほとんど変わらない態度になってしまうのだ。シャイであることが身体的な危害を加えることはないにしても、結果としてこの国の非日本人の心を傷つけている。一例を挙げれば、避ける、疎外する、犯罪者扱いをする、無視する、よそ者扱いをする、などだ。
たとえば、日本ではいまだに「外国人お断り」という店が少なからずある。「英語が話せるスタッフがいない」「ほかの客への配慮」など理由はいろいろあるだろうが、こうした店のオーナーは必ずしも外国人を憎悪しているわけではなく、単に外国人という存在をよく知らない、怖いと感じるだけのことが多い。
もちろん断られる側にとっては納得がいかない。「よそ者」として見られたことに怒りを示せば自分の責任だろうと言われる一方で、「よそ者」ととらえる人たちの恐怖心は自然なものとして許されるのか。「外国人お断り」という張り紙が、憎悪や暴力ではなく単なる恐怖の表れだと言い訳にできるのだろうか。
ここ何カ月にもわたり、外国人に対する恐れ――特に日本にいる黒人に対する恐れ――をヘイトスピーチに近いレベルで配信している日本人の人気ユーチューバーが何人かいる。彼らに対する外国人コミュニティの反応は、糾弾するものから逆に支持するものまで、いずれも激しい。動画の1つを不適切かつ攻撃的であるとして、ユーチューブ側が部分的に遮断するほどの激しさである。
ここで2つ目に挙げた、人種差別はつくりあげられたものだという点に話を進めよう。
人種は単に作られたもの、つまりフィクションなのだ。みんながよく知るフィクションであり、人々を分類するのに使われるべきものではない。皮膚の色によって人を分類したりレッテルを貼ったりする試みは攻撃的で人種差別になる。
西洋人に対して日本で最もよく使われるレッテル――具体的には、外人、白人、黒人、そしてその人物が見るからに非日本人的であれば、ハーフなど――は、政治的な表明であり、社会的な概念である。こうしたレッテルは大多数の人が、正しい分類であると仮定し、認めた場合に限ってのみ有効である。
「ブランディング」に拘束されてしまうワケ
揺るがない真実を考えれば、私たちは誰もがすべて人間である、それだけだ。それだけが絶対的に正しい唯一のレッテルであり、これこそがきちんと「事実」となるまで教えられるべきことだ。しかし、残念なことに日本では米国と同じように、レッテルが変わることはなく、人々はこのレッテルに拘束される。
私の場合も、個人的によく知る間柄でないかぎり、このレッテルは私の先を歩く。ほぼコントロールできない人種に基づいたブランディングになすがままにされるしかない。人目を引く少数派として私は、きちんとしたスーツを着てネクタイを締め、眼鏡をかけ、にっこりと笑顔を作ることはできるが、それでもまだ日本人に与える私の印象は、このブランディングから離れることはない。
なぜ、こうしたブランディングは問題なのだろうか。
たとえば、オーストラリア先住民、タンザニア人、アフリカ系アメリカ人、フィジー人、コンゴ人、ジャマイカ人を同じ分類に含め、「黒人」とラベルを貼ったこぎれいな小さな箱に入れるのが、なにが悪いというのだろう?
それは、日本人、沖縄人、中国人、韓国人、フィリピン人、台湾人、中国系アメリカ人、日系アメリカ人、ブラジル系日本人、ベトナム人を、「黄色人」または「アジア人」とラベルを貼ったこぎれいな小さな箱に突っ込むのが悪い理由と同じことだ。考えればわかることだが、これらの人々には何も共通点がない可能性が大きい。言語、文化、政治、歴史、宗教などほとんどが異なっている。
すべての多様性を、1つのラベルを貼った小さな箱にまとめてしまうことは、物事をシンプルにするかもしれないが、思考過程を単純化してしまうという副作用もある。複雑な問題に対して適切な言葉を使わなければ、単純思考だけが集まる場ができてしまう。
しかし世界はつねに複雑であり、人類は今も昔もケースバイケースで物事に対処した歴史がある。それをなかったことにようとしたり、多様性を最小限化しようとすることは結果的に人種差別につながるのだ。
日本人であろうとなかろうと、この事実を受け入れられたら、日本での平安な暮らしに成功するはずだ。受け入れられない人は、未来への恐れから前進への障害を作ったり、単純な思考で誰かにラベル付けを繰り返してしまうのだろう。かのアインシュタインも、「問題が起きた時と違う発想をしない限り、問題は解決できない」と言っているのに。
日本にはまだやるべきことがある
日本に住む外国人の多くは、いくつかの理由から日本の将来に対して期待を抱いている。日本国憲法の精神、そして、オリンピック憲章にのっとって、日本では人権意識が高まっていると同時に、人種や民族性などに基づいた差別是正に力を入れているからだ。が、さらにできることはある。
たとえば、日本は2016年に「ヘイトスピーチ対策法」を施行したが、この法律ではヘイトスピーチを禁止してないし、罰することもしない。禁止も罰することもない法律に何の意味があるのだろうか。
人種問題についても同じだ。2016年、法務省が行った人種差別に関する調査によると、調査対象となった外国人で過去5年以内に家を探したことがある人の39.9%が「外国人であることを理由に入居を断られた」と回答しているほか、過去5年以内に仕事を探したり、働いたことがある人の25.0%が、「外国人であることを理由に就職を断られた」という。また、29.8%が過去5年間に外国人であることを理由に侮辱されるなどの差別的なことを言われている。人種あるいは外国人に対する差別を是正する法律が、効力のある形で施行されないかぎり、状況が改善するとは当然思えない。
ほかの多くの社会同様、日本の将来は子どもたちにかかっている。人権意識を育むには、テレビ番組やパソコン、あるいはスマホアプリなどの教育的なリソースが必要だろう。さらに、外国人に対する恐怖心をなくすようにする政府主導の啓蒙活動や、恐怖心や差別意識をあらわにする人に対する批判を強めるキャンペーンが必要だ。
究極的には、政府や官庁、そして日本人と日本に住む外国人が一体となって外国人恐怖症や人種差別に取り組まないかぎり、改善の余地は見込めない。そして、差別をなくすには、「恐怖心」という差別の根源をなくすような取り組みが必要不可欠だ。
真の国際化に近道はない。多様性の実現に”新幹線”も”特急”もない。ひと駅ずつ到着し、ケースバイケースに対応しながらたどり着くべき目的地だからだ。目的達成と同じくらい、その過程が大切なのだ。横着して飛ばしてしまおうものなら、何か大切なものを得られないことになる。はびこる無知に対処するための、大切な何かを。無知こそが恐れを生み、恐れは必ず差別につながる。差別によって社会の発展も阻まれるだろう。外国人に対する恐れは、すなわち未来に対する恐れなのである。
https://toyokeizai.net/articles/-/225393