サンパウロ新聞2018年6月25日

入植100周年記念祭ロゴ(提供写真)
「日本移民の故郷」であるサンパウロ(聖)州プロミッソンは、1918年にイタコロミー移住地(現・上塚第1植民地)への入植が始まってから、今年で100周年を迎える。7月22日には、「プロミッソン入植100周年記念祭(前田ファビオ実行委員長)」が予定されており、眞子さまの式典ご出席予定に合わせた準備が着々と進められている。同地の開拓当初から今日までの歴史を振り返る。
◆プロミッソン創世記
『ノロエステ記念史』によると、プロミッソンは、聖市から493kmに位置する標高420mの土地となる。
1908年、鉄道ノロエステ線が、当時ファゼンダ・パットスと呼ばれていた土地まで開通し、列車の着地がエイトール・レグルー駅と名付けられた。同地は、鉄道開通により居住者が増加し、17年には日本人移民やイタリア人移民らが入植。19年にエイトール・レグルー治安区、21年9月にプロミッソンへと改称され、23年11月に、プロミッソン郡となった。
16年、プロミッソンの原生林に日本人移民として初めて足を踏み入れたのは、福岡県出身の後藤七郎氏で、17年には熊本県出身者、鹿児島県出身者らが続けて入植した。
18年3月、「ブラジル移民の父」と称される皇国植民会社の上塚周平氏らが同駅周辺の、1400アルケールの原生林を10アルケールごとに売り出したことを契機に、同地がイタコロミー移住地と命名された。イタコロミーは、先住民グアラニー族の土地を意味し、同族の墓跡などが開拓時に見つかったそうだ。命名された名前とは別に、入植者たちの間では、「上塚植民地」と呼ばれ、今日のプロミッソンの原形となった。
(※)上塚氏は、東京大学法学部を卒業後、移植民事業を志して皇国植民会社(水野龍社長(当時))に入社。08年に笠戸丸に乗船して渡伯し、同社現地代理人に。労働者として農業に従事する日本人移民の待遇を見かねて、自営の植民地構想を抱いた。同地では「事務所」と呼ばれた家で質素に暮らし、「日本移民の故郷」プロミッソン開拓に努め、「移民の父」と称えられている。
◆発展の兆し、戦後の対立
23年に行われた調査では、同地の土地所有者は247家族で、同地周辺には406家族が居住していたという。農園で育てられていたコーヒー樹は約300万株で、ブラジル全土の日本人移民が所有している樹の3分の1を占めたそうだ。現在はコーヒー農園が無くなり、さとうきび栽培、牧場経営が主産業になっている。
28年、最初の周年事業となった「植民地開拓10周年」では「開拓十周年記念塔」が上塚周平公園内に建立され、記念祭典も開催された。当時、同地の居住者は約1000家族を数え、記念祭典も大いに盛り上がったと記録されている。
25年には、汎プロミッソン中央日本人会が創立され、初代役員として顧問に上塚氏、間崎三三一(まざき・ささいち)氏、会長に佐々木光太郎氏らが名を連ねた。
33年の調査では、プロミッソン近郊までを含めた居住者は1362家族、6757人まで増加しており、52年3月に、プロミッソン連合日本人会が組織され、会員131人を有していた。
68年、入植50周年を迎えた同地では、現在まで同地を二分する出来事が起こった。上塚氏の友人である菊池恵次郎氏から、上塚氏の「事務所(旧家)」の土地管理を任され、「上塚氏の右腕」と言われた間崎氏が土地をブラジル人に売却。さらに、間崎氏が上塚公園内の「開拓十周年記念塔」を、プロミッソンの街中に移設する話を持ち出したことで、同地は二分した。そこには、戦後の勝ち負け抗争で思想が分かれた影響もあったとされる。記念塔に関しては、プロミッソンの町中に記念の時計台を建立し、移設は行われていない。
現在までプロミッソン日伯文化体育協会(岡地建宣会長)とプロミッソン日系文化運動連盟(吉田マサヒロ会長)の2団体に分かれたままとなっており、2008年のブラジル日本移民100周年時には、統一を目指して同周年委員会を立ち上げたものの、世代間の軋轢(あつれき)や運営面で意見が一致しなかったことで、実現しなかった。
しかし、入植100周年で、再び統一に向けた実行委員会を立上げ、協力体制を布(し)いている。
100周年機に2団体統一へ
現在までプロミッソン日伯文化体育協会(岡地建宣会長)とプロミッソン日系文化運動連盟(吉田マサヒロ会長)の2団体に分かれたままとなっている同地は昨年7月、入植100周年記念祭の実行委員会を、両協会から7人、同公園を管理するプロミッソン市から7人を選出した計21人のメンバーで組織し、再び統一に向けた意思統一を図った。
半世紀ぶりの統一に向けた同地の歴史の中で、双方を常に見つめてきたのが安永忠邦さん(97、2世)を代表とする安永家の人たちだ。
◆同地に根付く安永家の歴史
1914年5月10日「帝国丸」で渡伯し、熊本県玉名郡南関(なんかん)町出身の耕夫(こうふ)氏・セキ夫妻、耕夫氏の弟・良耕(りょうこう)氏の3人がサンパウロ(聖)州北部モジアナ線のビラ・コスチーナ耕地に入植したことで、安永家の伯国史が始まる。同耕地で契約農として働いた後、18年8月にノロエステ線エイトール・レグルー駅(現・プロミッソン中心部)から約8kmに位置するイタコロミー移住地に4世代が同居していた。
2014年には、「安永家渡伯100周年記念祭」が同年4月20日に同地の安永家(自宅)で開催され、ブラジル全土や日本から総勢約400人が集まり、上塚氏の墓前で読経が行われた後、安永家の墓前でも各世代代表者が祖先に献花した。
同日、集まった一行が訪問した安永家敷地内にある旧安永邸は、1945年に建てられ、93年まで4世代約45人が住んでいた。将来的には、安永家の史料館として保存する構想もあるそうだ。
上塚氏の法要は、同氏が1935年に亡くなってから毎年執り行われている。上塚氏が亡くなる直前に、「しっかり頼んだぞ」と声を掛けられたという忠邦さんが現在まで「墓守」を務めあげてきた。
◆7月22日、上塚周平公園で記念式典
総額約30万レアルの予算で、4000~5000人規模を想定した「プロミッソン入植100周年記念祭(前田ファビオ実行委員長)」の準備が進められている。ノロエステ連合日伯文化協会の安永信一会長(70、3世)、和教さん(71、3世)は「予算通り順調に進んでいる」と自信をのぞかせる。
午前10時から午後10時まで行われる同祭では、ノロエステの芸能を筆頭に、鳥取の傘踊り、沖縄の琉球国祭り太鼓、グループ民による民謡・三味線演奏、中平マリコさん、平田ジョーさんの歌謡ショーなどが予定され、ユバ農場から訪れる一行も舞台に上がるという。同祭の最後は、16年のリンス入植100周年時と同様に「ノロエステ盆踊り」で締め括られる。
プロミッソン入植100周年記念祭の意義として、信一会長は「100周年を迎え、4世の時代に入っている。家族で伝えてきたものもあるが、1世、2世の苦労が分からない人も多い」と次世代への継承に重きを置く。
和教さんは「4世、5世に伝えていかなければ失われてしまう。だから実行委員会も3世、4世をメインに据えた」と背景を語る。
◆記念事業「入植百周年記念塔」
同地の入植100周年記念事業として建立される日伯両国旗をモチーフにしたモニュメント「入植百周年記念塔」は、同地出身の建築家、ノズ・セルジオさん(67、3世)が設計を担当している。既に土台を含めた大部分が完成している。高さ約4メートルになるモニュメントの上部には鐘が設置され、西に日本、東にブラジルをイメージした2塔から成り、互いに手を取り合う姿に仕立てられ、同公園内に建立される。
同祭式典プログラムの中で「眞子さまにモニュメントの除幕を行ってもらいたい」と、訪問を記念したプレートも用意されている。
眞子さま訪問が実現すれば、移民50周年で聖州奥地を訪問した三笠宮殿下以来、60年ぶりの皇室訪問となる。
◆全伯に散る「元在住者の式典参加を」
実行委員会に設置された「登録調査委員会」では、プロミッソンから全伯にいる元在住者、その子弟を式典に招待したい意向。信一会長は「プロミッソン元在住者や縁のある人に集まってほしい」と呼び掛けている。
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