カリフォルニアの元祖、禅仏教の実践の場、 「タサハラ禅マウンテンセンター」の禅マインドに潜入!
グリーンズ 2019.07.12
冬の寒さがまだ残る4月6日、カリフォルニア州ロスパドロス国有林のヴェンタナ・ウィルダネス郊外ジェイムスバーグから4WDを走らせ、約1時間半。冬と春の雨で洗い流され、ぬかるんだデコボコ道には柵など無く、うっかりハンドルを誤れば崖から真っ逆さまです。
さて、ビッグ・サーの海岸から内陸へと向かったこの山の谷間に、「タサハラ・禅マウンテン・センター」こと、「禅心寺」があります。
観てください、タサハラ作成のこちらのビデオを。事故にあってもケータイは圏外。BGMのシュールな尺八の音色がぴったりな、降参状態となります。
スティーブ・ジョブズも修業した、タサハラとは?
なんと洗濯は、川の水で手洗い。半分アウトドアな状況です。水切りも手動で、こちら”wringler”こと洗濯の絞り機にて。予想外にも私が病みつきになったお気に入りのプロセスです。川の音を聞きながら洗濯していると、桃太郎のおばあさんになった気分に。
タサハラは、北カリフォルニアに3箇所あるサンフランシスコ禅センターを構成するコミュニティのひとつ。
「仏の智慧と思いやりを体現し、表現し、身近にする」という理念の下、西海岸でもっとも古い、曹洞宗の僧院、禅道場です。米アップル社創業者で元会長のSteve Jobs(スティーブ・ジョブズ氏)もここで坐禅や経行(キンヒン/歩く瞑想)の指導を受けました。
あとの2つのコミュニティとは、サンフランシスコ市内にあるシティ・センター、サンフランシスコから北へ1時間半ほど車で行った地区マリーン・カウンティにあるグリーン・ガルチ・ファーム・禅センターです。
ちなみにタサハラの様子は以下「Conscious Living」による『Tassajara Zen Mountain Retreat』というビデオでも確認できます。
初心の重要性を説き、ヒッピーも魅了した鈴木俊隆老師
さてタサハラを含む、サンフランシスコ禅センターを設立したのは鈴木俊隆老師。彼は1959年に、サンフランシスコ ブッシュ通りにある桑港寺の住職として(1969年辞任)、日本からサンフランシスコへと渡米しました。
60年代といえば、当時アメリカの人々の多くが、ヒッピーやサマー・オブ・ラブに象徴されるような、新しい生き方や価値観を求めていた時期。
そんな時流も追い風となり、特に東洋哲学の思想家、アラン・ワッツが当時ディレクターを務めていた大学院、ザ・アメリカン・アカデミー・オブ・アジアン・スタディーズ(現CIISことカリフォルニア総合学研究所)などで、ビート詩人たちの間で鈴木老師のことが評判になりました。
その結果、日系人や在米日本人だけではなく、多くのアメリカ人たちもまた、彼の坐禅や法話に参加し始め、60年初頭にはグループができて、禅センターへと発展していったのです。
そして鈴木老師は、山の中で禅の生徒たちが瞑想、学習、そして日常生活を含む伝統的な修業が行える場を求め、カリフォルニアのいくつかの地を見ました。そして、老師とその生徒でのちの後継者となるリチャード・ベイカー老師がこのタサハラの地を見つけたのです。
鈴木老師の遺影が飾られる部屋は、純日本家屋。その他は、石造りの家、ログハウスやユルトなど、西洋と東洋とがミックスされた世界観が興味深い。
もともとは有名な温泉リゾート地
1967年1月の始め、何百もの協力者の助けを得て、禅センターはモントレー・カウンティにある、巨大かつ大変有名だったリゾート、タサハラ・スプリングスの建物と土地の所有者であるベック元夫妻に最初の支払いを行いました。
その購入価格は、相場を大幅に下回る30万ドル。そしてタサハラ・禅マウンテン・センターの開始式は、1967年の7月3日に執り行われ、150人以上の人が参加しました。
タサハラってどういう意味?
ちなみにタサハラという名前は、スペイン語の”tasajera”が崩れた言葉で、肉を乾かす場所という意味です。ジャーキーをつくっていた土地にベジタリアン食の僧院が開かれるなど、当時の人々には想像もできなかったことでしょう。実際に1970年までは夏のゲスト向けの食事に肉と魚が出されていたそうです。
その後何年か経ち、満足できるベジタリアン食が生み出されるようになって、現在では卵や乳製品を含む、栄養満点のリッチなベジタリアン料理が提供されています。
タサハラ名物、お坊さんが焼くパン!
特にその名物はタサハラ・ブレッドと呼ばれる、お坊さんが焼くパン。1967年に皿洗いの職を得て、若い禅の生徒となったエドワード・ブラウンによって書かれたレシピ本『ザ・タサハラ・ブレッド・ブック』は1970年に、仏教関係の書籍で名高いシャンバラ・プレスから出版され、初版はまたたく間に売り切れに。
鈴木老師が亡くなった2年後の1973年には続く『タサハラ・クッキング』も出版され、料理のプロにも人気を博しています(こちらにはグラノーラのレシピが!)。
私が訪ねた際は、こちらで暮らして5年になるというお坊さんが黙々と毎日ひとつひとつ丁寧にパンを焼いていました。仕事の休憩時に、ふわっふわの焼きたてパンがスナックエリアに置かれていると、みんなで歓声をあげたものです。
4月〜9月は、ゲストに開門。
ちなみにタサハラでは、秋と冬の各3か月間は、僧侶たちが外出を避けて修行に専念する安居が行われるため、一般には閉鎖されます。
けれども毎年4月後半から9月頭の間は、禅とは関係の無いゲストに対しても開放されます。事前の予約が必要ですが、深い山でのハイキングや温泉、美味しいベジタリアン料理に舌鼓をうったり、禅の生徒たちと働き坐禅したりと、夏のゲストたちに親しまれています。
4月と9月にボランティア期間が
私がこのタサハラの地を訪ねたのは、そのどちらでも無い4月6日〜25日の4週間。この期間はワーク・ピリオド(働く期間)と呼ばれ、料理づくり、裁縫、建物や道路の修繕や建築作業などに従事しながら、僧侶たちと一緒にゲストに向けてタサハラを開放するための準備を行う奉仕期間です。9月にも同様のワーク・ピリオドがあります。
申し込みの方法は、春の安居が終了し、ワーク・ピリオド開始の約3週間前にタサハラのインターネットサイトにボランティア出願用のページがあげられます。そこに、禅や瞑想の実践具合や、ボランティアが必要とされる各部門の経験度などに関する必要事項を記入します。
選ばれると、1日7〜8時間の労働と引き換えに滞在場所と食事、瞑想や法話による学びが提供されます。ちなみに私はトイレと洗面所付きの部屋をひとりのルームメイトとシェアする形でした。といった経緯で3週間、タサハラで働き、一緒に禅実践をし、コミュニティを肌で感じながら、暮らすことになりました。
私の仕事は、たまたまその数ヶ月前まで、ニュー・メキシコ州にあるウパヤ禅センターというところで4か月間暮らしながら、典座(料理長)とともにキッチンで働いていたので、台所業務に従事するのが大半でした。
パウンドとカップの計算を誤り、バターまみれでドロドロのアップル・スクランブルをつくってしまうというような失敗をしながらも、その他草むしり、僧侶の寮を含む全館のトイレ掃除、ゴミの分別、皿洗い、風呂掃除などやれることを行わせていただきました。
ヘッドライトを頼りに、暗闇をダッシュ
特に印象的だった仕事は、”Wake Up Bell”といって起床のための鐘を、各部屋を訪ねながら鳴らすという業務です。1時間程度事前に訓練が必要だったので希望者のみが行う仕事でしたが、「早起きをして皆を起こす」という域を超えて、さすが禅センター。身が引き締まるような、スピリチュアルで儀式的な時間を過ごすことができました。
具体的には、まずヘッドライトを頼りに、誰も居ない真っ暗闇の禅堂に入室し、仏像の横の蝋燭に最初の火をともします(肝試しのようで、だいぶ怖いです)。そして禅堂の中の指定された8か所に定められた方法で鐘を鳴らした後、3回床に額をつけて拝を行います。
禅堂を出たら、暗闇をダッシュしながら鐘を鳴らし続けますが、すれ違う人々は、私を通じた「目覚めの儀式」に対して立ち止まって合掌しながら、ふかぶかと最敬礼。全員の宿泊場所を通過した後は、キッチンを目覚めさせ、最後に再び禅堂に戻って鐘を返し、額を床につけて三拝します。
ユダヤ系アメリカ人、多し
ボランティアに参加していた人は様々でした。具体的には20代〜70代の男女で、これはウパヤ禅センターでも感じたことですが、比較的ユダヤ系アメリカ人の方が多い印象がしました。一方で禅仏教の施設とはいっても、アジア系の人は私を含めて1割程度でした。
中でも特に仲良くなったのは、第二次世界大戦後にポーランドからアメリカに移民してきたというユダヤ系アメリカ人夫婦です。イタリアでビザの発行を待つ間、互いに14歳と16歳という年齢で出会い、その後50年以上ともに時を過ごしながら、入籍したのはこの1年半前だといいます。
幼少期に定住の地を失い続けた結果、「子どもを持たない人生を送りたい」という強い希望を持つ妻側の意志を尊重し、二人三脚で旅をしながら生きてきたといいます。歴史に翻弄され続けながらも、ニューヨーク出身のユダヤ人ならでは、ちょっと危険で鋭いユーモアを飛ばす二人とは不思議にウマが合い、タサハラで生まれた大切な友情のひとつとなりました。
道元のように前向きなルームメイト
禅の生徒たちとは異なり、ボランティア参加者の瞑想の参加は必須ではなかったため、朝の瞑想の間に部屋で日記を書いて過ごすときも。特に朝一番6時30分頃にセットされるでき立てのコーヒーを飲みながら日記を書く時間は至福のひとときでした。
その間ルームメイトのアマンダは、禅堂で坐禅しない場合は小川に向かって瞑想します。つい最近まで全く知らない仲だった二人が、小さな部屋の中でお互いの優しい気配を感じながらも、一人きりのような気楽さも持って過ごせるなんて。
熱心な禅の生徒でありながら、朗らかで人生を前向きに捉える彼女の姿勢は、私にとって13世紀の日本の禅僧、道元を彷彿とさせ、大変刺激を受けました。彼女はイビキもかかないし(笑)、本当に素晴らしいルームメイトでした。
タトゥーは、アメリカの僧院で珍しくない。
ちなみにアマンダの両腕には、びっしりとタトゥー(入れ墨)が。そこには、彼女の禅におけるスピリチュアル・ジャーニーの歴史が刻まれています。
例えば右腕には念ことマインドフルネス、左腕の龍は、グリーン・ガルチ・ファーム禅センター、つまり蒼龍寺での修業体験で得た感銘を忘れないようにと蒼い龍が刻んであります。
キッチンでズッキーニが入った重い段ボール箱を運べばいつも、さりげなく代わりに持ってくれる優しいクリスの両腕にもびっしりとタトゥーが入っていたし、受戒を受けたばかりのお坊さんの坊主頭の後頭部には密教画風の目と鼻の入れ墨が施されていて、後ろから見ても顔が! というように、僧院とタトゥーという日本人にとっては意外な取り合わせは、アメリカでは特に珍しいものではありません。
先住民の儀式に使われた温泉。
さて話を元に戻します。パン以外のタサハラ名物といえば温泉です。そういえば、日本を旅行してみたいというアマンダに「日本じゃ、タトゥーがあったら大抵の温泉は入れないよ」と言うと、ショックを受けていました。
仏に合掌と礼を行い、入浴場へ。向かって右が女性、左が男性用入り口に。水着着用も可能だが、全員裸で入浴していた。女性用は、室内風呂、シャワー、個室風呂がひとつ、サウナ、露天風呂があり、オーガニックのシャンプー、リンス、ボディソープが常備。
ちなみにタサハラの温泉を初めて親しんだのは、北米アメリカ先住民です。同じビッグ・サーにある、こちらは男女混浴の温泉が名物のスピリチュアル・センター、エサレン研究所の名前の由来でもある、エサレン族と呼ばれる先住民がこの地を住処としていました。
アメリカ先住民たちは、タサハラの温泉を様々な用途に利用してきました。例えば狩りの準備、そしてスピリチュアルな力を再生するための場所として、また肉体の深い浄化と害虫を体から取り除くためのスウェット・ロッジを利用した男性の儀式の一部として、などです。
タサハラの温泉は直接小川に出られるようになっていて、サウナや温泉の暑さに耐えられなくなったら、清流にドボンと飛び込めます。川の流れに飲まれ、あわや真っ裸でダイニングルームの目の前の下流まで流されてしまったことがあると笑いながら告白してくれた脚本家の女性もいました。
ハイキングでは毒草に注意!
ワーク・ピリオドでは、4日働くと1日お休みがもらえたので、休日にはタサハラのハイキングコースを歩きながら深い緑に心身を浸しました。
山のてっぺんで2時間も爆睡してしまった、話すと、ライム病の原因となるマダニや、ポイズン・オークと言う毒草で、触れるとひどい水ぶくれの発疹ができるウルシ科の植物があるらしく、「気をつけないと!」と厳重注意されました。
ちなみにタサハラから上流に5マイル(約8キロ)ほど向かった小川、チャーチクリークには、無数の洞窟がありますが、ここでは少なくとも3500年の間、人が暮らしていたそうです。
古くアメリカ先住民たちに身を清める神聖な温泉地として親しまれ、現在は西海岸で最も由緒ある禅道場である、タサハラ。
土地そのものも特別なのか、あまり関係の無いことかもしれませんが、山の中や瞑想中に不思議な体験をしたり、正夢のようなものを見たりもしました。
Wi-Fiも携帯電話もつながらない場所で心の深い部分と向き合うことは痛みも伴いましたが、人生において同じ実践を行う仲間ができたことは大きなサポートになり、また自分とは全く違う境遇や考え方の人たちと話せる機会も初心に戻って、まっさらな目で状況を見る練習になりました。そして日本の文化にとても興味を持つアメリカの人たちに囲まれ、感謝の気持ちが自然と溢れたことも、ありがたかったです。
もしアメリカで単なる観光旅行ではなく少し違った体験がしたいなら、タサハラまで足を伸ばしてみてはいかがですか?
(Top Photo: “Tassajara 19” by rooksbane is licensed under CC BY-NC-ND 2.0)
https://greenz.jp/2019/07/12/tassajara/