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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

義経像 220年前の姿に 平取・義経神社で公開

2019-07-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/27 17:29 更新
 【平取】源義経の渡来伝説の残る日高管内平取町の義経神社で、修復作業を終えた義経の木像が一般公開されている。像が安置された220年前に近い姿で、参拝者が見入っている。
 木像は高さ約40センチ。修復前は欠けていた弓矢や太刀を携え、金箔(きんぱく)が施された甲冑(かっちゅう)に身を包んでいる。
 1799年(寛政11年)に江戸幕府の調査隊として択捉島に渡った探検家近藤重蔵(じゅうぞう)が、義経をあがめていた平取のアイヌ民族のために現在の町内に安置したとされ、神像としてまつられてきた。昨夏、142年ぶりに一般公開された後、完成当時の姿を記録した資料を基に、京都市の仏具店で約1年かけて修復が進められていた。
 宮司の◆田美浩(にれた・よしひろ)さん(42)は「御神像はアイヌ民族との友好の象徴で、町にとって貴重。地域住民が守ってきた思いを新たにし、今後もより一層親しんでほしい」と話した。
 一般公開は、9月1日までの午前10時~午後4時。町外の拝観者は千円が必要。今後は5年に1度、公開する予定。(川崎博之)
※◆は木へんに「諭」のつくり部分
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/329432

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ニコライ・ドミートリエフさん(函館ハリストス正教会の長司祭)6月13日死去 59歳 先人の信仰 初の教会史に

2019-07-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/27 17:00
 神戸から函館に赴任したのが2008年。幕末期の函館に着任し、日本正教会を創建したニコライ大主教の来日から150年という大きな節目を3年後に控え、初の函館正教会史刊行に挑んだ。
 創建時は禁教時代。日露戦争中は函館山に軍の要塞(ようさい)があったことから神父らが退去を命じられ、1907年(明治40年)には函館大火で聖堂を焼失した。史料が限られる中、編集作業は難航。それでも「先人たちの辛苦と信仰、忍耐を知れば知るほど、いいかげんなことができなくなった」と自身を叱咤(しった)し、編集・執筆陣を励ましながら完成にこぎ着けた。
 モスクワ生まれで、函館では115年ぶりのロシア人司祭。ロシア極東大函館校の大渡涼子総務課長は「公開講座の講師や『FMいるか』のゲストを引き受けるなど、ニコライさんが来てから市民がロシア文化に触れる機会が増えた。盲学校の生徒たちが来校した折には点字の日本語聖書をわざわざ東京から取り寄せてくれるなど、人柄の温かさを感じた」と悼む。
 教会史編集を通じて新たな使命も見いだした。ロシア帝国に支配され、正教に改宗したのち、日本領に編入されて色丹島に移住させられた北千島アイヌの慰霊。45年のソ連軍侵攻で道内に逃避し、散り散りになった子孫を妻のひとみさん(59)とともに捜し出し、道南や道東の墓前に自ら赴いた。取材などで子孫と接点があった私とは、この過程で情報を交換してきた。
 狭心症で急逝。「先人を記憶することに熱心だった」(ひとみさん)という司祭が函館で刻んだ軌跡は、接した人々に長く記憶されるに違いない。(編集委員 小坂洋右)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/329380

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北大の埋もれた歴史を紹介する 小田博志(おだ・ひろし)さん

2019-07-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 07/27 09:17
 6月下旬に出版された「北海道大学もうひとつのキャンパスマップ」(寿郎社)を書いた北大有志の中心メンバーで、人類学が専門の北大大学院文学研究院教授。「見慣れた風景を1枚めくると埋もれた歴史がある」と話す。
 本には観光名所のポプラ並木やクラーク博士像は出てこない。北大構内にあったアイヌ民族のコタン(集落)や、今も遺骨が眠る納骨堂など隠れた風景を紹介する。植民地主義を正当化する植民学の拠点でもあった負の歴史も取り上げている。
 本の基になった地図を2年前に同僚と作り、北大で開いた日本平和学会で配った。「平和を絵に描いた餅で終わらせないために、キャンパスと植民地主義との関係を認識する必要があった」という。
 香川県出身。大阪大を卒業した春、各駅停車で道内を回った。釧路の古書店で見つけたアイヌ民族の本を手に日高管内平取町二風谷を訪れた。出会った人も風景も「印象が強烈だった」。阪大で修士、ドイツの大学で博士号を取り2001年に北大へ。
 大好きな北海道には「一抹の居心地の悪さ」もある。先住民の土地や権利を奪った上にあるからだ。「歴史を隠したり、見て見ぬふりをするのではなく、直視しないといけない。事実を知り、なぜ歴史の裏面に置かれていたのかを振り返りたい」
 15年には安全保障関連法に反対する北大教員有志の声明を起草した。52歳。(関口裕士)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/329351

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北の果ての小さな村で

2019-07-28 | 先住民族関連
映画.com 07/27
劇場公開日 2019年7月27日
生きる
デンマークで7代続く農家の一人息子がグリーンランドでデンマーク語を教える教師として応募し、人口80人の村に赴任する話。
候補地は首都、人口2000人の町、人口80人の村とある中で、最も小さく現在も狩猟を主な生業としている先住民族の村を選ぶ主人公。
進学するには村の外に出なければならないが、出たことのない年配の村民と当然外の世界を知らない子供達の将来の夢等、文化の違いにぶつかりながら、興味を示し、理解し、打ち解けていく流れで、ストーリーそのものや語られることに物珍しさはないけれど面白かった。
ただ、紀行番組をみている様なつくりで映画のストーリーというより、ドキュメンタリー的な要素に惹かれたところが大きく、ドラマとしての面白さはぼちぼちかな。
https://eiga.com/movie/91210/review/02131108/

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さいはての大地を進むローカル列車の旅 2

2019-07-28 | アイヌ民族関連
ベストタイムス 7/27(土) 18:00配信
 稚内を出てほぼ2時間、特急停車駅でもある天塩中川あたりから車窓右手に天塩川が見えてきた。蛇行する川の流れに沿って列車はゆっくりと進む。佐久駅あたりで大きく左に曲がり、東へと向きを変えたのちも地形に逆らわずに左へ右へと車体をくねらせて走る。筬島駅の手前で天塩川が大きく曲がっているところがある。対岸には「北海道命名之地碑」が立っているが、車窓から確認するのは至難の業である。幕末から明治にかけて蝦夷地を探検した松浦武四郎が、このあたりでアイヌの古老に教えられたカイという言葉にヒントを得て北加伊道という名を思いついたと言われている。それから150年、2019年は北海道にとって節目の年となったのである。
 天塩川に沿ってしばらく進むと、宗谷本線全線のほぼ中間地点に当たる音威子府に到着。列車が遅れていたので、運転士が交代すると、慌ただしく発車した。
 咲来(さっくる)の次は、天塩川温泉駅。といっても温泉の最寄り駅らしい賑わいなど全くなく、短い板張りのホームと小さな待合室があるのみの淋しい駅だ。温泉は駅から何とか歩いて行けるところにあるけれど、音威子府駅からバスで行く方が便利とのこと。1日4往復の列車が停まるだけだし、使い勝手がよい列車ダイヤでもないのでまともな利用者は皆無だろう。温泉の知名度を上げるために駅名としたみたいだ。
 豊清水、恩根内(おんねない)と小ざっぱりした三角屋根の駅舎が続き、紋穂内(もんぽない)では、久しぶりに現われた車掌車の車体利用の駅舎が目に留まったが、朽ち果てる寸前みたいで悲しい。初野(はつの)を過ぎると周囲が開けてきて、農業倉庫の前を通り過ぎると特急停車駅の美深に到着した。周辺にある温泉や湿原などの観光スポットの看板が目立つけれど、その中に「走る森林浴トロッコ王国」というのがあった。かつて美深駅から分岐していて「日本一の赤字線」として名を馳せた美幸線というローカル線の廃線跡を利用した観光施設だ。
 美深からは、山間部を脱して、ひろびろとした田園地帯を走る。といっても人家は疎らだ。日進駅に停まり、名寄川を渡ると名寄に到着。稚内発の列車はここが終点だ。運転士さんの予告通り、いつの間にか遅れを回復していて、定時にホームに滑り込んだ。同じホームの反対側で待っていた旭川行きの快速「なよろ」には余裕で間に合った。稚内からほぼ4時間乗り通した各駅停車の旅は終わったけれど、休む間もなく、次の旅が待っていた。
 快速「なよろ」は、北海道のローカル列車ではお馴染のキハ40系ディーゼルカー。快速だから2両くらいはつないでいるのかなと思ったら単行(1両のみ)だった。名寄まで乗ってきたキハ54とは異なり、普通の4人向かい合わせのボックス席。すでに半分くらい席が埋まっていて、好きな場所を選べる状況ではなかったけれど、2つほど空いていたボックス席のひとつを確保。ラッキーなことに進行方向窓側を選ぶことができた。
 稚内行きの特急列車が発車すると同時に、旭川行き快速「なよろ」は出発。冷房のない車両なので、窓を開けると心地よい風が入って来る。
 発車してすぐに進行方向左に注目すると、少し離れたところに黒々とした編成の列車が停まっている。現役ではなくて保存された車両で、蒸気機関車2両の間にマックレー車、ロータリー車という2種類の除雪車をはさんだ面白い編成だ。車両の頭文字を取ってキマロキ編成という。後部にはおまけで車掌車がつながっている。宗谷本線から分岐していたが、30年以上前に廃止となった名寄本線の線路上に鎮座している。北国博物館の敷地内で、列車は野外展示品なのだ。
 名寄の次の東風連駅を通過したので、一瞬、あれっと思ったのも無理はない。これまで律儀に各駅に停まっていたので、駅が見えると減速して停車するのが当然だったのだが、今乗っているのは快速列車なのだ。風連に停まると、3つの駅を通過。名もない小さな駅の様子を観察できないのはちょっと淋しい。
 楽しげな羊のイラスト入り看板が立っている士別に停車。羊のまちだそうだ。駅からクルマで10分程のところには「羊と雲の丘」があり、珍しい種類の羊を見ることもできる。
 士別と剣淵の間には、線路に沿って林が続いている。これは厳しい吹雪から線路を守るための鉄道防雪林だ。このあたりは過湿泥炭地のため植林には適さず、試行錯誤の末、ドイツトウヒを植栽して成功した。立役者である林業技手深川冬至の名を取って深川林地と呼ばれ、選奨土木遺産となっている。
 特急停車駅でもある和寒を出ると、列車は勾配に挑む。宗谷本線では有数の難所塩狩峠だ。列車はエンジンを唸らせながら力強く上って行く。塩狩駅の近くには慰霊碑が立っている。20世紀初頭に起きた列車暴走事故を、自らの体を張って防いだ鉄道員を称えるもので、この話は三浦綾子が小説「塩狩峠」として発表している。
 塩狩駅を通過し、山越えが終わると比布に停車。「ぴっぷ」とは珍しい駅名だ。40年ほど前に、ピップエレキバンという肩こりや腰痛を和らげる医療器具のCM撮影が行われて一躍有名になった駅だが、今でも覚えている人はどれくらいいるのだろうか? 駅舎は近年建て替えられたやや大きな建物である。
 列車は川を渡る。石狩川と知って驚く。もっと別の地域を流れていると思っていたからだ。下りの普通列車とすれ違う永山を出ると、まわりには貨物駅や車両基地が広がる。札幌と旭川を結ぶ電車特急の姿も見える。この電車を旭川駅まで回送するために、ここからは何と電化区間となっている。しかし、宗谷本線の列車はすべてディーゼルカーなので、架線は宗谷本線にとっては無縁の施設だ。
 最後は、複線電化の高架線を走り、旭川駅に到着。しばらく来ないうちに近代的な高架駅に生まれ変わっていた。稚内から各駅停車と快速列車を乗り継いでの旅は、所要時間5時間30分。気の遠くなるような数字だが、見ごたえのある車窓が連続し、決して飽きることがなく、実時間よりもはるかに短く感じられた。やはり、北海道の列車の旅は魅力的だ。それも普通列車に乗るほうが、特急列車で通り過ぎるよりも何倍も充実した旅となると思った。
文/野田 隆
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190727-00010466-besttimes-life

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