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<凪のお暇>高橋一生、二面性のあるこじらせ男子が「#慎二やべぇ」で話題に!【視聴熱ウィークリーTOP3】

2019-07-23 | アイヌ民族関連
ザテレビジョン 2019年7月22日 18時0分
webサイト「ザテレビジョン」では、7月15日~21日の「視聴熱(※)」ドラマ ウィークリーランキングを発表した。
1位「凪のお暇」(毎週金曜夜10:00-10:54、TBS系)71354pt
「Eleganceイブ」(秋田書店)で連載中のコナリミサトによる同名漫画を、黒木華主演でドラマ化。仕事も恋もすべて捨てた28歳の凪(黒木)が突然失踪し、追いかける元カレと新しく出会う人たちを巻き込んだ人生リセットストーリー。
7月19日に第1話が放送されると、関連ワードが続々とTwitterのトレンドトップ10入り。主人公への共感など反響が続き、視聴熱もデイリーは放送から3日連続トップ、ウィークリーも2位を大きくポイント数で引き離してトップにランクインした。
都内の家電メーカーで働き、日々何事もなく平穏に過ごすために常に場の空気を読み「わかる!」と周りに同調することで自分の平和を保っていた凪。第1話は、同僚から理不尽な仕事をふられ放題だった凪が、同じ会社に勤める彼氏・慎二(高橋一生)の自分に対する暴言を聞いて心が折れてしまう。そして、人生のリセットを決意し、SNSを含めてすべての連絡を断ち、布団だけを持って東京郊外の何もない六畳一間のボロアパートに引っ越すという展開だった。
同僚から付き合っている女性のことを聞かれ、凪とは教えていなかったものの、「アッチがいいから会ってるだけ」「作る飯も貧乏くさいし、ケチくさい女、生理的に無理なんだわ」と言い放っていた慎二。
凪の新居に押しかけ、凪に距離を置かれたのが分かると、「物捨てて引っ越したくらいで、人生をリセットできてたまるかよ」と捨てぜりふを吐くも、その後に1人訪れたバーで「メッチャ好きなんだわ」と号泣する。
視聴者から当初は「ヤバいやつ」と大不評だったが、凪のことを好きすぎてこじらせていたことが分かると「そうきたか…」と驚きの声が高まった。そんな二面性のある慎二を演じ分けた高橋に称賛が集まり、SNSでは「#慎二やべぇ」というハッシュタグができるほどに。
一方、凪の新居の隣人・ゴンを色気たっぷりに演じている中村倫也にも注目が集まっている。
2位「おっさんずラブ」(テレビ朝日系)33732pt
2018年4~6月に放送され、“おっさん”同士のピュアな恋愛模様を描いて大ブームを巻き起こしたドラマ。続編となる映画「劇場版おっさんずラブ~LOVE or DEAD~」の公開を8月23日(金)に控え、主演の田中圭らキャスト陣のインタビューの雑誌掲載などが話題に。
映画では、春田(田中)、黒澤(吉田鋼太郎)、牧(林遣都)に加えて、狸穴(沢村一樹)、ジャスティス(志尊淳)との恋の五角関係が描かれる。
19日には映画の主要キャスト11人がタキシードやドレスを着たキャラクタービジュアルが公開された。各ビジュアルには言葉が添えられており、春田は「どうして“好き”だけじゃ、ダメなんだろう。」、映画版で記憶喪失になってしまう黒澤は「何度でも、君に恋をする。」、ドSな後輩・牧は「夢を追いかける人であってほしい。自分も、大切な貴方も。」といった具合。
物語を暗示するピュアな言葉の数々に、ファンからは「尊い…」のコメントが寄せられた。
3位「永遠のニシパ~北海道と名付けた男 松浦武四郎~」(NHK総合)30367pt
蝦夷地と呼ばれていた北の大地を幕末に調査し、“北海道”の命名者となった男の人生をドラマ化。明治2(1869)年に命名されてから150年を記念し、北海道で6月に先行放送されたのに続き、7月15日に全国放送となった。松本潤が主演し、脚本を大石静が担当した。
海外列強から開国を迫られ、未曾有の危機にあった江戸幕府。武四郎は、蝦夷地をロシアから守らなければならないと決意し、調査を始める。そして、武四郎は調査の案内を務めてくれたアイヌの人々との出会いから、その文化の豊かさや人々のやさしさに共感していく。しかし、やがて蝦夷地を経営している松前藩のアイヌへの搾取略奪の実態を目の当たりにするようになる。
美しく気高いアイヌの女性・リセ(深田恭子)との出会い、松前藩からの妨害工作、さらには命を狙われるといったなかで奮闘した武四郎を松本が力強く演じた。
放送時間85分に熱き思いのドラマが凝縮され、アイヌの文化についての学びも多く、ワンクールでの放送や大河ドラマで「じっくり見たかった」という感想もあがる反響を呼んだ。
※SNSや独自調査を集計した、今熱い番組を計る新指標(ザテレビジョン)
https://news.livedoor.com/article/detail/16813324/

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8月の「地域プロモーション活動」で「ひがし北海道」を特集

2019-07-23 | アイヌ民族関連
産経新聞2019.7.22 14:20

 JALは、航空輸送事業を通じて、ネットワークを活かした地域特産品の発掘などの地域産業支援や、交流人口の創出による観光振興など、地域の活性化に向けて継続的にお手伝いする「新JAPAN PROJECT」に取り組んでいます。
「新JAPAN PROJECT」では、地域活性化の取り組みの一環として、より深く地域を紹介できるよう、歴史、文化、自然、グルメなどの魅力を月単位でお伝えする、「地域プロモーション活動」を行っています。8月は、ひがし北海道を特集します。
地域プロモーション活動特集ページ URL:http://japan.jal.co.jp/introduction/
1. 機内誌「SKYWARD」 8月号(日本語記事)
日本語記事では、タンチョウ(鶴)の一大生息地として知られる釧路湿原、特別天然記念物のマリモが生育する阿寒湖、先住民族アイヌの人々が暮らすコタン(集落)、空と大地と人と鶴が共存・共生するひがし北海道を紹介します。
https://www.sankei.com/economy/news/190722/prl1907220177-n1.html

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鎖国の実態~実は4つの窓が開いていた シーパワーを持たない徳川幕府の消極外交

2019-07-23 | アイヌ民族関連
日経ビジネス 2019年7月22日 小谷 哲男
 徳川幕府の鎖国は、消極的な外交政策であったと言える。海を通じた異国・異民族との接触を制限することで、幕府の統治を脅かしかねない脅威を取り除こうとした。
 だが、これは排外主義とは本質的に異なっていた。オランダ・清を「通商国」(国交を結ばないものの貿易は承認)とした。朝鮮・琉球を「通信国」(国交を結び、貿易も行う)とし、朝鮮からの通信使、琉球からの慶賀使・謝恩使を迎えた。アイヌとも交易を行った。
 長崎の出島は当初、ポルトガル人を管理する目的で作ったものだった。鎖国にともない、平戸にあったオランダ東インド会社の商館を出島に移した。徳川幕府はこうして、長崎奉行の厳しい監督の下でオランダとの貿易を行い、これが生み出す利益の独占を図った。オランダ船は年に1回のペースで来航した。幕府は長崎を窓口としてヨーロッパの書物を輸入し、オランダ商館長が提出するオランダ風説書によって海外の事情を知った。他方、アムステルダムでは日本の磁器が人気を集めたという。
 幕府は秀吉の朝鮮出兵で途絶えた明との国交を回復させようと努力したが、実現しなかった。だが、明の民間船の往来は途絶えなかった。幕府は中国船との民間貿易の窓口を長崎に限定し、長崎の町では中国人と日本人が雑居するようになった。
 清が明を滅ぼした後、幕府は清との国交樹立を積極的に求めなかったが、長崎には清船が現れるようになった。清は海外貿易を禁止しなかったので、幕府は貿易統制を強化し、長崎に唐人屋敷を建て、清国人の居住を限定した。
 徳川幕府は朝鮮との講和を実現し、1609年に己酉条約を結んだ。これによって釜山に倭館が設置され、対馬藩主である宗氏が対朝鮮貿易を独占した。耕地に恵まれない対馬では、貿易の利潤が封建的主従関係を支えた。朝鮮からの使節は、当初、秀吉の朝鮮出兵で日本に連行された捕虜の返還を目的とした。その後、1636年以降清が朝鮮を攻めるようになると、「援明抗清」を貫く朝鮮は、南方の日本との友好関係の構築を重視するようになった。
 琉球王国は、1609年以降薩摩藩の支配を受けるようになった。薩摩藩は琉球にも検地と刀狩りを実施し、尚氏を王位に就かせた。徳川幕府は、琉球から江戸に来る使節にはみな中国風の服装、中国風の音楽を演奏させた。これによって自らの支配が異国にも及んでいるように江戸市民に対して見せようとしたのだろう。琉球は、1663年から清の冊封も受ける二重の外交関係を持つようになり、北京にも朝貢の使節を派遣した。
 蝦夷地(北海道)では、蠣崎(かきざき)氏が松前を本拠地として道南地域の支配者となった。徳川幕府が蠣崎氏にアイヌとの貿易独占権を与えると、蠣崎氏は家康の旧姓の「松平」と前田利家の「前」をとって松前氏と改名し、アイヌとの交易権を家臣に与えることで主従関係を維持した。
 アイヌは河川流域に集落を形成し、漁猟中心の生活をしていた。その一方で、千島や樺太、中国の黒竜江流域、さらには明・清とも交易を行っていた。アイヌは1669年、松前藩の不正な交易への不満から一斉蜂起したが(シャクシャインの蜂起)、幕府は津軽藩を援軍として送り、松前藩を助けた。以後、アイヌは松前藩に服従することになった。権威を高めようとしたもののシーパワーを欠いた
 このように、鎖国の間も徳川幕府は長崎、対馬、薩摩、松前の4つの窓口を通じて、異国・異民族との交流を維持した。東アジアには、中国を中心とする伝統的な・華夷秩序(冊封体制)とは別に、日本を中心とする国際関係が存在したのである。
 1644年、満州族の清が漢民族の王朝、明を滅ぼした。日本では、これが「中華」と「夷狄」の交代・逆転、つまり「華夷変態」とみなされた。そして、従来の中華思想を否定し、日本を「中華」とする考え方が生まれた。このため、幕府は清との国交樹立に積極的ではなかったのである。
 1711年に新井白石は、将軍の権威を東アジアにおける中国皇帝を中心とする秩序の下に位置づけようとした。その上で、朝鮮に対する日本の優越性を示すために、朝鮮との外交文書で「日本国大君」の称号に代えて「日本国王」を採用した。日本国大君は将軍を示す。華夷秩序では、「国王」の方が「大君」よりも上だからである。
 一方、白石の政治は短命に終わり、8代将軍に徳川吉宗が就くとは再び「日本国大君」を名乗るようになった。これは、中国とは異なる独自の理念に基づいて日本(将軍)が自らを「中華」とし、周辺地域を支配する――という姿勢を示すためであった。もっとも、「征夷大将軍」にとって、「夷」、つまり清や蝦夷や琉球などは征伐の対象である。しかし、「服従の意思を示す限りは実行を保留する」とした。徳川幕府は、将軍の権威を国内で高めるためにこのようなレトリックを使ったのである。
 対外的には、シーパワーを欠く徳川幕府は、周辺諸国との争いを避ける消極的な外交に終始せざるを得なかった。例えば、幕府は薩摩藩に対し、琉球に向かう冊封使を乗せた清船に手出しをせず、清との間で戦争を起こさないように下命している。同様に、明の滅亡後に抗清運動を続けていた鄭成功が援軍と武器の支援を求めてきた時にも、幕府はこれを拒んでいる。幕府はシャクシャインの蜂起の際も、清がアイヌに加担することを恐れた。
 1696年に起こった「竹島一件」、つまり鬱陵島の帰属を巡る朝鮮との外交問題でも、徳川幕府の消極的な外交政策がうかがえる。徳川幕府は1618年から、鬱陵島への渡海免許を発行。日本の漁民がアワビやアシカの漁に出るようになった。これにともない、隠岐と鬱陵島の中間点にある竹島が寄港地となった。だが、鬱陵島に朝鮮人が現れるようになったため、徳川幕府は朝鮮との友好関係を重視し、鬱陵島は朝鮮に帰属するとし、日本人の渡航を禁止した。
 この時幕府が渡航を禁じたのはあくまで鬱陵島だけで、竹島への渡航は禁止しなかった。しかし、韓国はこの時に日本が現在の竹島への渡航も禁止したため「独島(竹島の韓国名)は韓国領だ」と主張している。当時の徳川幕府の消極姿勢が、今日の竹島を巡る問題で韓国に利用されているのである。
 18世紀の後半に始まるロシアの南下により、蝦夷地の防衛が課題となった。幕府はロシアに対しても低姿勢を貫いた。ロシアはラスクマンやレザノフなどを使節として日本に送り、通商を求めた。しかし、徳川幕府はこれをかたくなに拒否。ロシアは、日本に通商を認めさせるには、軍事的な圧力が必要と考えるようになった。その後、ロシアの軍艦が樺太や択捉を襲撃する事件が相次ぐようになった。
 1811年、国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローウニンを日本側が捕らえた。ロシアは報復として日本人の商人を捕らえた(ゴローウニン事件)。幕府は一連の蝦夷地襲撃とゴローウニン事件は無関係であるとのロシア政府の説明を受けてゴローウニンを釈放し、ロシアとの緊張関係を緩和した。
 ロシアの南下に対処するため、幕府は蝦夷地を段階的に直轄地とし、東北地方の諸大名にその防衛を命じた。ただし、蝦夷地の防衛に当たったのは3000人規模の陸上部隊だった。海上戦力でロシア船を撃退するのではなく、沿岸防備に終始した。それでも、蝦夷地の防衛義務は東北諸藩に重い負担となった。1821年に幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。
日本初の海軍を設置
 徳川幕府が消極的な外交姿勢を取ったのは、海軍力の不足が大きな理由だった。幕府は、1635年の武家諸法度で、諸大名が50石籍以上の軍船を建造・保有することを禁じた。それは、諸大名の水軍力を制限して、幕府に抵抗できなくするためであった。
 一方の幕府も「安宅丸」という大船1隻と小型船からなる水軍を保有したにすぎなかった。「安宅丸」は江戸湾の防備に当たったが、実戦を経験することもなく老朽化し、解体に至った。とはいえ、幕府水軍は「中央政権が常備する戦力」という意味で、それまでの私的な水軍とは性格が異なっていた。海軍を「国家が保有・維持する常備軍」と定義するなら、日本に初めて海軍が生まれたのである。
 幕府は、外国が攻めてくるとすれば長崎に侵攻してくると考えていた。このため、九州の諸大名に命じて長崎の防衛態勢を強化した。1647年にポルトガル船2隻が長崎に現れた時は、1000隻の船で長崎港を封鎖するとともに、ポルトガル船を包囲し、退散させることができた。しかし、1808年にイギリス軍艦「フェートン号」がオランダ船に偽装して長崎港に侵入した時には、小型船のみからなる幕府の海軍は全く対処できなかった。
 19世紀に入ると、イギリス船が頻繁に浦賀に来港するようになった。幕府は長らく、来航した外国船に対して薪水や食糧を与えて帰国させる方針を維持していたが、1825年に異国船打払令を出し、外国船の撃退を命じた。武力で威嚇することで、外国船の来航を阻止しようとしたのである。幕府は実際、1837年に浦賀に来航した外国船に砲撃し、退去させた。翌年には、日本人漂流民の送還を兼ねて来航したアメリカのモリソン号も退去させた。
19世紀、日本の周辺も「世界史の海」に
 17世紀に鎖国が可能だったのは、西洋列強のシーパワーが未熟で、西洋とアジアを結ぶコミュニケーション(交通)線が細かったからである。だが、19世紀になると西ヨーロッパの海洋国家がしのぎを削る中でイギリスが海洋の覇権を握り、インドや中国へとその範囲を広げた。一方、シベリア開発に取り組むロシアや、西部の開拓を終えたアメリカも東アジアへの接近を図るようになった。こうして、東アジアに至るコミュニケーション線が拡大され、日本周辺の海は「世界史の海」になったのである。
 シーパワーを伴った西洋列強の出現は、「夷」の上に君臨する征夷大将軍の存在を揺るがす事態であった。江戸時代の将軍権威を高めていた肩書きによって、幕府は「征夷」「攘夷」というかつてない外交上の責任を負うことになった。しかし、幕府にそのような責任を遂行する実力はなかった。
 内憂外患の19世紀前半、幕府が全力を挙げて取り組んだ天保の改革も挫折し、幕府の統制力は失われつつあった。そのような中、薩摩や長州など西南雄藩は、抜け荷、つまり長崎を経ない密貿易によって財政難を克服。洋式砲術を導入して藩の実力強化を図った。鎖国の狙いの1つは、外様諸藩が密貿易を通じて力を付けることを防ぐことにあったが、幕府には抜け荷を取り締まる海軍力がなかったのである。
 幕府の統治は、封建制度を肯定する朱子学に支えられていた。このため幕府は、洋学の導入に当たって、科学技術などの実学に限定した。幕府批判を助長するかもしれない西洋の政治思想の研究は抑圧した。
 だが、幕藩体制が行き詰まる中で、新たな政治思想が生まれてきた。佐藤信淵らが広めた経世論は、諸外国との交易の重要性を説き、鎖国政策を批判した。そして、林子平らが唱えた海防論は、海軍力を強化することで対外的危機に対応する政策を求めるものだった。
 このように、200年近く続いた幕府の鎖国政策は、国外及び国内からの圧力にさらされるようになった。そこに、ペリー提督率いる黒船が来航した。これに続く開国を機に、鎖国によって抑えられてきた海外進出のエネルギーが一気に解放され、明治維新を引き起こす原動力となっていくのである。
 このように、鎖国の間も、4つの窓を通じて徳川幕府は限定的にではあるものの外部と接触していた。幕府は海軍力を増強するのに十分な財源と造船技術を持つことができなかった。ただし、曽村保信氏が指摘するように、江戸を政治の中心に移したことは、その後の日本が海洋国家に向かう上で重要な決断だった。長らく日本の海洋活動は西日本に偏っていた。しかし、江戸湾は豊かな関東平野を後背地に持つ天然の良港である。ここを拠点とすることで、蝦夷地を含む日本全体が海で結ばれることになったのである。
■変更履歴
1ページ目の第6段落、記事掲載当初、「1836年」としていました。正しくは「1636年」です。2ページ目の第4段落に、記事掲載当初、「白石を退位させて」としていました。正しくは「白石の政治は短命に終わり」です。お詫びして訂正します。[2013/7/26 11:15]
 (この記事は日経ビジネスオンラインに、2013年7月26日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。)
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/071700103/

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